ウーマンリブ運動とそのメディア戦略 

ウーマンリブ運動のメディア活動

1970年代のフェミニズム運動のメディア活動を見ると、女性の活動をからかい、矮小化したり、お飾りとして周縁化する「マスメディア」に対し、批判をしつつ、そうしたマスメディアを自らの活動を取りあげる媒体として利用するしたたかさを持っていた。

さらに、利用しようとしてもストレートに伝わらないマスコミを通じた発信に対し、チラシ、ミニコミなどの「自前メディアによる発信」も重視してきた。とくに1970年代には、ウーマンリブ運動(以下「リブ運動」と略す)がマスコミをはげしく批判しつつ、積極的に利用もした(斉藤2003)。

ウーマンリブ運動というのは、1960年代後半から全国で沸き上がっていたベトナム反戦、安保反対などの市民運動、学生運動のうねりの中から起きた女性解放をめざす運動。マスコミや女性学では、「銀座でリブのデモ」をリブ運動の誕生とするなど、リブ運動を東京で活動した運動として取りあげられることが多かった。そのため、運動体としては、東京の「ぐるーぷ闘うおんな」や「リブ新宿センター」がリブのグループとして多くとりあげられているが、北海道の「メトロパリチェン」から九州の「リブFUKUOKA」まで全国の都市部で自然発生的に生まれていた。

全国で起きていたリブ運動については、当時のガリ版刷りのビラなどの資料を集めた『資料日本ウーマン・リブ史 (1)〜(3)』(溝口明代・佐伯洋子・三木草子編、松香堂書店、1992-95年)などがある。山口智美による、リブ新宿センターに所属していたメンバーへの聞き取りによれば、リブ新宿センターは『リブニュースこの道ひとすじ』などミニコミやチラシ出版のために、写植機械を設置し、印刷技術を女性たちが自らもつようになり、それが後の女による印刷業の開業(「あいだ工房」)につながったりもしたという。「あいだ工房」については、女たちの現在を問う会編(1996:242-243)も参照。これも、リブのメディア活動への積極性を示すエピソードである。

なお、1972年にリブグループが共同で新宿に開いたリブ新宿センターでは、避妊、中絶などに関する相談を受け付けたり、デモ・集会、合宿、ミュージカル公演などを企画するなど、1977年まで地域における女の運動の拠点という役割を果たしていた。そうした活動を広報するメディアとして『リブニュースこの道ひとすじ』が大きな役割を果たしていた。

リブ運動の積極的なメディア戦略

リブ運動のメディア戦略については、「からかわれたリブ」イメージが強いためあまり注目されないできた。しかし、実際には、リブ運動はマスコミを積極的に利用しつつ、抗議や批判も行ってきた。例えば、斉藤がリブ新宿センターなどに所属していた運動関係者への聞き取りの際に見せてもらったジャーナリストの人名を書き連ねたノートの表紙には、「重要人名録(ブラックリスト)」というタイトルがつけられていた。そこには、当時のマスコミ関係者で取材に来てい人名が並んでいた。田原総一朗をはじめとして、現在は著名なマスコミ人の名前がそこには並んでいた。それらの男女を問わないジャーナリストたちは、彼女らにとってマスコミへのルートとして重要人物ではあるが、同時にどのように書かれるかわからないという意味で危険人物でもある。そのため、「ブラックリスト」とシニカルなルビを振っていた。

このことは、この時のリブ運動がメディアを単に批判的にとらえるだけではなく、積極的に利用しようということも含んだものであったことを示している。リブ運動は、マスコミ対策としては、批判しつつ活用するという両義的なローチをとっていた。

実際、首都圏のリブグループは初期運動においてリブ大会、リブ合宿などを開催する際にマスコミに積極的に広報する一方で、取材を女性記者のみに限定し、記者から取材費1万円(なお、1970年の大卒初任給は4万961円、はがき7円、封書15円。当時としてはかなりの高額。現在の4-5万くらいに相当)をとるなど確かな戦略をとっていた。

リブ合宿におけるマスメディア対応

1971年8月23日『毎日新聞』夕刊「合宿女館」という8段に及ぶ記事は、長野県信濃平で8月21ー24日に開かれた「ぐるーぷ闘う女」主催「ウーマン・リブ合宿」に参加した記者の報告であった。記事に添付されている写真に映し出されている案内板には、次のような文字が書かれていた。

「マスコミのおにいさんたちへ  この入り口から入ってください。 ビジネス、フリーを問わずいらっしゃった方は受付へ 取材協力カンパとひきかえにワッペンと名札(所属と指名)を差し上げます。ただしカンパをもらったってお見せします、お話ししますにはならない。それを前提に協力します。」

写真下のキャプションは「取材費 カンパ1万円ナリ」とある。

「男はシャットアウト」といいつつ、「おにいさんたちへ」とするのは矛盾してみえる。ただ、筆者が、『女性自身』の記者としてこのリブ合宿の取材に入っていた女性記者Yさんに行った聞き取りによれば、この合宿では夜になると、主催者が何人か遠巻きにいる男の記者たちを一部テーブルに呼んでいっしょに酒を飲んでいるのを見たという。そしてその女性記者は、昼はシャットアウトといいつつ、夜は周辺にいる男性記者たちにその日のことを取材させているというその現実的なやり方に「なかなかやるじゃない」と感心したと語っていた。決して原理的に「男はシャットアウト」を実践していたということでもなく、利用できるものは利用するという現実的な戦略が取られていた。

さらに、『資料日本ウーマン・リブ史 (1)』(330ページ)には、「リブ合宿をもし取材しようと思っているなら、、、」というリブ合宿実行委発の取材関係者へのアピール文が掲載されており、積極的に事前からリブ合宿を広報活動していたことが伺える。

その一方、取材した記者からの反発を含めた批判としては、例えば写真家の上野千鶴子(女性学者と同姓同名だが、別人)からの「やりきれぬリブの『幼児性』」と題する、次のような批判がある。

「集合の異常さに疑問を発する私の言葉は『ナンセンスだド!』と一蹴される。(中略)そして、『マスコミは敵だド』『カメラなんて撮ったらブッコロスゾ』。取材協力費一金一萬円也をとりあげていての発言だからおそれいってしまう」(溝口他編1992:389)

そして、『資料日本ウーマン・リブ史 (1)』でも、取材協力費が1万円だったことは、編者らにより註記されている。

1970年10月-11月の『朝日新聞』都内版は、蜷川真夫記者による積極的な初期報道が掲載されている。それら記事の中には、この当時のリブのマスメディア対応についてもとりあげられてもいる。11月2日「14日にティーチ・イン」という記事には、「参加者は女性に限り、男とカメラはお断りとし、違反者にはバケツで水をかけることもある、という」というリブのメディアに対する方針が掲載され、若干おもしろおかしくというトーンではあるが、見出しにまで取りあげられている。

さらに同紙11月21日「リブとマスコミ」というコラムでは、リブの集会がマスコミ取材拒否であることに賛同する都内女子高校生の意見と、「いずれは、芸能週刊誌まで巻き込んで、インテリだけの理屈だらけの運動にならないようにする方がいい」と、マスコミに目くじら立てないのがリブのいいところ、という集会参加者の声を併記している。男性やマスコミ記者取材拒否か、週刊誌にとりあげられて話題になるほうを選ぶか、リブ運動のメディア対応については、当時から話題になっていただろうことがうかがえる。また、それを新聞で報道していたというのも興味深い。いずれにしろ、当時から、リブ運動のマスメディア対応には、拒否的スタンスと積極的にアクセスという二つのアプローチが存在、あるいは混在していたことは確かである。社会運動のメディア戦略、古くて新しいテーマである。

そして、1971年夏のリブ合宿が新聞や週刊誌などでおもしろおかしく盛大に報道された後に、主催者グループは、早速、報道したある週刊誌企業に抗議に出向いている。それについては、別のエントリーで紹介したい。

女たちの現在を問う会編1996『全共闘からリブへ』インパクト出版会

斉藤正美2003「ウーマンリブとメディア」「リブと女性学」の断絶を再考する?一九七〇年秋『朝日新聞』都内版のリブ報道を起点として」『女性学年報』第24号:1-20

溝口明代・佐伯洋子・三木草子編1992-95『資料日本ウーマン・リブ史 (1)〜(3)』松香堂書店

(初出 2012/09/13 6:12 pm)

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