イダヒロユキ(伊田広行)氏の『社会運動の戸惑い』批判における学者としてのルール違反

執筆者:山口智美

イダヒロユキ(伊田広行)氏のブログ「ソウル・ヨガ」にて、「小手先のコミュニケーションーー思想の視点がない」という1月21日付けエントリが掲載された。(魚拓はこちら

このエントリの特に後半部分で、書名も著者名も言及されていないのだが、斉藤正美・荻上チキと私の共著本『社会運動の戸惑いーーフェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』への言及と思われる記述がある。

書籍についての批判や意見がきて、それが議論につながることは大歓迎なのだが、今回のイダ氏のエントリに関しては、それ以前の段階で問題がある。学者としての根本にかかわる問題である。

イダ氏は大学の教員であり、現在、日本女性学会の幹事をつとめている。学者として仕事をしてきた人だ。日本女性学会などの学会誌の査読を担当されることもあるだろう。にもかかかわらず、学者であるならば最低限のルールである、出典も示すことをしていない。しかも書籍からそのまま文言を引用しながら、である。

今までも、対象をぼやかして批判を行うということは、イダ氏も、またほかのジェンダー研究者も繰り返して行ってきていることであり、それについては何度も私もブログでも学会の場でも指摘し、「批判をするならソースをはっきりしてくれ」と主張してきた。例えば以下の拙ブログ「ふぇみにすとの論考」のエントリでも何度か扱ってきた。

批判対象をぼやかし続ける伊田広行氏の論(2006年10月16日)
伊藤公雄氏のいう相互批判の「作法」とは?(2006年12月14日)
「ようやく名指し批判が!」と思ったらぬか喜び(2007年10月13日)
日本女性学会ワークショップ『「ジェンダーフリー」と「バックラッシュ」を再考する』をふりかえって(2009年6月28日)
だが、今回、また繰り返されたということになる。さらに今回は今までにも増して、非常に悪質なやり方だったといえる。

なぜ悪質かといえば、鍵カッコを使い『社会運動の戸惑い』からほぼそのまま引用している文章と、同じく鍵カッコを使い引用かのように見せかけながら、引用ではなくイダ氏の作文であるという文と、両方が混在しているからだ。具体的には以下の箇所である。

「保守運動とフェミニスム運動の対立は合わせ鏡のような構図だった」と第3者的に双方を批判。
この文の鍵カッコ内の部分は、『社会運動の戸惑い』、328ページの荻上チキによる「結びにかえて」からの引用だ。オリジナルは「対立は、合わせ鏡」と、読点がはいっているが、それ以外は一字一句同じである。

その後、イダ氏のエントリ内では、同様に鍵カッコを使って、以下の文が書かれている。

第3者的に、「相手に勝手なイメージをつけて不信感ばかりを強化し対立(攻撃)するのでなく、相手をよく知り話し合えば、対話可能だし、理解もできるし、問題解決の道も見える」という凡庸なお説教レベルはみあきた。
ここでの鍵カッコ内の文は、『社会運動の戸惑い』には全く書かれていない、イダ氏の創作であり、イダ氏なりの拙著の解釈のようである。

だが、一方は書籍からのそのままの引用(しかも出典情報皆無)、もう一方はまったく書籍には書かれていない文章を全く同じように鍵カッコを使い書くというのは、読者に著しく誤解を与えるだろう。さらに後者の文に関しては、『社会運動の戸惑い』の著者がそのような記述をしているかのように誤解されかねず、ひじょうに迷惑だ。

そもそも、すでに書いたとおり、学者として文章を書く際に、しかも文献からの直接引用を含んでいる場合、ページ数はおろか、書名も著者名すらも何も言及しないというのは、ありえない。私はアメリカの大学で教えているが、学生が出典情報を示さずに書籍について議論をしたり、引用などしたら、それは確実に剽窃扱いとなり、退学処分になることもあるだろう。引用の際にソースを示すということは、アカデミアにおいてはそれだけ基本中の基本であり、必須とされていることなのだ。

著者について、「現実の経験が浅い」「世間知らずの「いいこちゃん」(お坊ちゃんお嬢ちゃんの作文)」などとすごい言われようなのだが、そういった批判をするなら、もっと具体的に何がどのようにそうなのかを指摘した上で、最低限、文献情報くらい示し、その上で批判してほしいと切に願う。

そもそも、こうした批判対象をぼやかしたり、ソースをしっかり確認しないという状況がいかに大きな問題につながりかねないかを、『社会運動の戸惑い』では記した。それにもかかわらず、その点をまったく受け止めずに、さらに悪化した形で同じ問題を繰り返しているというのは、問題はあまりに深刻だといえよう。

(初出 2013/02/02 1:55 pm)

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