マサキチトセさんへの応答:「フェミニズム」の射程を狭めてしまう「ジェンダーフリー」擁護と、反「ジェンダーフリー」言説

執筆者:斉藤正美

わたしは、「ジェンダーフリー」は、フェミニズムが重要だと考えてきた性にまつわる差別問題を換骨奪胎させる「罠」であったと考えている。だから、「ジェンダーフリー」を使わない方がよいと考えている。しかし、だからといって、「男女平等」に戻ればいいのだと、現在考えているわけではない。むしろ、「男女平等」という理念に居心地の悪さを覚えるフェミニストや、既存の「性差・性別」という概念に疑問をいだくフェミニストの主張をしっかりととらえることが大事と思っている。無視しても構わないとか、もっと大きな問題があるから大したことのない小さい問題にすぎないとか、「付け足し」に考えればいい、などと考えているわけでは、決してない。
そこで、現在どのように考えているか、<a href=”マサキチトセさんの論考、ならびにtummygirlさんの論考への若干のレスのようなものを書いてみたい。

「ジェンダーフリーはこれこれこういうものなんだ」という形で「誤解を解く」ことでジェンダーフリー概念を擁護しようとする動き、そして逆に「ジェンダーフリーというのは結局のところ『男女平等』の言い換えに過ぎないのだから、『男女平等』に戻せばいい」という言説を作ろうとする動きの両方のパターンに陥って来た。

マサキチトセさんのこの指摘は重要な指摘だと思う。そして、わたしは「ジェンダーフリー」でも「男女平等」でもまずいと思う以上、第三の道を模索・提案していきたいと思う。とはいえ、これぞ、という提案を出すというより、これから議論を積み重ねていけたら、新たな道ができあがっていくのではないかと思うから、これから道をつくっていきましょう、という提案をしたいと思う。同じようにマサキさんの指摘を受け止めている人、以前からこの方向に向いていた人は決して少なくないだろうから。

わたしが考える第三の道は、キーワード(概念)としては、従来「性差別の解消」といってきたものを、「性にまつわるあらゆる形態の差別の解消」とするというものだ。「性差別の解消」は、従来、「女性差別」「男女差別」という意味で「男女平等」とほぼ同じように使われてきた。しかしながら、それを「性にまつわるあらゆる形態の差別の解消」とするのは、「男女」という性別二元論を前提とする考えに依拠したり、異性愛体制を是認し、ヘテロセクシズムを放置したりすることを「性にまつわる差別」とみなし、それを解消することを目的とする人々が共通して取り組むことができるようにしたいからだ。
さらに、「性にまつわるあらゆる形態の差別の解消」という理念的なキーワードだけではまずいので、同時に具体的な対処法や取り組みをも併せて示していくことが不可欠だと思う。その際には、基本法制定の際に大澤氏がやられたというような、相手が気づかないまに「しのばせ型」でやるのではなく、反対があっても正面から説得していく方法を採るやり方をしていきたい。その方が遠回りであっても究極的には目的に到達できる方法だと思うからだ。特に、現在の「男女共同参画」や「ジェンダーフリー」で「しのばせ型」や「妥協型」でぼやっとした形で導入したことのつけが来ている現状をみていると反省材料として強くそう思う。

もちろん、政策決定過程においてどのような困難があるかは、わたし自身地方の自治体でのプラン、条例策定過程に専門委員などとして関わった経験から知らないわけではない。よく知っている。しかしその経験を踏まえても、理念だけにとどまらず、具体的な施策や取り組みとのセットでなければ事態を前に進めることができないと強く信じている。

狭い意味での「男女平等」の達成に加えて、「男らしさ、女らしさ」の概念や男女を自明の前提とする「性別」の概念の問い直しをもその射程に入れるような一連の試みに名前を与え、しかもその全体にタテマエ上であれいわば公的な承認をとりつけるという目的で、一つの用語を採用・使用しようという戦略があったとすれば、それは理解できる。もっとも政府に近い立場で「ジェンダーフリー」という用語を採用した大澤真理氏も、この用語にそのような役割を期待していたように思える。

これはtummygirlさんの指摘であるが、わたしには大澤氏は「男女を自明の前提とする「性別」の概念の問い直しをもその射程に入れるような一連の試み」を明示的示しているとは思われない。それに、具体的な施策も提示して推し進めるということが伴っていただろうか。仮に、あくまで理念的に可能性をもつというのであれば、それに期待しても、このような反発が大きい案件は押し切れないものだ。その点を強く懸念する。すでにtummygirlさんも書かれているように、行政はあくまで「男女平等」を押してくるフェミニズムを脅威と受け止めており、「ジェンダーフリー」を導入したのはそれへの「めくらまし」としてだった、と考えるからだ。

実際にわたくしは行政が「ジェンダーフリー」に「乗った」のは、「男女平等」が怖かったからではないかという疑いを捨て切れませんし。

「ジェンダーフリー」が、仮に理念的にはセクシュアルマイノリティに関する教育や施策を含みうるからといって、実践的な取り組みとの併用でなければ、事態が前に進むとは言えないというのは、わたしの政策策定に関わった経験に基づいて考えていることだ。いくら理念的に可能と言ってもそれを具体的に政策や教育の現場でやっていく対策を伴わなかったら事態は動かないものだ。行政は前例主義だし、自分たちがやりたくないことは法律で書かれていたとしてもやらないで済まそうとする。それに、保守との連携で政策を下ろしてきた経緯があり、保守の反対が生じそうなことをしない傾向をもっている。別の地域では異なるかもしれないが、少なくとも私の住む自治体のやり方はそういったものであったし、そうした手法をとる自治体は全国でも少なくないだろうと予想できる。

だからこそ、保守派が「ジェンダーフリーは家族を破壊するのか」とか「ジェンダーフリーはフリーセックスか」と恫喝することにどう対応するかは重要である。「男女」という性別二元論にあわてて逃げ込んだり、安心な異性愛体制に引きこもるという選択肢はとるべきではない。(私のこれまでの行動がそのように見えていたというtummygirlさんやマサキチトセさんの指摘をありがたく思う。)そうではなく、「ジェンダー」というカタカナ語がもつ、一見「正しい・優れた」思想だという語感を利用してあいまいなまま積極的に使ってきたことを反省し、性の二元制や異性愛制度の問題を広くわかるように提示していくとともに、そうした制度的文化から逸脱する人々が生きやすいようにするにはどうしたらいいかを具体的な施策に落とし込む作業をしていくことが肝要である。つまり、tummygirlさんが以下のように書かれる点に、もっとフォーカスして考えなければならないということだ。

バックラッシュ言説への対抗において、「フェミニズムが既存の性差の形態を否定するかもしれない可能性」というものを、フェミニズム自身が(あるいは一部のフェミニストが)積極的に隠蔽してしまった、ということを指摘したいのです。
バックラッシュ言説がフェミニズムを攻撃するときに動員したのは、互いに支えあう二つの体制、すなわち、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制ですが、そこから逸脱する存在に対する恐怖や嫌悪でした。
ところが、「フェミニズムは男女平等を目指すのだ」「性差を否定しないのだ」と主張したとき、そのようなフェミニズム側からの対抗言説は、バックラッシュを意識するあまり、それらの恐怖や嫌悪を批判するのではなく、恐怖や嫌悪の対象となることを回避する方向に、向かってしまいました。
つまり、その時のフェミニズム側の対抗言説は、いわゆるバックラッシュのロジックとは違う理由で「男女平等」という理念に居心地の悪さを覚えるフェミニストや、既存の「性差」という概念に疑問をいだくフェミニストの主張を、あたかもそれは正当なフェミニズムの主張ではないかのように、扱ったのです。

さらに、バックラッシュ対応だけではなく、政策へのチェックも甘かったことを認めなければならない。従来の自民党の男女共同参画政策についても安易に支持してきたことの甘さを認めるのにやぶさかではない。さらに、今回発表された民主党の政策マニフェスト、特に「こども・男女共同参画」と見出しが立てられていることをみても、異性愛制度バリバリで子どもを持つことが前提に立った政策であり、子どもの保護や教育に強調が置かれている点は従来の自民党の政策と同程度かそれ以上のように見える。その一方、子なしシングル、レズビアン、ゲイなどへの目配りはまったく見られず性の二元制を強化していることに脅威を感じた。トランスジェンダーについても、障がいとして扱うことで「男女共同参画」とは別に配されており、これはまずい、きちんと指摘していかねばと思った。

それに関しては今思うのは、マサキチトセさんが危機感をもって児童ポルノ処罰法反対の発信をあれ や これとやっておられたが、私を含めLGBTI運動以外からの反対の発信が少なかったように思う。単純所持を犯罪化・処罰化するということがどういった波及効果を持つかについて、マサキさんが「国家による規制(所持の犯罪化や検閲)を希求することは即ち国家権力に当該規制対象を表象する独占的な正統性を与えてしまうことになる。つまりどんなセクシュアリティがOKでどんなのはNGなのかを国家に判断させてしまうことになる。」と指摘しておられる点など、やはりフェミニストは危機感が乏しいと批判されても仕方ない面はあると振り返って思う。この点は、日頃わたしが主張している、行政と密着してきたフェミニズムという点とも絡み、行政権力に対する危機感が弱いように思われる。それだけではなく、異性愛や性の二元論からの逸脱に対する制裁がどれほどのものかをよく理解できていないという点も否めないと考える。

雑然としてきたが、まとめると、tummygirlさんやマサキチトセさんが「ジェンダーフリー」を使うことを肯定的に考えておられる点には、実質的な政策を伴わない抽象的なカタカナ語であるため効果が期待できないという理由で同意できないが、その主張の根底にある、フェミニストが性別二元論的な考えをこっそりと支持する側に回ったのはとんでもない、という主張を自分を含むフェミニストに向けられたものとして受け止め、よく咀嚼し新たに動きをつくる側に回りたいと考える。

そして、そのようなフェミニズムの現状を打開するためにわたしが考えられる方策は、「男女平等」に戻るというのではなく、新たに「性の二元制」ならびに「異性愛制度」と「男性標準」を標準的なルールとする現在の文化や規範を見直し、「性にまつわるあらゆる形態の差別」を解消するという考え方を打ち立てること、さらに、それについての具体的な取り組みをフェミニズムを支持する人たちが積極的に始めることであると考えている。しかしながら、理解が足りない点は多々あると思うので、さらにご指摘をいただけたらと願っている。

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