多様性への考慮が欠けた沼崎一郎『「ジェンダー論」の教え方ガイド』

執筆者:山口智美

沼崎一郎氏による『「ジェンダー論」の教え方ガイド』(フェミックス)は、フェミニズム系ミニコミ誌のWe連載時 たまたま自分の文章が掲載されたため、一定の期間送られてきたので、目を通していたときがあった。そのころからいろいろ疑問を感じる面があった。本が発売されてから一年がたってしまい遅くなってしまったが、とくにこの本を使って授業や講座が行われたりする可能性や、ネットに批判的感想があまりアップされていない現状を考え、やはり私が感じた問題点については書き留めておきたいと思う。

私自身も女性学、ジェンダー関係の講座を教えてきている。沼崎氏と専門分野は同じ文化人類学だ。この本は沼崎氏の女子大での授業の様子を記しているが、「ジェンダー論」というタイトルの講座にありがちな、「ジェンダーとは何ぞや」といった抽象論からではなく、具体的に学生の日常にかかわる問題を扱うという姿勢には共感する。

だがこの点を除き、私は沼崎氏との間には根本的なアプローチの違いを感じた。端的にいえば、沼崎氏のスタンスには、学生たちに「目覚めてもらう」という、上からみたようなパターナリスティックな視点が色濃く感じられるのだ。簡単にいってしまえば「エラそう」ということ。そして、「多様性」はあくまでも「外部」に存在することして捉えられ、自分たちの中にある問題として捉えられていないことである。

もっとも驚いた章で、ある意味典型例なのが、第五章 「ピルを飲まずにHをするな!」である。実用的な性教育 避妊の知識を与えようとして行うセクションであるという。明らかに矛盾しているのが、この「ジェンダー論」の重要なメッセージのひとつが自分のことは自分で決めろ、ということだといいながら、沼崎氏が一方的に「ピルを飲まずにHをするな!」と言い放っていることだ。

沼崎氏によれば、ピルについては誤解と迷信、怖いというイメージばかりが流布しているという。もともとピルに対して偏見をもっている人は、「客観的」な説明をみると副作用のことばかりが目について、ピルは怖いと思ってしまう。このような考え方に基づき、ピルの確実性と安全性を強調するビデオを授業で見せるらしい。そうでなければ、ピルに対する迷信と誤解を打破することはできないというのだ。沼崎氏もピルに副作用があることは認めるが、しかし「軽い頭痛」などの副作用と妊娠(堕胎)を比較したら後者のほうが傷つくので、軽い頭痛くらいあってもピルを飲むべきと主張している。

また、毎月の薬代が3000円かかっても高くないといい、「彼に半分ださせろ」とも言う。学生たちがモノガミーを前提にしたヘテロな関係をもっていると勝手に決め付けているか、そうであるべきだ、という考え方に基づいているのだろうか。そして、口紅や服を買うお金があるならピルを買えとまで言い、学生たちに自らのお金の使い方を反省させ、「ピル購入代」は高いわけではないと思わせようとする記入式プリントまで配布するらしい。「月3000円の出費」は痛くないはずだ、と、学生たちの階級背景についても、勝手に皆が中流で経済的に困難に面してはいないと思い込んでいるようである。

沼崎氏は、ピルの副作用を「軽い頭痛」程度と勝手に決めているようだが、副作用がない人から、あってもたいしたことがない人、そして重い副作用を感じる人まで、個人差があるだろう。また、ガンに過去かかった人や、ガンの家系の人などで、医師がピルをすすめられない場合だってある。ガンになる危険をおかすのか、ピルを飲まないでセックスするかを選べというなら、後者を選ぶ人だって多いのも当然だと思う。そして、沼崎氏はたいしたことがないと言っているようだが、毎日の頭痛だっていかに辛いことだろうか。沼崎氏の論理に従えば、ピルを飲めない状況にある人は、セックスするなということなのだろうか。ピルのみならず、コンドーム=ラテックスアレルギーの人だっているだろう。個人個人に適した避妊法を使っていくことが重要なのであり、一律に「コンドームとピルの併用をしないならセックスするな」と言い切れるのはどうしたことか。とにかく、知りもしない他人の体のことなのに、よくここまで言い放てるものだ、と思う。しかも、「教員」としての権力がある中で、だ。

私自身はピル反対論者ではなく、ピル解禁をめぐる議論の際には解禁を支持していたくらいだ。だが、副作用はもちろんあるわけだし、ピルを服用するかしないかは個人の身体によっても、状況によっても、変わってくる選択だろう。他人にむかって、「副作用があってもピルを飲むべき」などとはとてもいえない。そして、ネットを検索すれば、製薬会社によるサイトなどでピルに関して好意的な情報を、ピンクなどのかわいらしい色合いを使ったりしながら掲載している場合が多い。ピルに関して「否定的な情報ばかり」とは、何に基づいていっているのか疑問である。

また、以前イダヒロユキ氏の「ジェンダー論」についても書いたことだが、「女子学生」たちが、中流でヘテロセクシュアルだという前提(思い込み)にたって授業をすすめているようなのだ。女子大の教室にレズビアンやバイセクシュアルの学生たちがいる可能性は考慮されていないようである(少なくともこの本からはみえてこない)。たとえば、授業中配布されるプリントに「彼とあなたはいい関係?」などといったものがあるが、「ヘテロセクシュアル女性」の学生以外には当てはまらない内容である。自分に関係のない内容のプリントを、自らの経験に基づいて書けといわれてしまった学生たちは、どう思うのだろう?

そもそも、100人以上もの大教室での講義にもかかわらず、セクシュアルマイノリティがいないと思い込むほうがおかしい。セクシュアルマイノリティのことは授業のネタとしては扱われても、あくまでも自分たちの近くにはいない、特殊な人たち扱いで、自分たち自身の問題として考えられていないようだ。 また、妊娠しない身体の人たちだっているだろう。その人たちの存在も少数派だから考えなくていいのだろうか。

他人の身体について、一大学教員が口出しすることなど当然できないはずだ。それよりもできうる限りの手に入る情報をあたえ、偏っている可能性があるならそれについて議論し、批判的に考えることも経験しつつ、多様な経験を共有しながら、自分で自分の体についてどうするか決めていくことができる力をつけるのが、「ジェンダー論」のあり方ではないのかと私は思う。

(初出 2007-12-29 「ふぇみにすとの論考」

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