女性学の権威主義

執筆者:斉藤正美

日本女性学会の『学会ニュースレター』101号(2005年2月)で、伊田広行さんが「ジェンダーフリー概念を捨て去るという退却戦略は有効か?」という記事を書いておられる。そこでは、次のように、「『We』2004年11月号や同時期の研究会などで展開されている、ジェンダーフリー・バッシングに対する『ジェンダーフリー概念を使わなければいい』という上野千鶴子さんや一部論者たちの意見」が批判の俎上に上がっている。私は、『We』紙上には書いていないが、東大での研究会で報告した一人なので「一部論者たち」に入るのではないかと思う。そこで、私の意見が誤解されては困るので対論を出したい。しかし、残念だが、本論に入る前に、伊田さんの主張に、「反対のために反対する人から邪魔されたくない」などといった発言封じの言葉が多いことをまず問題にしなければならない(もちろん、私の主張は「反対のための反対」ではありません。女性学や女性運動の方向性を再考することが目的でした)。

先述した「邪魔されたくない」言い方や、「どのような作用をもたらすかという視点が大事」といった伊田さんの批判は、内部からの異論を封じる効果を持つものだ。「どこを見ての議論か」「どのような作用をもたらすか」・・・ 最近女性学周辺でよく耳にするのが、「敵を利することのない主張をせよ」というものである。封じるつもりはないと言われるかもしれないが、大学で正規の職をとって日本女性学会の理事にもなっている中年男性が「邪魔されたくない」「どこを見ての議論か」などと上から威圧するような言い方をすること自体が、「どのような作用をもたらすのか」ということを考えていない、権力関係に鈍感な主張である。

そもそも、「ジェンダーフリー」概念に疑問を呈することが「どのような作用をもたらすか」については、誰がどのように測定するかによって変わるのではないか。そんな単純に効果がわからないものなのに、それを言われると、なんだか言った方が悪かったという印象を与えることができる。それはなぜだろうか、考えてほしい。

イラク戦争反対運動が高まった時、「戦争反対は敵を利する」として運動を牽制したのは、政府与党である公明党の冬柴幹事長だった。最近、「分裂は敵を利するだけだ」と米単独行動主義への批判が大きいドイツや欧州を恫喝したのは、ラムズフェルド米国国務長官でした。このような恫喝が効果を奏するのは、強者のみだということである。強者が弱者に対して言って初めて効果を持つレトリックなのである。「敵を利するからそれはまずい」と一市民が政府高官に言って効果があるはずがない。「敵は誰か。何が敵を利するか」という戦略上の作戦を熟知している、と自他共に認める人以外がそれを言っても、笑い話にしかならないのである。学会ニュースでこのように言論を封じる効果を持つ主張をすることは、最近の女性学が自らの権力関係に鈍感なことを象徴している。

問題解決に向かうためには、内部からの言論を封じるのではなく、多様な言論を奨励し、よりより主張を編み上げることが重要である。問題は、ジェンダーフリーへの批判が「敵を利するかどうか」ということではなく、「ジェンダーフリー」を導入することによって、社会にある男女の権力関係を変革することができたかという点の検証なのではないだろうか。「ジェンダーフリー」概念については、自粛することなく、もっともっと議論することが大事だと思う。

最後に、最近の女性学会では、男性学者ばかり前に出てくることについても一言言いたい。2002年のポルノグラフィーについての議論のときも男性学者ばかりをパネリストに上げていておかしいと主張したが、なんだか、常に男学者がしゃしゃりでてくるような土壌になったようだ。『論座』や『世界』などがジェンダーバッシングを取り上げる際も、男の学者を起用するようになった。

男の学者に「退却戦略は有効か?」などと女の代理であるかのような顔をしてほしくない。女たちは一体どこに退却したのか。女が退却したことと、女性学の威圧、自粛要請は深く関係していそうだ。女が退却して男女の権力関係の変革は望めるというのだろうか。そのような方略があればぜひ聞きたい。

妥協策であったはずの男も女も共に参画という国の「男女共同参画」政策だが、女性学の現状をみると、誘導されたか、自主的な戦略だったのかしらないが、女性学もいつのまにかこの色に染まっているようだ。

伊田さんは、「ジェンダーフリー」概念を批判した私たちが「誤訳」を指摘したからといって「アカデミアの権威主義だ」という批判をしているが、女への批判に、自分達の中に少数しかいない男を代表に立てて反論する女性学会は、男女の権力関係に則った上で女を叩くという男社会の反撃のやり方を率先して踏襲している。しかも、男学者である伊田さんがフェミニズムの「いきのいい入門書」としてとして推奨しているのがベル・フックスやサンドラ・ヘフェリンといった欧米のフェミニスト本だというのはなにをか況やである。伊田さんや伊田さんの主張を載せた日本女性学会こそ、 《 男>女、欧米>日本 》という既成の文化秩序を利用しているのではないのか。権威主義とは、既成の権力秩序の利用を指すのではなかったか。

「ジェンダーフリー」概念批判は、「ジェンダーフリー」を使わなくて「男女平等」を使えばいい、という主張ではありませんし、間違っても「反対のための反対」ではありません。そんな不利益を被ること、だれだって好んでしたくないでしょう。女性運動が退却するのをむざむざ見ておれず、やむなく行った主張でした。

次は、私が「ジェンダーフリー」概念を批判することでもっとも言いたかったこと、「女性学が行政と密着して女性運動を制覇してきた」という女性運動史再考をテーマにしたい。

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