『続・はじめて学ぶ ジェンダー論』の感想その2

執筆者:斉藤正美

2006年4月22日ブログ掲載

前回のエントリーで取り上げた『続・はじめて学ぶ ジェンダー論』伊田広行著(大月書店)批判の第二回である。今回は、同書で用いられている「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」「シングル」など出てくる概念に矛盾が多いのでその点をとりあげることにする。


女性/男性問題などについては、行政などが「ジェンダーフリー」や「男女共同参画」のほうをキャッチフレーズとすることが多くなった。しかし、「男女共同参画」は基本法での定義があるが、法律で定義されておらず、裁判で争われたこともない「ジェンダーフリー」や「ジェンダー」はわかりづらい。しかも、これらは日本社会でどのような意味で運用していくか、ということが今だ議論彷彿で定まっているとはいえない。そのため、論者によっていろいろな意味が特にネットであふれ出しており、批判を含めた多様な議論が生まれている。ネット世界でも「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」の意味への関心が高いわけである。

このような社会状況を考えると、上述の「初めて学ぶ」を謳った入門書は、大変注目されるところである。私がこのような批判を行うのは、「ジェンダー」ということばが類似の用語とあわせて、いかなる意味で活用されるのがいいか、ということを考えるからである。女性/男性問題の政策につながる議論として行っているのであり、決して言説にとどまる批判ではない。

2) 「ジェンダー」「ジェンダー・フリー」「シングル」概念の矛盾

本書には、ここで取り上げる「ジェンダー」「ジェンダーフリー」「シングル」のほかにも、「ジェンダーの視点」「ジェンダー・センシティブ」「「ジェンダー・バイアス」「ジェンダー平等」「男女平等」といった、似ているものの少しずつ意味の異なる概念がふんだんに登場する。しかも、それらは登場する場所によって意味が一様ではなかったり、重なっていたりと混乱している。

個々の矛盾点をいちいち列挙しても意味がないので、「ジェンダー」「ジェンダーフリー」「シングル」など本書の主要概念が「性差別の解消」という本書の目的と矛盾がないかという点に軸足をおいてみていきたい。

■1.「ジェンダーから離脱した個人」の押しつけ

まず、「シングル」の説明から入る。以下のようだ。

「私が使う『シングル』という言葉は、独身ということではありません。前近代、あるいは近代社会において皆が信じていた「男とはこういうもの、こうすべきもの、女とはこういうもの、こうすべきもの」というイメージ、役割、アイデンティティ(つまりジェンダー)から離脱した、自立した人のことをいいます。そしてこれからの社会は、そうした人が社会の基本単位とするようなシステムを作るのが合理的だという主張をしているわけです。だから「シングル」という言葉には、「独身」や「単なる個人」という意味合いが入ることもありますが、私の主張の中では基本的には「ジェンダー・センシティブ、ジェンダーフリーという新しい感覚を持った個人」という意味です」(P.9-10)

「シングル」は、「ジェンダーから離脱した、自立した人」でかつ、「ジェンダー・センシティブ、ジェンダーフリーという新しい感覚を持った個人」とされる。「ジェンダー」から離脱した上で「ジェンダー・センシティブ」であることが可能だろうか。そもそも意味がこんがらかってどういう意味か、紛らわしいカタカナの連続で「はじめて学ぶ」読者には考えるのも頭が痛くなりそうだ。ここで頭が混乱してきたので、「個人」についての箇所を探す(ジェンダー・センシティブ、ジェンダーフリーの定義については後述する)。

「自分のアイデンティティも「女性」「男性」におかないという指向が求められます。私は『男としての自分』というような自己認識を徐々に必要としなくなってきています」(P.12)

この一文には驚かされる。「ジェンダー水準に立つなら、つねにこうした男女二分法の限界と差別性を意識しておくしかない」(p.11)というように男である著者が舌鋒鋭く「男女二分法の限界や差別性」を説く一方で、著者が「男性」というアイデンティティを必要ないということに大きな矛盾を感じてしまう。

私は自分が女であることを原点に自分のフェミニズムを語る。社会的に「女」として見られることへの違和感から摂食障害などいろいろ社会的葛藤を経てきたが、ようやく自分の葛藤が女性が差別される「マイノリティ」の側にいることによるとわかった。女が女というアイデンティティを捨てて差別を語ることは考えにくい。

ところが、著者は「男」であるというアイデンティティを何の未練もなく捨て去るという。それは、著者が「マジョリティ」の側に身を置いているゆえんではなかろうか。差別をなくすといいつつ、差別する側とされる側の関係を追求しないで「差別の解消」を訴えるジェンダー論は、根本に大きな矛盾を抱え込んでいる。

読者に「アイデンティティを「女性」「男性」におかないという指向が求められます」(p.12)という主張は、私たち読者に自ら自由であるべき「アイデンティティ」を強要している。先に引用した箇所でも、「ジェンダーから離脱した、自立した人」でなければ、これからの社会で「社会の基本単位」(p.9)としてみなすべきでないかのように読める。人がいかようなアイデンティティを持とうとそれは一人一人の勝手である。自分のアイデンティティくらい自由に決めさせてもらいたい。こういう価値観の強要こそ「ジェンダー」の抑圧といえそうだ。

さらに、著者が男性としての権力性を無視しているという前回のエントリーで述べた本書の欠点は、自ら「男」というアイデンティティを放棄したと著者が思いこんでいることに原因がある。著者曰く「多数派は何も意識しなくても生きていけます。自分の常識はみなの常識であり、『自分と異なるような人がいる』と意識する機会がとても少ないのです。だから自分が多数派だ、権力を持っている側だと自覚さえしないのです」(p.19)。権力や「男」を捨てたと思いこむ著者が女性読者(前回参照)をターゲットに「アイデンティティを変えよ」と強要するのが本書である。差別の解消を求めて、意識の強要をするとはこれまた大いなる矛盾ではないか。

■2. 意識改革で「性差別」は解消するか

「ジェンダー論(フェミ)を「男女平等」理解するようではまったく不十分であるという点を確認しておきたいと思います。私のジェンダー論では、『男女』でなく『ジェンダー』ということの重要性に注意を喚起しています。」(p.10)と述べ、「男/女の二区分(男/女らしさ)を自然視するな、男女二分法で考えるな、異性愛を当然視するなという点がまずジェンダー視点です」(p.10)

「可変的で、大幅に男女で重なり合う部分が大きいにもかかわらず、身体的・肉体的・生物学的差異に過剰な意味づけをして、それが『自然で不変』とし、性別でキレイに二分化してしまう『思考の偏り』『思考の癖』を見直そうというのが、ジェンダーの視点なわけです。その観点に立って、現実の性差別/人権侵害を減らしていく具体策を考え、実行していくのがジェンダー(ジェンダー・フリー)の立場なのです。」(P.31)

「『ジェンダーの視点』で見たときの「偏り/偏見/非対称性」を総称して『ジェンダー・バイアス』と言います。たとえば、性別によって異なる規範意識や性のステレオタイプ、偏見を強固に持ち、それを当然/自然と考え、相手にもそれをあてはめたり、押しつけたりする傾向は、ジェンダー・バイアスのある態度と言えます」(P.33)

「『ジェンダー・センシティブ』とは、ジェンダーに敏感であること、つまり生物学的性差(セックス)だけではなく、社会的性別であるジェンダーというものがあり、それが重要であると見て、一見『自然』に見える事柄(性別による異なる扱いや個々人が持っている性に関わる規範)の中に「つくられたジェンダー」「差別抑圧としてのジェンダー」を見出し、ジェンダー・バイアスを持たずに接する態度のことを言います。」(P.34)

本書の「シングル」「ジェンダー」「ジェンダーフリー」「ジェンダーの視点」「ジェンダー・センシティブ」という概念を引用した。これを見て気づくのはいずれも、「視点」「意識」「態度」など「こころの持ちよう」に焦点をあてていることだ。どういう目線で人をみるか、どういう意識をもつべきか、どういった態度を示すか、という心理中心主義なのである。

先に「シングル」を「新しい感覚」と感性として述べていたが、ここでも焦点があたっているのは、「視点」や「考え方」「思考の偏り」「思考の癖」「偏見」「規範意識」「ステレオタイプ」などに頭の中や心の中の事象である。要するに、「視点」や「意識」などを変えろという教えなのだ。

次の文がさらにそれをはっきりと示している。「不断にできるだけその再生産に加担しないように意識し続けるスタイルです」(p.14)。

これらは、まるで「スピリチュアル」で「シングル」で「ジェンダーフリー」意識に変われば世の中変わるような幻想を振りまいている。しかし、「こころのありよう」を変えることと、複雑多層的な社会において性差別をなくすことの間には相当の距離がある。そこをどうやって埋めるかこそ、重要な課題である。意識を変えることでどうして性差別をなくすことができるのか、その間をつなぐ説明こそ重要なのだが、そこは見えてこない。意識変革が性差別をなくすことにどうしてつなげるかを欠いていては、これは空想的な物語りにすぎなくなる。

著者は「性に関わる差別・権力関係の解消を目指す」(p.25)などと「差別の解消」という目的をもっとも重要視しているようにみえる。しかし、「差別の解消」という目的と「意識し続けるスタイル」の「ジェンダフリー」が矛盾を来しているのだ。

「マイノリティとは、『少数派』『少数者』という意味です。(中略)社会における地位の低さ、力関係における『弱い立場』、支配される側、暴力を受ける側といった、人権において、不利にされている側の総称です。(中略)人類の約半数の女性も大きな構造の中では、基本的にマイノリティのグループです」(P.18)

「マイノリティ自身が、強者の価値観(世間の価値観)を内面化させて自己否定感、コンプレックス、自己嫌悪感を持つことが多いのです。強者の秩序、価値観の中でマイノリティ(負け組、被差別者、社会的弱者)は、差別され、自分の存在が否定されているように感じます。」(P.18)

上で書かれた「シングル」は、現社会ではまだ到達している人が例外的である。その意味では、てっきり「シングル」も「マイノリティ」だと思って読んだが、「シングル」は「強者の価値観を内面化させ、自己否定感、コンプレックス、自己嫌悪感をもつ」マイノリティには含まれないようだ。

本書の「シングル」は、あこがれる対象であるものの実現不可能な空想的な存在と規定されている。これでは、「ジェンダーから離脱した個人」であり、「意識し続けるスタイル」をとる著者本人しか到達できない空想とならざるを得ない。著者が「スピリチュアル」という意味不明の概念を取りいれているのは、「スピリチュアル」を体感できる解脱者である著者のみが「ジェンダーフリー」の世界に到達できると言っているかのようである。これは啓蒙書というより宗教書に近いのかもしれない。

これで「はじめて学ぶ」読者は「ジェンダー」がどういう意味かわかるのだろうか。「深いよ?」と言われても、深みにはまる前に、に混乱に足をとられて前に進む気が失せてしまいそうだ。

本書は、ユートピア的な意識啓発書である。とりわけ女性読者をターゲットにしたスピリチュアル系生き方教本である。このように女性を意識に閉じこめ、脱力させる思想が「フェミニズム」として流布されるのをだまって見過ごすことはできない。

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