「ジェンダー」概念と女性学

執筆者:山口智美

「ジェンダー=社会的・文化的性差」説?

「ジェンダーフリー」は明らかな誤読に基づいて和製英語として作られた言葉だった。反面、「ジェンダー」は英語にれっきとして存在する言葉である。そして、「ジェンダー」はよく「社会的・文化的性差」などと日本語で訳されている。

だが、私はこれにずっと違和感をもってきた。英語でいう「ジェンダー」は「性差」ではなく、「社会的・文化的な性のありよう」といった意味合いだと思うからだ。そして、 ジェンダー間の関係性、そこにおける権力こそが問題になってくる。「性差」という訳は的外れもいいところで、現在バックラッシュ派にたたかれる格好のネタを提供しているようにも思える。

なぜこの概念は「性差」と誤訳され、それが広がってしまったのだろうか?日本ではいったい「ジェンダー」はどのような意味として解釈されてきたのだろうか?

この疑問のもとに、新聞記事における「ジェンダー」という言葉の登場回数の推移を調べ、グラフと年表を作ってみた。その過程で、どのような女性学の文献が出版されてきたのかの大まかな流れも追うべく、書籍や雑誌記事でどのように「ジェンダー」が登場したのかについても、主だと思われるものについて年表に記載してみた。

その年表に関して斉藤正美さんとのメール議論をしたところ、1995年出版の岩波『ジェンダーの社会学』本、そして同書所載の上野千鶴子論文「差異の政治学」が当時の女性学において、とくに影響が大きかったのではないかということだった。ちなみに、新聞における「ジェンダー」登場頻度も、95年を境に飛躍的に増えている。

そこで、久しぶりに『ジェンダーの社会学』を書棚から取り出して、手にとってみた。いきなり目に飛び込んできたのが、帯の背表紙部分にある、「性差とは何か」という記述であった。そして、帯の表紙部分には「激変する社会をどう読み解くか:知の再生産におけるジェンダー・バイアスを批判的にとらえ、性差の認識および研究方法の転換を迫る」とあるではないか。

驚いた。この帯を見る限り、この本のタイトルである「ジェンダーの社会学」というのは「性差研究」のことに他ならないように読めてしまうのではないか。今更気づいた私もボケていたのであるが、「ジェンダー」に関して新聞など一般メディアで誤訳が作られ流通していたのかとばかり想像していた。だが、実は学者がこの訳を広めていたようなのである。

『ジェンダーの社会学』本文中では、数人の社会学者たちが「ジェンダー」という言葉が一般にどういった意味を持つ概念かを説明している。以下に引用してみよう。

「ジェンダー」はもともと性別を表す文法用語だが、70年代フェミニズムは、自然的とされ、したがって変えることのできないとされた性差を相対化するために、この用語をあえて持ち込んだ。今日、フェミニズムのなかでは「セックス」は「生物学的性別」、「ジェンダー」は「社会文化的性別」を指す用語として定着している ( 上野千鶴子「差異の政治学」1)

ジェンダーとは、現在一般に、「生物学的性別」と区別される「社会的・文化的・心理学的」性別を意味する概念として、使用されている。( 江原由美子  「ジェンダーと社会理論」29)

フェミニズムの問題提起をいくらかでも真剣に受け止めたことのある者なら、ジェンダーという概念がそこで果たす基礎的な役割について、すでになにがしかのことを知っているに違いない。すなわち、それが生得的な性別および性差とは別次元の、後天的に獲得された性差および性役割、さらにはその規範化された社会的体系をあらわす概念であること。・・( 加藤秀一  「ジェンダーの困難」190)

・・もともとあまり馴染みのない言葉であることも手伝って、ジェンダーという言葉が社会的性差の意味で広く用いられるようになるのは、さらにあとのことである。( 瀬地山角  「ジェンダー研究の現状と課題」233)

これらの4人の学者たちの解説をみると、「ジェンダー」は社会的・文化的、心理学的、あるいは後天的な「性別」であったり、「性差」を意味するとされたりしている。上記の解説、そしてこの本の帯の記載を考えると、「性別」と「性差」はほぼ同じような意味合いで使われているかのようだ。

だが、「性別」と「性差」は同じ意味なのだろうか。私の言語感覚では違うような気がするのだ。「性別」というと、例えば「男」とか「女」をカテゴリーで分けることを指す感じがするが、「性差」と言われると、「男」と「女」の間の「差」を指すのではないだろうか。私の個人的印象だけでは心もとないので、広辞苑をひいてみた。すると、「性別」は「男性と女性の別」、「性差」は、「男女の性格特性や性能の差」とあった。「別」はわけること、「差」はちがいを意味する。

また、同じ『ジェンダーと社会学』の中で、大沢真理は「ジェンダー化」という概念について以下のように解説している。

「ジェンダー gender」とは、もっとも簡単にいうと、文化的社会的性別を、”sex”つまり生物学的性別と区別してさす名詞である(くわしくは上野、1995a)。だがこの単語は、最近では動詞としても使われるようになってきた。たとえば、労働をめぐる観念や言説、労働の分析にジェンダーを組み込むという意味で、”to gender labor” と表現する。1 日本語訳すれば、労働のジェンダー化、もしくは労働をジェンダーする、となるだろう。(大沢真理 「労働のジェンダー化」85)

ここで大沢が言うように、上野のジェンダー定義に基づき「ジェンダー化」という表現を解釈するならば、「文化的社会的性別化」になるが、「労働の文化的社会的性別化」といわれても、意味不明である。「ジェンダー」を「性差」「性別」と解釈したことの無理が明らかに出ているといえよう。

では、英語におけるジェンダーはどうか。アメリカの大学生用入門レベルの教科書を見てみた。 私も以前アメリカの学部で女性学の入門クラスを履修したとき使った事がある、Virginia Sapiro, Women in American Society: An Introduction to Women’s Studies によれば、”Gender is best understood as our sociocultural interpretation of the significance of sex.” (Sapiro 64)ジェンダーは「性の重要性についての社会文化的な解釈として最もよく理解される」と説明されている。また、アメリカの人類学の入門講座でよく使われるConrad Kottak Anthropology: An Exploration of Human Diversityという教科書では、ミシェル・ロザルドの定義を使い、”cultural construction of male and female characteristics (rosaldo 80)”(Kottak )すなわち「文化的に構築された男や女の性質」であると説明されている。

日本、アメリカともに、あくまでもジェンダーは生物学的な特性とは異なるものだと区別しているのは共通である。だが、微妙な違いのように思えるかもしれないが、日本での意味は、「分けること」「差異」によりスポットが当たっている反面、英語では、区分自体よりも、区分されることになる「一方の性に付与される性質」の方に目が向いているのではないかと思われる。

日本語での「社会的・文化的性差」は、英語では”gender”ではなく、”gender differences”がより近い訳なのではないかと思う。そして、日本語で「ジェンダー」が「性差」と化し、性別の間の「差異」に焦点が当たってしまったことで、「女」と「男」という2分化したジェンダー構造しか想定しえないというような固定化された価値観がより強く反映されることになってはいないか。

だが、「ジェンダー」は必ずしも「女」と「男」に2分化されるものではない。多様な「ジェンダー」が歴史的にも、そして世界の多くの文化にも存在してきたのだというのが、フェミニスト歴史学や文化人類学によって得られてきた知見のはずである。

「差異」とマイノリティ・フェミニズム

私はアメリカで主に90年代に女性学の大学院教育を受けたが、その際の流行言葉は「女性間の差異」 ”differences among women”であった。80年代のマイノリティフェミニストやレズビアンフェミニストたちの白人ヘテロセクシュアル中心主義フェミニズム批判 を受け、「女性の間の差異」にいかに敏感でありつつ、フェミニズムを作って行かれるのかが重要な議論となっていた。80年代の終わりにカリフォルニア大学サンタバーバラ校で女性学の入門講座を履修したときには、授業全体の1週間だけが「マイノリティの週」だった。それまでどこか人ごとのように感じていた女性学入門講座だが、この週で初めて自分が本当に参加できる内容だと思い、マイノリティ学生たちの経験に基づいた発言に感動したのを覚えている。だが、90年代のミシガン大学では、このような一週間だけマイノリティの週というような授業構成は考えられない状況で、授業全体を「女性間の差異」への敏感な視点に基づいて組み直す試みが続けられていた。アメリカでの「女性学」は、私にとってもより近く、関連深いものになりつつあると感じられつつあった。この状況の渦中にいた私は、上野論文のタイトルを見たとき「差異」というのは「女性間の差異」を含む、多様な差異のことを意味しているのかと勘違いした。90年代に書かれた論文で、 主に「性差」について論じているとは想像もしなかったのだ。

この私の勘違いは、 今になって考えると、実は重要な意味をもっているような気がする。上野の「差異の政治学」論文は、 アメリカ、フランスなどの欧米の理論を紹介することによって、「ジェンダー」概念を説明している。そこで紹介されるアメリカの学者は、精神医学/心理学系のマネーとタッカー、心理学のギリガン、歴史学のスコット、そして哲学のニコルソンとバトラーで、その他にフランスの社会学者のシュルロ、デルフィが紹介されている。この面々は、すべて白人学者なのではないか。 少なくとも、「人種」2/民族的マイノリティの視点を前面に打ち出している学者はいないと思う。

欧米理論を紹介することで「ジェンダー」概念を論じている上野論文において、白人学者しか出てこないというのは、80年代以降のアメリカや他の国々におけるマイノリティフェミニストたちの、女性学や女性運動全体を革命的に変えた動きを完全に落としているということにつながる。 かなり偏った「欧米」の女性学/ジェンダー研究観といえないだろうか。

この重大な欠落は、上野論文での「差異」概念が、(バトラー紹介によって若干セクシュアルマイノリティの視点が入っていると主張できる点はあるかもしれないが)実はいたってシンプルな「性差」でとどまっているということにつながってくるのではないだろうか。

また、『ジェンダーの社会学』という本の中で序論的役割を果たしている上野論文において紹介されている社会学者が、フランスに限定されているということも、不思議である。「欧米」の他の国々、そして欧米以外の国々の社会学者の仕事はどこへ行ってしまったのだろうか?例えば、私が居住しているアメリカの場合、紹介されているのは心理学者と哲学者の仕事に限定されており、社会学者や人類学者3たちの仕事は全く出てこない。アメリカでの「ジェンダー」概念は心理主義、アイデンティティ中心主義と勘違いされそうな人選である。そもそも、70年代のアメリカにおけるウーマンリブ運動に強い影響をうけ、その中から出てきた「ジェンダー」概念だという理解にもかかわらず、マネー、そして80年代のギリガンという流れだけでアメリカの70年代から80年代にかけての「ジェンダー」概念が紹介されてしまうのはかなりおかしい。アメリカの女性学は、性差別社会の変革のために運動から生まれたもののはずなのだが、その流れはどこへ行ってしまったのだろうか。

そして、また不思議なのが、「ジェンダー」概念を解説するのに、なぜ欧米理論ばかりが登場するのかということである。欧米のみならず、日本においても、70年代のウーマンリブ運動から続く女性運動は、「ジェンダー」概念に相当する理論を生み出してきたのではないだろうか?例えば、初期ウーマンリブ運動が提起した、妻や母親などの女役割からの解放という視点、「結婚」制度への疑問、そして「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」がハウス食品ラーメンCM「私つくる人、僕食べる人」抗議で提起したのは、「ジェンダー」の問題ではなかったのか。「私たちの雇用平等法をつくる会」の、労働に関する主張も、「男なみ平等」ではなく、女も男も働きやすい社会へ、というものだった。これこそ「労働のジェンダー化」の視点ではないのか。「ジェンダー」というカタカナ語ではなく、「性別役割分業」や「性差別撤廃」という言葉を使っていたが、提起していた問題はまぎれもなく「ジェンダー」であったはずだ。その女性運動の歴史は学者による「ジェンダー」概念の説明に生かされるべきなのではないだろうか?

脚注

  1. “gendering”という表現はあるが、”to gender labor”というような英語表現は私は聞いた事がない。
  2. 「人種」に鍵括弧をつけたのは、生物学的概念と誤解されがちな「人種」も、実際は「ジェンダー」同様、社会・文化的に構築された概念だからである。
  3. アメリカにおけるフェミニスト人類学に関しては、また別に論考をまとめるつもりである。
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