イダヒロユキ(伊田広行)氏の『社会運動の戸惑い』批判に関して(2): 「フェミニスト」とは誰なのか?

執筆者:山口智美

イダヒロユキ(伊田広行)氏のブログ「ソウル・ヨガ」にて、「小手先のコミュニケーションーー思想の視点がない」という1月21日付エントリに関して、もう一点、気づいたことを記しておきたい。

イダ氏は、「保守運動側にあってその言い分を聞き、温厚な人間性(対話の可能性)だと記述し、一定の理解をするがフェミ側へは取材もしないのは」と『社会運動の戸惑い』を批判している。実はこの批判は、イダ氏のほかにも何度か耳にした批判でもある。

だが、『社会運動の戸惑い』においてフェミニスト側への取材は行われている。宇部市のフェミニズム運動に関わりつつ博士号ももっている研究者でもある小柴久子さん、千葉県の「条例ネット」の方々や、堂本暁子前知事、元男女共同参画課長、都城市の旧条例制定にむけて活発に活動を展開した「シエスタ」の皆さんや、女団連の方々、アドバイザーのたもつゆかりさん、元大阪府議の尾辻かな子さん。7章で、フェミニズムとインターネットをめぐる初期の動きについて語りを書かせていただいた井上はねこさんもいる。この方々はフェミニストだと私は思うわけだが、イダ氏にとっては違うのだろうか。

イダ氏にとっての「フェミ」とは誰なのか?東京近郊や関西の学者のみをさして「フェミ」といっているのだろうか。あるいは運動家も「フェミ」だと思っているが、自分の知り合いや仲間ではないと、「フェミ」の枠には入ってこないのだろうか。なぜこのように、イダ氏のようなジェンダー研究の学者自らが、地域で地道に運動に関わってきたフェミニストたちの声や存在を無視してしまうのか。

『社会運動の戸惑い』では、保守派についても、学者や知識人へのインタビューは実はしていない。本書での著者の興味が学者や知識人の声を聞くことではなかったからでもあるし、一冊の書籍で扱いきれなかったということもある。だが、保守側の学者や知識人のインタビューがないことは問われず、フェミニストだけ問われるのも不思議なことでもある。

『社会運動の戸惑い』で誰も女性学系の学者をインタビューしていない、ということは実はなく、インタビューさせていただいたが直接の引用という形では書籍に活用させていただくことができかなかった方々もいる。(巻末の「調査年表」を見ていただくと少々垣間見えるかもしれない)。また、インタビューだけに基づいて書いた本ではなく、参与観察も重要だった。公開のイベントでの学者の方々のご発言内容などについては参考にさせていただいている。

フェミニスト=学者、という理解は、私はまったく違うと思う。だが、もしかしたら女性学やジェンダー研究の中に、中央の学者ばかりを「フェミニスト」と考える思考が無意識にこびりついてはいないか。

もう一点だけ指摘しておきたい。
そもそもイダ氏に「山口智美さんなどはフェミニズムをかなり誤解」と理由も指摘せずに言われたことから、この一連の、何ら発展的な議論にはつながってこなかった不毛な状況は始まっているのだが、今回もイダ氏は斉藤、荻上という共著者と私に、「フェミではない」というレッテルを貼っている。例えば以下である。

フェミの側といっていても実は、フェミの立場ではなく、いい子ちゃんの立場に過ぎない
2009年6月の女性学会のワークショップの後、イダ氏は、「フェミを誤解している」というご発言は「オレのフェミ」についてのことだったとご発言されたという。だとしたら、ここでも「フェミの立場」は「オレのフェミ」の立場、という意味なのだろうか。そうなのであれば、私はイダ氏の立場とは違うだろうからかまわないが、「オレの」をカットされて「フェミの立場ではない」と、イダ氏に私が「フェミ」の枠外として一方的に認定されるのはおかしい。そして、これも以前から、小山エミ氏やマサキチトセ氏のエントリにおいて、イダ氏が指摘されてきた問題でもある。

最後に、イダ氏は当該エントリにおいて「世間知らずの「いいこちゃん」(お坊ちゃんお嬢ちゃん)」として『社会運動の戸惑い』の著者陣を批判しているわけだが、個人的な背景をよく知る訳でもない、学者や評論家として活動するフェミニストを「お坊ちゃんお嬢ちゃん」とからかい、見下すような調子で断罪している。さらに、昨年のエントリにおいて、共著者で女性の学者である斉藤正美を批判する文脈で「憎しみに囚われていて、ここまでよくもゆがめられるなという感じでした。この程度の無茶な読みをブログに書き残していて恥ずかしくないのかなと思いました。」と記載している。女性=憎しみというステレオタイプを持ち出しつつ、ここでも見下したトーンで批判している。こうした見方も、イダ氏にとっては「フェミ」的なことなのだろうか。

(初出 2013/02/03 11:18 pm)

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