『続・はじめて学ぶ ジェンダー論』についての感想その1(2006年4月16日)

執筆者:斉藤正美

取り上げるのは3月に刊行されたばかりの『続・はじめて学ぶジェンダー論』伊田広行著(大月書店)である。『はじめて学ぶ ジェンダー論』の続編ということだ。「ジェンダー」や「>ジェンダーフリー」「セクシュアリティ」などについてフェミニズム研究などの成果を引き継いだ書とある。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4272350218/250-3073010-1026611

大変興味深いテーマなのでしっかり読もうと思ったが、ちょっと読み進めるだけで、「スピリチュアル」「<たましい>との交流」などがやたら強調され、ジェンダー論とは無関係な言葉があちらこちらに出てくる。細木数子や江原啓之ならちょっと恥ずかしいけど、この本なら・・と女性読者が手に取る自分探し本の一種かと思ったくらいだ。

この本は、歴史的な視点を欠いているし、また「ジェンダー」「ジェンダーフリー」「フェミニズム」「フェミ」「スピリチュアル」などの概念規定が矛盾していることなど気になる点が多い。さらに、「セックス(性的行為)、性的解放について」のところへくると、急に感情があふれる語りになり多弁になる一方、他の箇所では自身の男性性や男性についての記述が少ない。

そこで、「<記述の中に表れる矛盾点に留意しつつ>、<記述に頻出する語彙や表現、記号などのパターンに着目>し、言説に潜在化されている書き手の権力性を検討する「批判的言説分析」の手法を交えながら、この本がどのような考え方や前提に立っているのかについて考えてみたい。

まず、著者が異性愛男や男学者の権力性に無頓着なまま、異性愛女を相手に、一人の異性愛者の男からみたあるべき女性論を語る、しかも、著者はそのようなスタンスのまま、「私のフェミ」などとフェミニズムを僭称しているという疑問をもったのでその点から述べていきたい。

1) 異性愛男の権力性に自覚的でないものをフェミニズムと言えるのか

「私のフェミ」と名乗る著者は、下に引用するように「ジェンダーを考えることは自分の生き方を考えること」、「自分の足元からリアルな視点で考える」(いずれも表紙より引用)と述べる。しかし、本書で語られるのは、決して自らの「足元」である「ヘテロ男学者としての生き方」ではなく、女性の生き方に関することが大半である。

足元からリアルに語っているのは「スローなセックス」(p.144)や「楽しいセックスとそうでないセックス」(p.63)などについてだが、セックス(性的行為)の帰結である人工妊娠中絶の章にくると、孕ませる性である男の立場にはほとんど触れられていない。性教育の章でも、避妊について言及されるのは、「片方の性だけでなく、男女双方がそれぞれ、避妊したり、責任を持つことが大事です。同時に、カップル単位でなく、シングル単位での自己決定が大事です。それは、男女で意見の相違があるとき、自分の体について、決定権があるのは女性本人だということです。」(p.134)というにとどまる。このように男性の立場に見直しをかけないまま、性的解放が奨励されたり、フェミニズムの課題である人工妊娠中絶やDV,セクシュアル・ハラスメントなどについて論じるのを黙って見過ごすわけにはいかない。
私の考える「豊かなジェンダー論(私のフェミ)」は、シングル単位論を基本としたものであり、その視点に立った社会システム全般の変革論、人間関係の変革論です。・・・・・・私は、『あなたの批判しようとしているのは私のフェミではないよ、ぜひ私のフェミを知ってから意見を言ってね。フェミって魅力的だよー、深いよー』というスタンスに立っています。 (p.9 )

「ジェンダーを考えることは自分の生き方を考えること」、「自分の足元からリアルな視点で考える」というように、足元からの現実的な(=リアル)視点を言うなら、男としての女に対する権力性をまっさきに語る必要がある。しかし、男性の立場性を見直すことをせず、自分だけは「スピリチュアル・シングル」(p.8)であることを主張し、女はジェンダーに囚われていると説教する。例えば、「美への囚われ」の章では、女性雑誌を例に挙げ、女は「男に求められてこそ意味がある、モテない原因は、美人/スリムじゃないから、だから化粧やダイエットや服(ファッション)で魅力的になろう、という考え方があるようです。」(p.122-23)と述べる。

縷々述べた最後に、著者は女性たちに問う。「美に囚われているのか、自由に楽しんでいるのか」と・・・。そして、自信がない女が美しく装うことを「非エンパワメント(とても自分に自信がない状態)の上での、あせった行動なのか」(p.123)と諫める。これは余計なお世話だ。装い方くらい自分の好きなようにすればいいではないか。女がジェンダー規範に囚われているという伊田氏ご自身のジェンダー認識こそ問題である。

女たちにもいろいろあり、伊田氏の思うほどジェンダー規範に囚われていない女も多いのだ。伊田氏が、「ジェンダーの囚われ」に気づくために「ジェンダーフリー」を擁護されているのであるとすれば、「女はジェンダー規範に囚われている」というご自身の「ジェンダー認識(囚われ)」こそ真っ先に再考する必要があるのではないか。

その一方で、「『いやらしいの』のは楽しいこと!・・・・・人生は一回だ、楽しみましょう」とセックス、性的行為を謳歌しようという著者が、「中絶にまつわるジェンダー規範や思いこみを打ち砕いていき、当事者が自分を受容できるように援助していくことこそ、『傷』をそれ以上深めない積極方策です」と(p.119)と人工妊娠中絶をした女性の心のケアが「ジェンダーの囚われ」の問題として片づけられている。

孕ませる男性性に鈍感なまま、避妊や性感染症について具体的に触れることがほとんどなくセックス(性的行為)を「楽しもう」と奨励する一方で、人工妊娠中絶をジェンダー規範の問題として語る。これでは男の権力性にあまりにも無神経ではないか。これを「フェミニズム」を呼ぶのはとうてい受け入れがたい。

その他、「オススメ文献紹介」のリストをみてみると、ベル・フックス、姫野かおるこ、北原みのり、角田光代など女性の作家たちが並び、さらに「映像から学ぶ」の列には、『女はみんな生きている』『女ならやってみな!』『アイアン・エンジェルス』『歌う女 歌わない女』など女性監督の作品や女性をテーマとしたものが大半を占める。

このように全般的な内容からは、この本が女性の書き手によるフェミニズム文献や映画を参考にしていることがわかる。それは、この本が女性読者に向けているようにも受け取れる点だ。しかし、この本が、参考にあげる他のフェミニズム本と決定的に違うのは、書き手が異性愛男性であることだ。異性愛男性の権力性をとらえ返すことなく、男学者が女性読者向けに、女性の生き方や意識の持ちようについて意見する。しかも、それを「フェミって魅力的だよー、深いよー」なんて言われたら女の読者はどういう気がするだろうか。わたしには、著者が何をもって「フェミニズムは魅力的」「深いよー」というのか、さっぱり理解できなかった。

同書を読み進めると、「どっかの高みから正義の顔をして」とか「高みから批判」、「高みから断罪」といった常套句が大変多く使われていることに気づく。しかし、このように男であり学者であることの権力性に鈍感なことからして、「高みから断罪している」という批判は著者ご本人に当てはまってしまう。異性愛男性の著者が自らの権力性に無自覚なまま、女が「ジェンダーに囚われている」と断罪する本に「フェミニズム」を名乗られてはたまらないという思いに駆られた。

この本は、テーマも人工妊娠中絶や性暴力など女性たちにとって深刻な問題を扱っているし、章末であげられる「考えてみよう」というワークや「映像から学ぶ」などについてなど全体的に女性のことが多く語られている。このようにこの本のテーマは「フェミニズム」である。しかし、著者は異性愛男性のしかも学者である。そのような男性著者が自らの権力性に無自覚にフェミニズムのテーマを扱うのは、フェミニズムを僭称していると思うのだ。

次回は、この本が 2)「ジェンダー」「ジェンダー・フリー」「シングル」概念が矛盾していることを指摘したい。なお、「ジェンダーフリー概念を捨て去るという退却戦略は有効か?」という伊田氏の日本女性学会ニューズレター第101号(2005年2月)の記事で、「反対のために反対する人から邪魔されたくない」と「上野千鶴子さんや一部論者たちの意見」に対しご批判をいただいた。その折り、書いた対論はここを参照ください。 女性学の権威主義)。

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