「ジェンダーフリー」になぜこだわるのか?

執筆者:山口智美

ブログ「ふぇみにすとの雑感@シカゴ」2月4日エントリーに加筆訂正したもの


ミニコミWe1月号に掲載されている、同誌編集長稲邑恭子さんの「編集長だより」、「ジェンダーフリー」その後(2)(1月号掲載 p.63)を読んだ。

私の原稿掲載をめぐる展開を振り返りつつ、稲邑さんは「男女平等とジェンダーフリーのどちらかをえらぶかと踏み絵のようにされてはかなわないと思う」と書いている。だが、「男女平等かジェンダーフリーか」なんていう問いの立て方は、誰もしていないと思う。We11月号「ジェンダーフリー・バッシングなんてこわくない!」特集での上野千鶴子さんインタビューも、私は踏み絵を何も強いているとは読まなかった。そして、私自身も「ジェンダーフリー」概念の歴史をひもとき、そのおかしさを書いたものの、「ジェンダーフリーか男女平等か」の2者択一を迫った覚えはまったくない。

私としては、「ジェンダーフリー」なんていう、曖昧かつ、保守的な言葉として生まれた歴史ももち、現在意味が混乱しまくっている言葉にこだわる必要がどこにあるのかと思っている。そんなわけのわからない言葉より、「男女平等」でも「性差別撤廃」でも「性別役割分担」でも、今まで女性運動がずっと使ってきた誰でもわかる言葉を使うか、あるいはそれらが不適切であるというなら、わかる言葉を作るかしたらいいのではないだろうか。

そもそも、「ジェンダー・フリー」が浸透しているという理解は本当なのだろうか?私の親類縁者やら、学校時代の友人やらを考えても、おそらく「ジェンダー・フリー」といわれてわかる人はほとんどいないと思う。だが、「男女平等」や「性差別」なら確実に通じるはずだし、「性別役割分担」は知らなかったとしても、説明しやすいだろうと思う。

そして、「ジェンダーフリーはもともとバリアフリーをイメージして発案されたヒューストン論文は箔をつけるために引き合いに出されただけの話で、誤読というより、はじめに定義ありき、で、その解釈が日本的になってしまったのではないかと「推測」している。・・」と稲邑編集長は書いているわけだが、ヒューストン論文がは、「ジェンダーフリー」を最初に提唱した当の東京女性財団の報告書がにすでに引用されているというのは、私が稲邑さん編集の『We』11月号でも、1月号でもすでに明記したことである。日本の学者と行政が最初から、アメリカの権威をもってきているのだ。本当に誤読だったのか、それとも故意だったのか、私には知る由もないが、とにかく日本での「ジェンダーフリー」がヒューストンの真意とはかけ離れた意味で引用をされているのは事実だ。

そして、稲邑さんが推測された和製英語説を否定しているのは、ほかならぬ「ジェンダーフリー」を使ってきた多くの学者の方なのだ。私が何でヒューストン論文を読んでみようかと思ったそもそもの理由は、フェミニズム系出版物などの類いで、「ジェンダーフリーは和製英語ではなく、アメリカ教育学で使われてきた言葉」という解説をたくさん見たことである。私はアメリカで女性学を長く学んできたが、ヒューストンという人も、彼女の仕事も全く聞いたことがなかった。最初はまさか、日本で誤読に基づき紹介されているとは露知らず、「そんなに怪しい教育学者がいるのか」と思ったくらいだ。もし「ジェンダーフリー」を提唱しているアメリカ教育学者がいたとしたら、アメリカでは少なくとも誤解を招く表現を使っている学者というのはどのような主張をしているのか、恐ろしい物見たさで興味を覚えたのだ。だが、蓋を開けたら、ヒューストンの主張は日本で言われているものとは、まったく違うものだったという展開だったというわけだ。

「バリアフリー」という言葉でイメージされる「バリア」のイメージは、「なくすべきもの、ないほうがいいもの」である。では、「ジェンダーフリー」は?「ジェンダー」ってないほうがいいものなのだろうか?もし社会から押し付けられた性役割、としての「ジェンダー」の意味に限定するなら、それはないほうがいいだろう。そして、日本で誤訳されているように、ジェンダーが「社会的、文化的性差」だというなら、それだって存在も怪しいものだし、ないほうがいいのかもしれない。

だが、「ジェンダー」には「アイデンティティ」としての意味もある。私が「女」として「女性解放運動」に関わっていることも、私の「ジェンダーアイデンティティ」に基づいているわけだ。ジェンダーは、私のアイデンティティの重要な一側面をなしているのだ。

「ジェンダー」は必ずしも、悪いものとは限らない。アイデンティティをなす、という意味で、物理的な障害を意味する「バリア」とはまったく異なる概念なのだ。

例えば同様に社会的アイデンティティをなす、「エスニシティ(民族)」にあてはめて考えるとわかりやすいと思う。民族に基づく差別は当然なくなったほうがよいわけだし、「なんとか民族だからこうあるべき」などという考え方は真っ平ごめんだ。だが、だからといって「エスニシティーフリー」などと言われたら、特にエスニックマイノリティにとっては「自らのアイデンティティをなくさせようとしているのか」ということになるのではないか。私だって、ここアメリカで、「人種」「民族」的にマイノリティとして、woman of colorとして差別されたりする中で、「レースフリー」を目指そう!なんて言われたら、すごく腹がたつ。アフリカンアメリカンだって、ネイティブアメリカンだって、日本だったらアイヌだって、在日の人たちだって、「エスニシティーフリー」なんてとんでもない!と考える人は多いのではないか。

ミシガン大学のアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)をめぐる一連の裁判闘争においても、アファーマティブアクション反対派の主張のひとつは、「肌の色によって人を区別するのはおかしい」といったものだったのだ。「ジェンダーフリー」という概念が使われることで、「区別はおかしい→積極的差別是正措置をとるべきではない」と論理展開されてしまうれてしまう危険性を私は感じている。このように実際にミシガン大学キャンパスにて、アファーマティブアクションをめぐる運動に関わってきた経験に基づき、「ジェンダーフリー」という表現は政策的に逆効果となり、マズいのではないかと心から感じている。

もう一点。稲邑さんは、悪意に満ちた確信犯分析などより、中間層分析をしてその人たちに届く言葉を考えたほうが有効、といったことを書いている。これは、単に両方重要ということではないのか。確信犯分析して、その論理がいかにおかしいかを暴き、そのおかしさを「中間層」(というのは具体的に稲邑さんが誰のことを指しているのかよくわからないが)に伝えるのも重要だろう。そして、「中間層」が、もし私の親類縁者やら、昔なじみの友人やらをさすのだとしたら、その人たちに「ジェンダーフリー」という言葉は、どう考えても届いていないのではないかと私は思う。

むしろ、「ジェンダーフリー」という言葉の迷走ぶりは、そういう人たちに届かせないために、理解して社会変革なんかに動かないでほしいがために、行政主導で考え出した「わけわからない」言葉なのではないか、というようにすら考えたくなるくらいだ。

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