「『ジェンダーフリー』ではなく『男女平等』だ」と言うことの危険性

執筆者:マサキチトセ

今日は、ブロガーの tummygirl さんによる「マッチポンプ、あるいは、対立の禁止が対立をつくりだす」というエントリ、及び小山エミさんの「上野千鶴子氏『バックラッシュ!』掲載インタビューのバックラッシュ性」を紹介する。

「ジェンダーフリー」という言葉を「性差の否定」だとして糾弾するバックラッシュ言説に対抗するために、少なからぬフェミニストが「フェミニズムは性差を否定しない」「男女平等を目指す」と言った対抗言説を構築してきた。しかしそこで想定されてしまったのは、フェミニズムが本来優先的に取り組むべき問題が、男女二元論の解体や撹乱ではなく、あくまで異性愛的でシスジェンダー的な「男女」の問題であるということだ。既存の男女二元論に対して疑義を挟もうとする者、そこに不快感や苦痛を感じる者などの存在を優先的に低い位置に置き、「フェミニズム」の外部へと押し出すようなかたちでバックラッシュへの対抗言説を構築しようとしているフェミニストは、そもそも LGBT の問題に関わる関わらない以前に、これまで男女二元論や異性愛のシステムを批判して来たフェミニズムの存在自体をも否定してしまっている。

日本女性学会シンポジウム「バックラッシュをクィアする」

そもそも tummygirl さん他が幹事会にシンポジウム企画を持ち込んだ段階では、「クィアする」対象は(バックラッシュ言説ではなく)バックラッシュ言説に対するフェミニズムの対抗言説であった。それは、上記のような問題関心から発せられた議題だ。にも関わらず、最終的にシンポジウムは「バックラッシュをクィアする」というテーマにすり替わり、むしろ「フェミニストとクィアとが共同してバックラッシュ言説を批判するという枠組みが採用され」てしまった。その点について詳しく tummygirl さんが述べているので、重要だと思う箇所を少し紹介したい。

今回のシンポジウムで明らかになったのは、フェミニズムとは根本的にストレートなものであり、その点において取り組むべき課題の優先順位は究極的には自明、との前提。この前提は、まさにその前提それ自身への批判を、あらかじめ「フェミニズムの正当な内部/本体」には属さないものとして封じ込める、同時に、「フェイニズムの外部に存在する敵」をあらたに作り出してしまう。

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シンポジウム企画を提出した後、企画の意図が少しずつずらされ、批判が少しずつ封じ込められていく様子を、私は苦々しい思いで眺めていました。

私はまったく疑うことなく、「ジェンダーフリー」というのは、<生物学的>性差を含め、男女の性差といわれるものそのものに疑問や批判を投じる態度なのだろうと考えました。

[…]

ですから、たとえば「ジェンダーフリーというのは男女の性差までも否定する過激なフェミニスト思想だ」というような、いわゆるバックラッシュ言説を目にしても、それが大きく的を外したものだとは考えなかったのです。

[…]

ところが、よく良く聞いてみると、どうやらジェンダーフリーというのは「男女の性差は否定しない」ものであるらしい。

[…]

しばらくすると、それこそがジェンダーフリーの正しい理解であり、「性差を否定するというのはバックラッシュ側のいいがかり」である、ひどいものになると、「男らしさ、女らしさを否定するわけではないが、その押し付けに反対する」ことがジェンダーフリーなのだ(03年の女性学会幹事会有志による、『Q&A男女共同参画をめぐる現在の論点』においても、これと非常に類似した表現が確認できる)、さらには、「男女同室着替えとかユニセックストイレなんてトンデモ言説と一緒にするな」というような表現までもが、たとえばフェミニズム系のMLやサイトなどで、頻繁に見られるようになっていきました。

注意していただきたいのですが、ここで私が主張したいのは、フェミニズムは性差を否定すべきだ、ということではありません。そうではなくて、バックラッシュ言説への対抗において、「フェミニズムが既存の性差の形態を否定するかもしれない可能性」というものを、フェミニズム自身が(あるいは一部のフェミニストが)積極的に隠蔽してしまった、ということを指摘したいのです。

バックラッシュ言説がフェミニズムを攻撃するときに動員したのは、互いに支えあう二つの体制、すなわち、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制ですが、そこから逸脱する存在に対する恐怖や嫌悪でした。

ところが、「フェミニズムは男女平等を目指すのだ」「性差を否定しないのだ」と主張したとき、そのようなフェミニズム側からの対抗言説は、バックラッシュを意識するあまり、それらの恐怖や嫌悪を批判するのではなく、恐怖や嫌悪の対象となることを回避する方向に、向かってしまいました。

つまり、その時のフェミニズム側の対抗言説は、いわゆるバックラッシュのロジックとは違う理由で「男女平等」という理念に居心地の悪さを覚えるフェミニストや、既存の「性差」という概念に疑問をいだくフェミニストの主張を、あたかもそれは正当なフェミニズムの主張ではないかのように、扱ったのです。

少なくとも私の理解する限りにおいては、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制とは、まさしくフェミニズムが批判を向けてきた対象だったはずです。先ほども申し上げたように、その点においては、バックラッシュ言説は大きく間違えてはいなかったはずなのです。だからこそフェミニズムは、トランスのために、あるいはゲイやレズビアンやバイセクシュアルと共闘するために、ではなく、フェミニズム自身のために、その二つの体制から逸脱することへの恐怖や嫌悪そのものに、立ち向かうべきだったのです。

今回のバックラッシュ言説がもっとも露骨な形で攻撃の対象とし、そしてフェミニズム側の対抗言説がもっとも簡単に切り離そうとしたのは、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制とを覆す、「クィア」なあり方でした。つまり、そのような存在を、望ましくないもの、切り離すべきものとして扱った点において、フェミニズムの対抗言説はバックラッシュ言説と、無自覚な共犯関係を結んでいたのです。

バックラッシュをかわすためにクィアを切り捨てることと、クィアとフェミニズムが共闘しているというメッセージを送ろうとすることとは、矛盾するように見える。フェミニズムの対抗言説に対するクィアな視点からの批判はクィアからのフェミニズムへの攻撃を意味すると考えることと、そのような批判はフェミニズムの内部分裂であると考えることとは、つながらないように見える。

けれども、これらはすべて、既存の一つの前提に基づく体制を承認するところから出たものであり、その前提と、そしてそれに基づく体制とを、再確認し、再強化する役割を果たすものである、と考えるべきです。その前提とは、フェミニズムとは根本的にはストレートなものであり、そしてその点において、フェミニズムが取り組むべき課題の優先順位は、究極的には自明である、というものです。

バックラッシュの攻撃からカッコつきのフェミニズムを守るためにクィアを隠蔽する、あるいは切り捨てる、という戦術を可能にするのは、何か。それは、もっとも攻撃にあいやすいクィアな要素はフェミニズムにとって不可欠な構成要素ではなく、あくまでも「つけたし」であって、だからそれを切り捨てても「フェミニズム」は存続しうるのだ、という発想です。バックラッシュというフェミニズムの「外部」からの攻撃に際して、フェミニズムの「本体」を守るためには、フェミニズムの外側にくっついているものを一時的に切り離すことになったとしても、まあ仕方ない、ということです。

「フェミニズム」と「クィア」との関係がそんなに単純なものではないことは、明白です。クィアな視点はフェミニズムの「中」にも存在するし、それは、少なくとも一部のフェミニストにとっては、フェミニズムの「本体」を構成する重要な要素なのです。

フェミニズムがクィア的な視座を常に完全に包摂するものだと主張するつもりもありません。けれども、バックラッシュへの対抗言説をめぐる今回の件については、すでにフェミニズムに存在している問題意識、フェミニズムが経験してきた歴史、フェミニズムの練り上げてきたロジックを通じて、十分に批判も検討も可能であるはずでした。

上野千鶴子『バックラッシュ!』掲載インタビュー

小山さんは、実践の現場においてLGBT関連の問題が「ジェンダーフリー」という看板の下で取り入れられたことを指摘し、その点で「ジェンダーフリー」ではなく「男女平等」という言葉を使うべきだという考え方には反対している人もいるということを紹介する。

「ジェンダーフリー」派は、「男女平等」という言葉は男女の違いを前提として「異なる、しかし対等な扱い」を許容するから時代遅れなのだという。しかし『バックラッシュ!』掲載の山口智美さんや長谷川美子さんの論文を読めば、そして男女共同参画基本法以前の日本の女性運動の歴史を学べば、「ジェンダーフリー」派によるこうした議論は間違いだと分かる。ましてや、80年代からはじまっている男女混合名簿(というか、単なるあいうえお順の名簿)推進運動まで90年代以降に起きた「ジェンダーフリー」運動の成果にしてしまう議論に至っては、もはや歴史修正主義に近い(斉藤正美さんによる「ジェンダーとメディア・ブログの 6/16 の記述の [3] を参照)。日本の女性運動が推進してきた「男女平等」という言葉は、決して「性別特性論」などに与するものではなかったはずだ。

ところが、フェミニズム内部で「ジェンダーフリー」に対する否定的な意見が聞かれるようになるにつれ、全く別の面から「男女平等よりジェンダーフリー」を主張する声が聞かれるようになってきた。その代表的な論者が、このブログや斉藤さんのブログでさかんにコメントを寄せてくださっている HAKASE さんであり、『バックラッシュ!』キャンペーンブログでチャットにお招きした筒井真樹子さんだ。ゲイという立場から発言している HAKASE さんと、全ての人に共通のジェンダーライツという観点を提示している筒井さんではやや立場が違うのだけれど、「ジェンダーフリー」にセクシュアルマイノリティの問題や性別二元論を疑う視点まで含めようとする点が共通している。

もちろん「ジェンダーフリー」を最初に考案した人たちは、セクシュアルマイノリティの権利や性別二元論の解体を主張するつもりで「ジェンダーフリー」という概念を提案したのではない。そのことは、「ジェンダーフリー」の初出とされる東京女性財団作製の冊子「Gender Free」がまったく強制異性愛主義を疑わないばかりかそれを前提としていることから明らかだ。しかし実際の実践の現場において、「ジェンダーフリー」の看板の元で例えば学校でレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー (LGBT) の当事者を招いて生徒の前で話をしてもらうといった具合に、一部で先進的な試みが行われたこともまた事実だ。また、「ジェンダーフリー」の意識啓発としてセクシュアルマイノリティに対する差別への取り組みも行われた。にもかかわらず「ジェンダーフリーではなく男女平等」に方針転換するのは、せっかく始まったばかりのセクシュアルマイノリティに関する教育プログラムを頓挫させることになるのではないかと HAKASE さんらが恐れるのももっともだ。

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そう説明した上で、この問題について「ジェンダーフリーではなく男女平等」を掲げる上野千鶴子さんがどのような考えを持っているのかを、『バックラッシュ!』所収のインタビューをもとに検証している。インタビューの中で上野さんがしている様々な発言を取り上げて、小山さんは次のように言う。

どうやら上野さんが「ジェンダーフリーより男女平等」を主張することのかなり大きな要因として、本来なら「男女平等」、特に「ヘテロ女性」の問題を扱うべき(だと彼女が信じている)「男女平等」が「ジェンダーフリー」と置き換わることで、セクシュアルマイノリティに関する教育が可能に「なってしまう」ことへの反発があるのではないかと感じる。非常に残念だし、日本のフェミニズムや女性学の「業界」でこうしたホモフォビックな、あるいはトランスフォビックなバックラッシュ言説が容認されており、反「バックラッシュ」を標榜する書籍にまで登場してしまうというのは、いかに「多様な言説を集めた」本とはいえちょっとわたしの理解を越えている。

この批判に対して上野さんと小山さんのあいだで対話がなされ、その結果がまとめられている

コメント

一方で「二元論を超えるためには『ジェンダーフリー』だ」という考え方があり、もう一方で「『ジェンダーフリー』は性差を否定するものではない」のにも関わらず「そういう誤解があるから、『ジェンダーフリー』ではなく『男女平等』と言うべきだ」という考え方がある。

しかしこれらの考え方は両方とも、「男女平等」を(ある程度)「性別特性論」や「男女二元論」とみなす前提に基づいているのだ。しかし「ジェンダーフリー」という言葉が生まれる前からフェミニズムの中には性別特性論や男女二元論を批判する声があった。更に言えばフェミニズムの中には強制異性愛社会を批判する考え方が多数存在してきたし、「女性」がジェンダーの不正義だけに左右されるのではなく人種や民族、階級、セクシュアリティなどによって様々な影響を受けていることもフェミニズムの内部からずっと指摘されて来たことだ。

そういった歴史を継承することなく「これまでの『男女平等』論ではなしえなかった男女二元論からの脱却」としての「ジェンダーフリー」を主張したり、あるいは救済すべき対象としての「女」よりも優先順位の低いものとしてセクシュアル・マイノリティを位置づけることで自動的に「女」というカテゴリーからレズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダー女性などを追い出し、同時に「女」というカテゴリーに残された女たち(レズビアン・バイセクシュアル・トランスジェンダー女性でない女たち)の日々の生活の中での「揺れ」や「迷い」、「自分の『女』というカテゴリーへの違和感」などを無化することは、フェミニズムの豊富な歴史を捨て去ることであり、もっと言えば、先人たちの実践・理論をないがしろにすることだ。

このように、「ジェンダーフリー」という言葉が引き起こしたフェミニスト言説には問題が多い。バックラッシュ言説に対して「わたしたちはそんな過激なことを主張しているのではない」ではなく、「そうだけど、それが何か?」と少しでも言えたとき、「フェミニズムはその蓄積をきちんと継承して活かしているのだ」と胸を張って言えるだろう。

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