カテゴリー: エントリ紹介

「生活保護とクィア」とフェミニズム運動

女性の貧困問題、労働問題については、フェミニズムには膨大な運動や言説の歴史がある。しかし一方で、現在のフェミニズムにおいて、この問題がどこまで主題として、あるいは主題でないにしても重要なフェミニズムの課題として認識されているかは分からない。非正規雇用がとてつもなく多い女性の労働問題に本来敏感でなければならないフェミニストもまた、NPOや大学内、その他あらゆる組織内で、労働者を搾取していることだってある。また、その中で労働者としての権利を主張することを控え、沈黙、あるいは抵抗の手を緩めているフェミニストもいる。更に、抵抗の声を上げたフェミニストに対して、その声を潰そうとしたり、懐柔しようとするフェミニストもまた、いる。そんな様子を現場で、あるいは端から見て、介入しようとしたり、介入を踏みとどまったり、あるいは目に見えない形で介入を試みるフェミニストもいる。

様々な立場の、様々な文脈での、様々な動きがあるフェミニズムにおいて、もう1つ忘れてはならないのは、そんなフェミニズムと労働・貧困問題の歴史の中で、常にクィアな女性が存在してきたということだ。

クィアな女性であることには、もちろん、「レズビアン」女性であることや、「バイセクシュアル」女性であること、「MTFトランス」であることが含まれる。もっと言えば、「レズビアン」や「MTF」、「トランス」という言葉を使わない人たちも含まれるし、積極的に「ダイク」という言葉に意味を込めて自称している人や、「女性」という名を引き受けつつ「FTX」や(最近では)「Xジェンダー」を名乗る人も含まれるだろう。逆に時代を遡れば、あるいはある種の文化の中に目を向ければ、「オナベ」「オカマ」という言葉で自らを認識している人も含まれるかもしれない(教科書的には「オナベ」や「FTX」を「女性」と呼ぶことは間違いなのだけれども)。

そして、クィアであることは、労働者としての権利をないがしろにされたり、貧困に陥ったりするということと、無関係ではない(そんなことは、これまで労働・貧困の問題に携わってきたクィアな女性にとっては、一目瞭然のことだろう)。クィアであることは、女性であることや、外国籍であること、日本語でのコミュニケーションが難しいこと、障害を持っていることなど、様々な要因がある中で、更に1つ、困難への道を開く要素となっている。

貧困の問題、非正規雇用の問題、派遣切りの問題などがメディアで取りざたされるようになってきた中で、これまでもずっと非正規雇用の割を食わされてきた「女性」の貧困問題ではなく、「これまでは正規雇用で普通にやってこれた」ような男性が新たに貧困状態に追いやられて行くことにばかりメディアの注目が集まることに、わたしたちは、強い違和感、あるいは絶望的な既視感を感じてきた。

そして、この、貧困問題や労働問題への主流な介入がすべての者を「男性」とみなした上で行われているような状況(それは必ずしも真実ではなく、女性の貧困問題に積極的に携わっている人がいることは事実だが)は、同時に、すべての者を「異性愛者の、シスジェンダーの男性」とみなすような状況であるということも、忘れてはならない。

「女性とは、誰のことなのか」と自問してきたフェミニズムは、「男」「女」という2つの立場があるという前提でのみ社会変革を試みてきたわけではない。むしろ、そういった枠組みの外に出て、積極的に多様な身体、多様な欲望、多様なアイデンティティ、多様な社会的立場の問題を考えることのできる可能性に満ちたものである。そしてそれは、現在「クィア」という言葉で表現されているような存在の仕方についても目を向けるような素地が、フェミニズムの歴史の中で生まれていたということである。

クィアとはフェミニズムのことではないし、フェミニズムとはクィアのことではない。けれど、クィアという言葉が現在のように政治的に使われだした背景にはフェミニズムの存在が大きかったというのも事実であり、反対にクィア運動や理論によってフェミニズム思想が大きな影響を受けてきたことも事実である。

以下に紹介する拙稿「生活保護とクィア」は、下書きの段階では「LGBTなどを含むクィアな人々」を読者層と想定して書いたが、掲載先のシノドスの編集を経て、必ずしもクィアの問題に詳しくない人であっても社会保障に関心がある人に読んでもらえるのではないかという文章になった。しかし、いくつかある後悔のうちの1つは、フェミニズム運動・女性運動や思想にきちんと言及しなかったことだ。

そこで、ここに紹介することで、クィアと生活保護の問題が、フェミニズム運動の歴史ともつながっていること、フェミニズム運動の中にも常に存在した問題であったことなどを、強調しておきたいと思った。

シノドスに掲載されたことで、クィアの問題に関心がある人だけではなく、様々な人に読んでもらうことができた。そして、現在LGBT運動に携わっている人からの反応も頂けた。ここで更に、フェミニズムの歴史に詳しいと自信をもって言うことなど到底できない私の文章に、フェミニズムに携わっている人、フェミニズムとともに歴史を歩んできた人などから、フィードバック、突っ込みなどが頂けたら、と思っている。

「生活保護とクィア」 http://synodos.jp/society/4252

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『社会運動の戸惑い』発売記念の座談会の様子が公開されました。

『山口智美・斉藤正美・荻上チキ著『社会運動の戸惑い』発売記念・ステマ大会(ウソ』と称して、共著者である山口智美、斉藤正美、荻上チキにくわえ、当サイト運営者のひとりでもある小山エミの4名が座談会を行いました。その様子は、

『社会運動の戸惑い ー フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』特設ページ

の「この本について」よりご覧頂けます。

(初出 2012/10/30 1:22 pm)

『社会運動の戸惑い ー フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』特設ページ開設!

勁草書房より、当サイトの運営者である山口智美・斉藤正美・荻上チキの執筆した『社会運動の戸惑い ー フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』が出版されます。当サイトではこの書籍に関する特設ページを開設致しました。

→特設ページはここをクリック←

特設ページには紹介文のほか、詳細な目次を掲載しております。
今後コンテンツを追加して行く予定ですので、皆様どうぞお楽しみに。

また、特設ページはコメント機能やトラックバック機能に対応しております。
どうぞご活用ください。

(初出 2012/10/26 4:34 pm)

山下渉さんによる、「mixi内でのバックラッシュをめぐる議論に関して:「社会運動とネット、メディア研究会」報告内容メモ」が公開されました

執筆者:山口智美

当サイトに、ゲスト投稿者として、山下渉さんが2009年12月26日に東京で開催した「社会運動とネット、メディア研究会」におけるご報告の内容のメモをご寄稿くださいました。

mixiの「フェミニズム」コミュニティの管理人のご経験をもたれる山下さんからみた、mixi内での「フェミニズム」をめぐる議論についてまとめたものです。

山下さんの上記研究会でのご発言は、山口智美・斉藤正美・荻上チキ『社会運動の戸惑い:フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』(勁草書房2012年)の第七章「フェミニズムとメディア、インターネット」の中で、一部引用させていただいています。このメモは、そのご報告の全体をカバーしているものです。
以下のリンクからご覧ください。

mixi内でのバックラッシュをめぐる議論に関して:「社会運動とネット、メディア研究会」報告内容メモ (山下渉)

この山下さんのエントリへのご感想等は、上記エントリのコメント欄、もしくはTwitterハッシュタグ#tomadoiを使ってお願いいたします。

(初出 2012/11/09 10:56 pm )

無邪気で戦略的なジェンダーコロキアムという場ー上野・澁谷の爆笑トーク

執筆者:斉藤正美

東大ジェンダーコロキアムがWANと共催で2010年1月13日に開催した「新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美「男(の子)に生きる道はあるか?」」を動画で視聴し、無邪気で戦略的なジェンダーコロキアムという場ー上野・澁谷の爆笑トークというエントリーを書きました。

本サイトにアップしている「『ジェンダー・フリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」という集会は、2006年12月16日にこのジェンダーコロキアムで行われたものです。山口智美さんとともに、上野さんに企画提案したものです。実施後、テープ起こしした内容や配布資料などをこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにアップしたものです。

今回のエントリーは、現時点でわたしがジェンダーコロキアムという場のイベントをみての感想を付け加えたものです。

なお、「『ジェンダー・フリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」という集会をジェンダーコロキアムで行うことになった詳しいいきさつについては、山口智美さんの主流フェミの連帯誇示と権威発動の場としての「ジェンコロ」に書かれているので、そちらを参照していただきたいと思います。

WAN 掲載記事の紹介&書くことになった経緯

執筆者:マサキチトセ

先日 WAN (Women’s Action Network) の「よみもの」欄に寄稿したところ、早速受理され、今日既に掲載してもらっているようだ(すんげー早い!)。タイトルは「わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」(2011年5月16日追記:URLが変更されていたので新しいものと差し替えました)というもので、 1/13 に行われたジェンダーコロキアムと WAN の共催イベント『男(の子)に生きる道はあるか : 新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美』の映像を観ての感想を書いた文章。ちなみにその映像はこちら:

http://www.ustream.tv/flash/video/3946597

よろしかったら他の方が書いている感想もどうぞ。(順番はアップされた順、たぶん)

書くことになった経緯

そもそもボクは WAN の問題については積極的にネット上で何か言うつもりはなく、個人的なブログにしろこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにしろ、一切文章をアップするつもりはなかった。それは、そもそも動画の内容が脳天を突き破るような、あるいはじっくりと時間をかけて肉を溶かす猛毒のような、さもなくばその両方であり、書く気力も出ない状態だったから。 tummygirl さんが先陣を切ってブログ記事にしているのを横目に、「あぁ偉いなあ。そしていい文章だなあ」と涙ぐむだけのあたし。

そんなときに山口智美さんに「っていうかマサキくんって WAN の呼びかけ人? 賛同者? だったよねー」と言われて、固まる。「えー!? あーーー、そうだったかもー!」くらいの記憶力(<研究者志望として、あるいはそれ以前に運動に携わるものとしてダメ)で、見事に忘れていた。ネット上を検索しても当時の呼びかけ人のリストが見つからず、でも確かに智美さんはリストにボクの名前を見たと言うし、呼びかけ人にだけ配信されて来たはずの準備会MLというものも、しっかりメールボックスに届いていた・・・。

「全くもう、バカだなぁ WAN は(笑)」くらいで、後はもうスルーしようと思っていたのに、何と自分が呼びかけ人として参加している団体だったなんて! という驚き、というかもはやショックで、これはもう、呼びかけ人として賛同した者の責任として何かしないわけにはいかないだろうと思った。

今でもボクは WAN はつぶれればいいとか破綻しちゃえばいいとか、あるいは存在を忘れられてしまえばいい(プレゼンスが下がればいい)とか、そういう風には思っていない。使い方次第でいかようにも使えると思うし、リソースが集まっているのはある意味では有益なこともあるだろう。その分例えば、アマゾンのアフィリエイトを使っている B-WAN のように、リソースをこぎれいにスマートにまとめられるシステムを利用しているからこそ、そこからこぼれ落ちる情報(アマゾンに無い本とか、自費出版の冊子とか)が更に周縁化されて行き、作り手も減るという問題はあるけれど。

とにかく当時呼びかけ人になった時のスタンスと、今のそれは、大して変わらない。 WAN に日本のフェミニズム、あるいは日本語話者による/対象のフェミニズムを代表させてはならないし、そういう意味で WAN が大きくなって影響力を持つようになることは避けたい。けれどネットを検索すればとりあえず WAN くらいはひっかかるよ、という程度に、つまりとりあえずのきっかけとして、とっかかりとして WAN に出会う、という程度になって欲しいという希望はあるし、同時に、昔からフェミニズムに関わって来た人たちにとっても、より「使える」リソースになって欲しいとも思っている。ボク自身が今回 WAN に投稿したのは、 WAN におけるそういうリソース作りへの関与を怠って来た自分に対する反省の意味も強い。

もちろん何が「使える」リソースで何が「使えない」リソースなのかというのは議論の余地があるけれど、それはボクが信じる限りのところを、口を挟んで行く(投稿したり、意見したり?というところで)という方法しかないかなと思っている。だからこそ今回は、例えば「 WAN のやったイベントは、異性愛中心主義的だった!」と思っても、呼びかけ人であるボクは外部のブログからそれを批判することは出来ないと感じた。やるなら内部で、つまり WAN のウェブサイト上でやるべきなのだし、恐らくこれまでもやるべきだったのだ。

「フェミニズム」の射程を狭めてしまう「ジェンダーフリー」擁護と、反「ジェンダーフリー」言説

執筆者:マサキチトセ

前回「『ジェンダーフリー』ではなく『男女平等』だ」と言うことの危険性」に書いたように、「ジェンダーフリー」概念を擁護する言説と「ジェンダーフリー」は有効ではないからきちんとフェミニズムの根本的問題に戻るべきだとする言説が、両方ともある種の罠にはまってしまってきたのが現状だ。というのも、「罠」はもちろんジェンダーフリー・バッシングが問題設定を「男女平等」「LGBTの権利獲得」「性の二元的慣習からの脱却」「教育におけるマイノリティに関する試み」など全ての論点をひっくるめて「ジェンダーフリー」として、そのうち特にクィアなもの、すなわち「同性愛・両性愛」に関する部分や「トランス」的な部分というものを攻撃することで同時に、「男女平等」という現代では反対する声を挙げづらいところにまで範囲を広げてバッシング可能にするような言説を作って来たことを意味する。そして少なからぬフェミニストがそれに対して反論を試みて来たが、それは前述の通り「ジェンダーフリーはこれこれこういうものなんだ」という形で「誤解を解く」ことでジェンダーフリー概念を擁護しようとする動き、そして逆に「ジェンダーフリーというのは結局のところ『男女平等』の言い換えに過ぎないのだから、『男女平等』に戻せばいい」という言説を作ろうとする動きの両方のパターンに陥って来た。

バックラッシュ言説が(恐らく意図的にではなく)かけたこの「罠」に同性愛嫌悪やトランス嫌悪をはじめとする「クィア蔑視」が強烈に入り込んでいたことは一目瞭然だ。しかしそれに対する一部のフェミニストからの応答は、そのクィア蔑視的な土俵の罠にまんまとはまることで、実質クィア(クィアな人であり、同時に、クィア的なもの)を排除するものだった(例えば『バックラッシュ!』所収インタビューでの上野千鶴子さんの意見)。バックラッシュ言説からの攻撃に対して、無難な「男女平等」論(あるいは無難な「ジェンダーフリー」)以外をフェミニズムから取り外し「それはフェミニズムではなく、あちらのクィアな人たちに向かってやってください」と土俵の外を指差し続けることによって、バックラッシュによる攻撃の大部分を避けてしまったのだ。言うなれば、これは「おいジェンダーフリー(同性愛奨励、男女同室着替え推進、男女平等推進、 etc.)、かかってこいよ」という怒号に対してフェミニズムが果敢に立ち向かった土俵ではなく、クィアを蔑視する人たちが一緒になって「あれって嫌よね」「そうよね、クィアって言うんですって」「理解できないわ」とクスクス言い合いながら、無難な「男女平等」論(あるいは無難な「ジェンダーフリー」)についてのみたまに言い争いになる(そのときもまた、「だってお前らは同性愛を奨励してるじゃないか」「してないわよ!」みたいなやり取り)だけの土俵になってしまったのだ。

そうして罠にはまったフェミニストは、「誤解を解く」アプローチと「男女平等に戻す」アプローチのどちらを採用した場合も、「フェミニズム」の射程を狭めることになってしまった。それは、意図的ではないにしても少なくとも効果的には、「クィア外し」というかたちを取って行われたのだ。

このような状況について具体的に問題提起をしているブロガーとして tummygirl さんを前回取り上げたが、「取り上げるならそのエントリよりもこっちのエントリでしょ」という突っ込みを頂き、実際に読んでみたら確かに素晴らしいエントリだったので、良エントリ紹介としてここに載せる。また、この文章での tummygirl さんの批判の一部は当サイトにも当てはまる。だからボクたち『歴史と理論』サイトの関係者は tummygirl さんの批判についてどのように応答出来るのかを考えなければいけないし、きちんと応答出来ないのならばボクたち1 もまた「罠」にはまっているということだろう。

以下、例のごとく抜粋する。 tummygirl さんの他のエントリや、他の人のエントリも少しだけ下の方に紹介している。ちなみに見出しには、 tummygirl さんのエントリのタイトルをそのまま使っている。

「ジェンダーフリーは性差の否定を否定するべきか。」

わたくしは今でも自分ではジェンダーフリーという言葉は使わない。けれども、狭い意味での「男女平等」の達成に加えて、「男らしさ、女らしさ」の概念や男女を自明の前提とする「性別」の概念の問い直しをもその射程に入れるような一連の試みに名前を与え、しかもその全体にタテマエ上であれいわば公的な承認をとりつけるという目的で、一つの用語を採用・使用しようという戦略があったとすれば、それは理解できる。もっとも政府に近い立場で「ジェンダーフリー」という用語を採用した大澤真理氏も、この用語にそのような役割を期待していたように思える。そして、実際にそういう方向で「ジェンダーフリー」が使われてきたのであれば、それはこの用語がその目的の一端を果たしてきたということだ。学術的にこの用語が曖昧であろうと、それが和製英語であろうとそうでなかろうと、「もともとの」意味がどういうものであろうと、「ジェンダーフリー」という用語が役に立つならばどんどん使えば良い。

もちろん、多くの人々が指摘しているように、女性差別的な制度や構造の解体あるいは改善(狭い意味での男女平等)に向けた努力も、「らしさの押し付け」への批判も、「男/女らしさとは何か」という問題提起も、「ジェンダーフリー」導入以前から、この用語とは無関係に行われ、一定の成果をあげてきた。それに加えて、ジェンダー/クィア研究に従事する研究者から、あるいはLGBTのアクティビストから、<男>と<女>とを自明の前提とする性別のあり方それ自体の問い直しの試みも、確実に進められてきていた。これらの多様な試みは「ジェンダーフリー」という用語によって可能になったり開始されたりしたものではなく、むしろこれらの試みを幅広く指し示しうる用語として、そしてさらにそれらの試みが社会的・制度的な後押しを得るための手段の一つとして、「ジェンダーフリー」という用語が使用されたという方が、正しいだろうと思う。

リンク

「ジェンダーフリー」が狭い意味での「男女平等」を超える射程を持っているというまさにその点が、非規範的なジェンダーやセクシュアリティへのフォビアを煽る形で(「ジェンダーフリーは人間を中性化する/性同一性障害を生み出す/同性愛者・バイセクシュアルを生み出す」)、「ジェンダーフリー」総体に対する攻撃を容易にしてきた。

[…]

重要なのは、「男女平等への反対を表明する」ことが少なくともタテマエとしては駄目なことになっていたのに対して、非規範的なジェンダーやセクシュアリティへのフォビアはより強固に存在していたし表明しても良いものだと考えられており、したがってそれがもっとも攻撃しやすい、もっとも容易なターゲットになったということだ。そして、「ジェンダーフリー」が多様な試みを包括的に示しうるある種必然的にあいまいな用語であったことで、もっとも感情的な拒否反応を引き起こしやすい試みを通じて、既により広範に受け入れられていたはずの試みをもまとめて攻撃することが、可能になってしまった。

このような状況のもとで組み立てられようとしている「ジェンダーフリー・バッシング」への対抗言説の一つ一つにおいて、それが「ジェンダーフリー」の歴史的役割を肯定しているにせよ批判しているにせよ、「ジェンダーフリー」の概念なり用法なりをどのように規定しなおしているのか、望ましいフェミニズムの(あるいは場合によっては「ジェンダーフリー」の)あり方をどう表現しているのかを見ることはできるし、そしてそれらの規定や表現がどのような効果を持ちうるのかを考えることはできる

[…]

ネットやML上でよく見かける「ジェンダーフリー・バッシング」への対抗言説は、大きく二種類に分かれる。

一つは、「ジェンダーフリー」という用語の使用それ自体に誤りがあったのではないかとして、「ジェンダーフリー」ではなく「男女平等」「性差別撤廃」をこそ、フェミニズムの目標として確認しなおそうとするもの。ジェンダーコロキアム報告での基本的論調はこれにあたる。

もう一つは、「ジェンダーフリー」と言う用語とその使用をめぐって、都市伝説的な無根拠の噂が飛び交っている現状に対して極力正確な情報を示すことで、とりあえずこの用語に対する感情的なバッシングを沈静化させようとするもの。成城トランスカレッジ!さんの「ジェンダーフリーとは」はその代表的な一つにあたるだろう。

「ジェンダーフリーが何を意味しているのか、とりあえずそのくらいちゃんと理解してから話をしよう」という系統の議論については、意図はよく分かるし重要な作業だとも思うから、その作業自体には全く異論はない。けれどもその過程で、バッシングを沈静化しやすい方向で「ジェンダーフリーが何を意味しているのか」の定義が少しずつ狭められてしまう傾向があるような気がしている。

ジェンダーフリーは男・女が「こうあるべき」と決め付ける規範を押し付けないことを意味するという部分は、そのまま上述した「<男らしさ><女らしさ>に反対するのではなく、その押し付けに反対する」という言い方につながる。規範を押し付けないことを目指す、それ自体はまったくもって結構なことに聞こえる。けれどもよく考えれば、「規範」というのはその定義からして「押し付け」られるものではないのだろうか。規範とは、法律あるいは学校や会社という組織の規則による強要を指すわけではない。「これこれの性質が男にふさわしく、男においてより望ましい、従って翻ってこれこれの性質を持たない場合には、本当の意味での男にふさわしくない、男としては十分ではない」というところまでを含意するのが「らしさ」という言葉であり、そのメッセージをたえず投げかけ続けることによって、やんわりと、しかし確実に、特定のジェンダーのあり方を承認し、別のあり方を否定する、それが「男らしさ/女らしさ」の「らしさ」という規範ではないのか。したがって、規範それ自体に疑いと批判を向け、規範の規範としての地位を突き崩していかない限り、「男はこうあるべき・・・女はこうあるべき・・・と決め付ける規範」は、押し付けられ続けるはずではないのだろうか。

だいたい、「らしさを否定する」という表現が非常に曖昧だ。「男らしさ/女らしさ」という区分法、あるいは「男らしい性質・女らしい性質」というカテゴリーが、現在の日本の社会や文化において存在するとは考えない、ということであれば、そもそもそのような区分法やカテゴリーが存在すると考えるからこそフェミニズムはそれを「批判」してきたのであって、「ジェンダーフリーは男らしさ/女らしさを否定する」というのは正しくない。ある特定の人が「あれは男らしい性質、これは男らしい性質」と考えることに関しても同様で、フェミニズムはそのような考え方を「批判」するかもしれないが、その人がそう考えているという事実を「否定」はできない。けれども他方で、「男らしさ/女らしさという区分、あるいは男らしい性質/女らしい性質が、人間の主観や社会的・文化的影響あるいはバイアスとは無関係に厳然として客観的に存在するとは考えない」ということを「らしさを否定する」と呼ぶのであれば、フェミニズムの多様な試みを包括的に指し示す用語としてのジェンダーフリーが、「男らしさ/女らしさを否定する(あるいはそのような発想を内包する)」というのは、正しい。

だとすれば、ジェンダーフリーを正確に定義しようとして「ジェンダーフリーはらしさを否定しない」と強調することは、この用語に託されたそもそもの使命(フェミニズムの多様な試みを包括的に指し示す)を裏切ることにならないだろうか。ましてや、「ジェンダーフリー」をフェミニズムの試みの一環として擁護しようというのであれば、「らしさを全否定する」という批判に対しては、否定するともしないとも言わないのでも、否定を否定することによってあたかも肯定しているかのような印象をつくりだすのでもなく、「男らしさ/女らしさ」という言葉が「男にふさわしい/女にふさわしい」という意味を持つ限りそれを批判すると、明確に言うべきではないのか。

同様のことが、「ジェンダーフリーは性差を否定しない」という表現にも当てはまる。勿論、ジェンダーフリーは「性差」の概念の存在を否定することはないだろうし、現在の社会において「男性」と「女性」というカテゴリーが存在し、その両者の間に厳然として差異なり権力的不均衡なりが存在することも、否定しないだろう。しかし同時にたとえば、男性と女性とがどのように違うかはあらかじめ決まっているとか、「誰が女性で誰が男性なのか」というカテゴリーの境界線が変えようのないものであるとか、あるいは男性と女性という二つ以外には「性」は存在し得ないとか、そういった考え方を「否定する」あるいは「批判する」フェミニズムは確かに存在してきた。「性差を否定しない」という表現は、少なくともあらかじめそのような試みを排除したものとしてジェンダーフリーを定義しなおすことになるだろう。

「ジェンダーフリー」という用語に対するバッシングを回避し、この用語をとりあえず保持する方向で再定義が行われる場合、それは逆に、新たな定義(たとえば「性差を否定しない」「らしさを否定しない」)によって排除された領域を、とりあえずは保持する必要がなく感情的な攻撃にあっても仕方がない、それほど重要でも真っ当でもないことがらとして、定義することになる。

逆に、「ジェンダーフリー」という用語およびその果たしてきた役割を批判し、フェミニズムの目標をジェンダーフリーとは別に確認しなおそうという方向で再定義が行われるとしたら、その場合には「フェミニズムの目標」の定義が問題になる。たとえば、「ジェンダーフリーはフェミニズムの試みを包括的に指し示しうる用語ではなく、フェミニズムには他の射程がありうる」という方向をとるとしよう。この場合には「ジェンダーフリー」という用語が持ちえた可能性を(つまり、漠然と全体を指し示す用語を利用することで、フェミニズムの幅広い試みに対して社会的・制度的な後押しを得やすくすること)完全に捨て去るということになるけれど、まあ、捨て去るまでもなく既にその可能性がなくなっているという気はするし、わたくしはそのような「フェミニズム」の捉え方自体には異論はない。けれども、「ジェンダーフリーはフェミニズムの試みを包括的に指し示しうる用語ではなく、そもそもフェミニズムにはもっと重要な目標がある」という方向で再定義が行われ、そしてその「もっと重要な目標」が「男女平等」「性差別撤廃」と言い換えられてしまう場合、あるいは「ジェンダーフリーとは要するに男女平等、性差別撤廃を目指すものだ」と定義されてしまう場合には、わたくしはそれに賛成することはできない。

気になるのは、ここでもまた上野氏が「ジェンダーということばを使って話すこと」として「女性差別と男女平等」のみを念頭においているかのように聞こえる点なのだ。けれども上で述べたように、そもそも「ジェンダーフリー」は、男女平等に限らずフェミニズムの幅広い試みを包括的に指し示しうる用語としてこそ戦略的な意味もあったし、実際にそのような方向で使われてきたという過程もある。それをいまさら「男女平等」と言い換えてどうしようというのだろうか。もちろん、「男女平等」は当然に達成されるべきフェミニズムの重要な課題の一つではあり、「ジェンダーフリー・バッシング」を通じてそもそも「男女平等」の軸においてフェミニズムが達成してきた成果すらもあらためて攻撃の対象になっていることに対しては、真剣に対処策を考えるべきだろう。しかし、その対処策が「男女平等の原点に立ち返れ」で良いのだろうか。「男女平等」にはおさまらない視線の広がりは、「ジェンダーフリー」という不可解な用語がもたらし、あるいは後押ししてきたものの中でも、将来に確かにつなげるべき重要なポイントであったはずだ。その広がりを期待させておいて、いまさら「男女平等」こそが重要だというところに回収させ、もっともバッシングを受けやすい部分、ホモフォビアやトランスフォビアに直結する部分を不可視化させて、「男女平等」なり「フェミニズム」なりを守るのでは、羊頭狗肉も良いところだし、詐欺みたいなものだ。

[…]

別にジェンダーフリーという用語を守れと言っているわけではないし、男女平等という目標が過去のものだと言っているのでもない。その用語を使うのが嫌なら使わなければ良い。男女平等、あるいは女性差別撤廃に焦点を絞りって話をしたり活動をしたりしたければ、そうすれば良い。ジェンダーフリーという造語が曖昧で日常言語ではないと思うのならば、「性差別反対」と言っても良い。けれども、ジェンダーフリーという用語を使わない理由、使わないでも良い理由を述べる過程で、あるいは「男女平等」の目標を再確認する過程で、フェミニズムが語るべきこと、対処すべきことの射程をわざわざ縮小する必要はないはずだ。「性差別」について語るべきだというときに、セクシュアリティにかかわる差別やトランスフォビアの問題を切り捨てて、わざわざそれを「女性差別」や「男女平等」の問題として言い換える必用もないはずだ。それでは、バッシングに対抗しようとするあまり、フェミニズムがもともと取り組みうる、そして実際に取り組もうとしていた多様な試みの一環を、こちらからすすんで「より擁護の必要に値しないもの」として切り捨てるのと同じことだ。

バッシングに抵抗する目的で、より攻撃や「誤解」を受けやすい領域をあたかも「男女平等」の達成後にゆっくり取り組めば良い二次的な問題であるかのようにとりあえず棚上げして、「ジェンダーフリー」なり「フェミニズム」なりの定義から消し去ってしまうことがあってはならない。わたくしはフェミニズムがアカデミアに限られるとは全く考えないけれども、少なくとも、女性学なりフェミニズムなりジェンダー論なりの研究者がバッシングへの対応に追われてそのような消し去りに加担するとしたら、それはアカデミックなフェミニズム、あるいはジェンダー論に対する裏切りだと思うし、それより何より、アカデミックなフェミニズムやジェンダー論の側における、フェミニズムに対する、あるいはフェミニズムと共存しようとしてきたLGBTの活動に対する、裏切りだと思う。その点で、たとえば女性学会の『Q&A』、あるいはジェンダーコロキアムの上野氏の発言には、それが日本のアカデミアにおいてはそれなりの権威と影響力を持ちうるだけに、この業界で生きていこうとしている人間として強い違和感を覚える。

「「女性学」の議論と実感」

たとえば、わたくしにとって現在もっとも関心もあり利害関係もあるテーマは、ジェンダー規範の下で非規範的な身体や性がどう生き延びるかということであり、それは具体的・日常的レベルでは、ジェンダー・セクシュアルマイノリティが直面させられている諸問題をどう考え、それにどう対処するかということに、かかわっています。

このようなわたくしの立場から見ると、「ジェンダーフリーは要するに男女平等だ。女性差別撤廃だ。」という論調は、ちょっと困ります。「ジェンダーフリー」には問題もあるでしょうし、これまでのところ、実際にプラスよりもマイナスの機能の方が大きかったかもしれないけれども、少なくとも理念上は、ジェンダーマイノリティ、セクシュアルマイノリティの直面する問題をすくいとる可能性を持った部分を、持っていました。「ジェンダーフリー」を「男女平等、女性差別反対」に戻してしまう論調を上野さんのようないわゆる「大御所」が引っ張るという構図は、そのような部分を切り捨て、とりあえずより分かりやすい「女性」の問題だけにターゲットを絞ってしまうという点で、悪い意味で「主流女性学的」だとわたくしには思えます。discourさんも参加なさっているジェンダー・コロキアムが「わたくしの立場からは主流女性学に見える」と申し上げたのは、そういう意味です。

繰り返しになりますが、わたくしがこういう例を挙げるのは、「こっちの方がもっと傍流、もっとマイノリティ」という「傍流あらそい」をしたいからではありません。discourさんやyamtomさんの御立場から見て、「ジェンダーとかジェンダーフリーだとかの小難しい定義に時間を費やして」、より火急の問題に取り組めなくなることをご批判なさるのは、良くわかります。けれども同時に、わたくしの立場から見ると、「ジェンダーフリー」をめぐる定義の問題(要するにそれを「男女平等で置き換えられる」と言うか言わないか、といったことですけれども)というのは、現実に望ましくない効果をもたらす可能性をはらむ事柄であり、日常レベルでの実感や運動にかかわることであって、どうしてそこを「主流女性学」がちゃんと考えてくれないのかなあ、と感じるわけです。

リンク

注:ここで「主流女性学」と呼ばれているものについては、斉藤さん (discour) と tummygirl さんによる議論の中で出て来ている言葉です。文脈がありますので、お二人のやり取りをご覧になった上で「主流女性学」という言葉の意味を解釈してください。

「性別にとらわれずに自分らしく」というのは、それが「誕生時に法的に割り当てられた性別にとらわれることなく」ということであれば、ジェンダー・マイノリティの一部の人にとっては、「寝ぼけたこと」どころか就職から日常生活の細部にまで及ぶ重要事であり、そういう「寝ぼけたこと」を言わないような女性学は、それこそ実感と乖離した「寝ぼけた」ものだと感じられるかもしれないわけです。

「ジェンダーフリーの定義」の問題は、「女性学」がたとえばそのような非婚カップルの「実感」にどう対応するつもりなのか、ということを指し示す、それなりに重要な問題なのです。

id:discourさんへのお返事

ごめんなさい、これはほぼ全文転載です。全て重要な指摘ですので。

「男女平等」を唱える方たちに必ずしもセクシュアル/ジェンダーマイノリティを排除する意図がないのは、了解しています。場合によっては、「男女平等」の名目を立て、その範疇での具体的な行動において、セクシュアル/ジェンダーマイノリティへの差別に対応していく、という方法が有効だろうということも、理解できます。

ただ、それでも今の時点で「ジェンダーフリーを男女平等と言い換える」ことについては、わたくしはやはり原則的には賛成できません。「女性差別撤廃」についてはなおさらのこと、「性差別撤廃」というべきではないかと思っています。日本語の「性」という言葉のある種の曖昧さは、「ジェンダー」「セクシュアリティ」などのそれなりに学問的に意味が定まりつつある用語よりも、時と場合によっては使い勝手がいいな、と、こういう時には思うわけですが<話がそれまくり。

理由としては、第一に、いわゆる「バックラッシュ派」なり「アンチ・ジェンダーフリー派」が、一番叩きやすいと感じているらしい、そして事実何かにつけて「ジェンダーフリーの恐怖」として持ち出してきているポイントが、セクシュアル/ジェンダーマイノリティに関係する部分だからです。ジェンダーフリーが「同性愛を認める」「同性愛/両性愛を作り出す・推奨する」「男女別のトイレや更衣室に反対する」などなど。

もちろん、これらの主張のうち、最初のものは「それのどこがいけないの?」であり、二番目のものは全く根拠がなく(同時に「どこがいけないの?」でもありますが)、最後のものについては、わたくしは個人的には「男女別のトイレや更衣室が<当たり前>であるようなあり方は考え直すべき」とは思いますけれども、それは一般にジェンダーフリーの名の下に主張されていることではないし、そもそも「反対する」というのは余りに大雑把です(「男女別のトイレや更衣室を考え直すべき」ということと、「男女別のものを全部廃止すべき」ということとは、全く違いますから)。

けれども、そのような言い方が現状において一定の「脅し効果」を持っているらしいことは事実であり、それに対して、「叩きにくい」部分である「男女平等」を持ち出すことは、確かに例えば個々の女性センターの運営や行政との折衝の内部において有効な場合はあるかもしれませんが、少なくとも「女性学」、あるいはフェミニズムという「学問」としては、卑怯だと、わたくしは思います。

もう一つの理由としては、「男女平等」が実質的に「ジェンダーマイノリティ」の問題への取り組みを排除するものではない、というのは確かだとしても、あくまでも名目的には「オトコ」と「オンナ」との平等について語っているわけで、実質的に排除するわけではないのだからそれでよしとしろというのは、マジョリティの傲慢ではないか、ということがあります。伝統的なフェミの例で言えば、「彼ら」という日本語は男女ともに含むことになっているけれども、あえて「彼ら/彼女ら」と書こうとか、英語で言えば一般人称のone 受ける代名詞は伝統的にはheであり、それは必ずしもそのpersonが女性であることを排除はしなかったけれども、やはりそこはhe/sheとかtheyで受けようよ、と変わって行ったとか、そういうことと同じだと思うのです。

勿論、そういう「呼称」が変わったからといって実質が変わるわけではないし、時には呼称よりも実質が重要であって「とりあえずは」呼称なんて二の次でいいや、という判断は、ありえます。ただその判断はあくまでもマイノリティ側がするものであって、マジョリティ側が「実質は排除していないのだから文句は言うな」というのは、ちょっと違うように思います。

ただし、これは「男女平等を使うな」とか、「ジェンダーフリーを使え」とか言うことではありません。「男女平等」こそが問題になる場合というのは、具体的な事例においては勿論あります。セクシュアル・マイノリティーの内部だって「男女平等」は達成されていないわけだし、そういう場合には「男女平等こそ」主張すべきだということさえあるでしょう。「ジェンダーフリー」にしても、discourさんが従来主張していらっしゃるような、行政との関わり方の問題というのは非常に説得力のある、重要なテーマだと思いますし、「今あるからそのまま必ずこれを使え」ということでは勿論ありません。実際にわたくしは行政が「ジェンダーフリー」に「乗った」のは、「男女平等」が怖かったからではないかという疑いを捨て切れませんし。ただ、それでも「ジェンダーフリー」が「男女平等」では前面に出しにくかった一連の主張を容易にする可能性を持っている以上、「ジェンダーフリーは男女平等で言い換えられます」と、一般論として「女性学」が主張するのは、納得がいかない、ということです。

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ひびのまことさんのエントリ

  • クリックして開いたら、下にスクロールして「【「ジェンダー・フリー」についての上野さんの意見】」というところから読んで下さい

LGBTIAQへの差別を問題化するためには、「男女平等」は前提として踏まえるべき論点(だから例えば、自身の男性中心主義に鈍感な一部のゲイ活動家の言説は批判されるべき)ですが、「男女平等」だけでは例えば同性関係嫌悪(ホモフォビア)や性別二元主義、性愛強制主義の問題点を問うことができません。

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また、「男らしさ」「女らしさ」の強制の問題は、例えば「典型的な男」ではないゲイ男性やバイセクシュアル男性の問題でもありますし、トランスジェンダーは毎日「らしさ」の強制と向きあわされています。「ジェンダー・フリー」の運動と認識は、そのもともとの出自を越えて、女性差別や男女平等だけではなく、同性関係嫌悪や性別二元主義をも問う射程を現実に持ってしまっています。

言い換えると、「性(別)に関わる差別と権力関係」には、男性中心主義だけでなく、異性愛中心主義や性別二元主義、そして性愛強制主義といった様々な問題があることが、今では明らかになっています。バッシング派は、これらのどれか一つだけを攻撃しているのではなく、まさにこれら全てを問題にし、攻撃をしてきています。この状況の中で、焦点を「男女平等」だけに絞るということが、本当にバッシング派への反撃になるとは思えません。

最後にコメント

斉藤正美さんがご自身のブログでものすごくシンプルに「ジェンダーフリー」という概念の使い方の問題点を挙げている。

「(ジェンダーフリーを使うことの)問題は2点。一つは、抵抗の多い言葉を避けて無難であいまいな言葉に逃げたこと。第二は、あいまいな言葉であるゆえに、「性差」に焦点をあて批判されるなど保守派につけいるすきを与えたことだ。」

(もちろん斉藤さんはこの他にもものすごい量の文章を書いていて、すごく重要な指摘がいっぱいあるので、このものすごく短い引用文だけで斉藤さんの主張が全部分かるというわけではありません)

斉藤さんがこの文章を書いたとき(2004年10月)に「ジェンダーフリー」を巡る議論がどのようだったのかは分からないが、2009年になった今、これまで「ジェンダーフリー」という考え方が「保守派につけい」られて来た結果として、今度は「男女平等」に比べて「ジェンダーフリー」という言葉の方が「抵抗の多い言葉」になってしまっている現状を考える必要がある2 。つまり「ジェンダーフリー」という言葉を使わないことが、むしろ「抵抗の多い言葉を避けて」いることになるのではないかという懸念だ。

そもそも「ジェンダーフリー」という概念が出て来た歴史を振り返ると3 、「ジェンダーフリー」という概念が出て来た背景には、行政・学者主導型のフェミニズムが様々な女性運動の実践の犠牲を伴う形でで成り立っていたことがある。そしてその普及の仕方には、バックラッシュを誘発する要素があった。それ故に抵抗も大きかったのだろうし、それを理由に「ジェンダーフリー」概念の歴史を否定的に捉えることは理解可能なことだし、むしろ正しいとボクは思う。しかし「ほら、バックラッシュ言説につけいられてしまったじゃないか」と言って「わたしたちにはもっと大事なことがある」と言うことは、フェミニズムの「本来取り扱うべき問題」を再定義する実践としての効果を持つ。たとえば、バックラッシュ言説による「『性差』に焦点を当て」た批判に対するフェミニストの対応の中に、「性差」の問題を棚上げにする動きがあったのではないか(=男女というジェンダー体制そのものを疑うという作業をフェミニズムの外部に追いやる動きがあったのではないか)ということは、考える必要があるだろう。

そのためにも、「ジェンダーフリー」という言葉とそれに伴う実践が過去のフェミニズム及びそれが受けて来た挑戦などの歴史の蓄積の上に成り立つものであったという事実、すなわち「ジェンダーフリー」概念の中にはそれまで「男女平等」などを掲げている中で行われて来た実践・教訓が(ジェンダーフリーを推進した人たちに共有されていた認識かどうかは置いておいて)多く含まれており、だからこそ「男女平等」への回帰の中でその中にある一部を「外していい部分」とみなすのは危険だという tummygirl さんによる指摘は重要だ。「ジェンダーフリー」という言葉には様々な問題がある。人によっては「ジェンダーフリー」を擁護しなければいけないと思うかもしれないし、「ジェンダーフリー」などやめて違うものを打ち出そうとする人もいるだろう。しかし「ジェンダーフリー」をぐにゃぐにゃに骨抜きにすること4 、あるいは何か他の言葉で言い換えようとすることには、「クィア外し」の実践を伴う危険があるし、事実これまでそのような言説実践が行われて来たことは注意しなければならないことだ。

脚注

  1. そもそもこのサイトは何か同じ意見を持った人たちの集団ではないし、それぞれの立場で発言をしているのだけれど、それでもこのサイトの制作・公開・充実化・普及などに関わっている者としては関係者がみな考えるべきことだと思う。もちろんそれは、ボク自身を含めて。
  2. たとえそれがそもそも初めの段階から過去のフェミニズム・女性運動の遺産を受け継がない行政・学者主導型のものであったとしても、「ジェンダーフリー」という言葉には無難な狭い意味での「男女平等」の射程を超える可能性があった。だからこそバックラッシュ言説においてはその「クィア」性あるいは「クィア」な可能性というものが叩かれたのだ。
  3. 『バックラッシュ!』における山口智美論文「「ジェンダー・フリー」論争とフェミニズム運動の失われた10年」に詳しい。
  4. それにしても「男女平等」だって抵抗が大きいことはもちろんそうで、実際に「ジェンダーフリー」って言葉が出て来て行政においても一度採用されたのは「男女平等」という言葉を使うことに反対があるだろうという懸念のもとだろうけれど。そう考えると「男女平等」に立ち戻ったところでそれだって全然「無難」ではないことは分かっています。「男女平等」ならバックラッシュなんて起きなかったのに、という推定もあやしいもんだと思う。だから上野千鶴子さんが「男女平等」でいいのに、と言うときにそういう想定のもとで言っているのなら、それは楽観的すぎる。実際はどちらも「無難」ではないんだ。「私たちの言っていることは無難ですよ」という考えがそもそも(斉藤さんが言っている通り)「ジェンダーフリー」概念の普及につとめた人たちの一部にあったと思うし、逆に今は( tummygirl さんが言っているように)「ジェンダーフリー」を「男女平等」に矮小化しようとしている人たちにも当てはまると思う。無難じゃなくていいじゃないか、とは言えていないのが悲しい。

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「草の根フェミ」による「ジェンダー・チェック」批判とは?

執筆者:斉藤正美

『バックラッシュ!』の上野千鶴子氏インタビュー記事における「ジェンダーチェック」に関する記述を読んで、上野氏の「草の根フェミ」とは何を指すのか、具体的に述べられておらず、上野さんは女性運動について知らないで書いておられるのではないかと思った。同インタビューについては、先にmacska氏がセクシュアルマイノリティの扱いについて厳しく論じておられ、議論になっているところでもある。当ブログでは、上野氏の原稿を読み、フェミニズムが起こした「ジェンダーチェック」批判が表に出ていないことに改めて気づかされたので、ここでは、運動経験者として行政に関わった体験について記しておきたい。フェミニズム内部から行政主導の「ジェンダーチェック」が「検閲」にあたることを怖れて阻止されたケースが確かに起きていたことを明確に記しておく必要があるからだ。

東京女性財団の「ジェンダーチェック」路線には、90年代後半にフェミニズム運動として実際に待ったがかけられていた事実があったのだ。わたし自身が関わったこの「ジェンダーチェック」集刊行阻止のケースは今まで表にはでていなかった。紙媒体でも、ネットでもこれが明らかになるのは当ブログが初めのはずだ。さらに、この事例以外にジェンダーチェックにストップがかかったケースは、わたし自身はまったく耳にしたことがない。行政の検閲、啓蒙批判の動きが間違いなくあり、実際それを阻止し、女性運動のサイドにたった内容の冊子に転換したことはフェミニズム運動の歴史として重要なことだと思うのでここで明確に記録しておきたい。

ところで、上野氏の記述はこうだ。上野氏は、日本でのジェンダーフリーの歴史を語る中で「ジェンダーフリー」という言葉が「行政フェミニズムと草の根フェミニズムの亀裂を衝く、という意味で」「フェミニズムのアキレス腱だった」と述べる。その説明のあと、「日本のフェミニズムはしょせん行政フェだった」という発言への反論として以下のように書く。

「行政フェミの背後には、それを支えたり伴走してきた草の根フェミが存在しました。行政フェミの典型的な事業の事例に、東京都女性財団がつくった「ジェンダーチェック」がありますが、行政側のきわめて啓蒙主義的なやり方に対して、草の根フェミは批判をもっていました」(p.378-9)

行政主導の「ジェンダーチェック」刊行に対し、草の根フェミニズム、すなわち女性運動は断固として反対してきたという文脈を示す箇所である。しかし、これについては異論がある。第1に、1990年代半ば以降のフェミニズムは、ほとんど「行政フェミニズム」一色に塗りかえられ、70-80年代に健在だった行政から距離をおいた「草の根フェミニズム」はほとんど目立たなくなっていったように思う。それを象徴するのが1996年の「行動する女たちの会」解散だった。わたし自身がかかわった「メディアの中の性差別を考える会」も、1996年に上野氏と共編著『きっと変えられる性差別語』を刊行した後、(インターネットでの発信は続けている一方)グループとしての活動は行っていないことも挙げられるかもしれない(この点の考察は別途行う必要があるだろう)。女性運動はどこでどのように「ジェンダーチェック」に抵抗してきたか、上野さんはご存じだったのだろうか。例を挙げて指摘するべきではなかったか。これでは実際にあったことかどうかわからない。想像の産物と言われかねないことを懸念する。

第2に、行政が市民の心の持ちようを『ジェンダー・チェック』することへの批判は、2000年以降、フェミニズムの外部から、つまり「バックラッシュ派」によって引き起こされたのではなかったか。ここで言われる「草の根フェミ」がだれのどの運動を指すのかわからない。実際には、上野氏がいう「ジェンダーフリー」批判や「ジェンダーチェック」批判はだれのどのような行為を指しているのだろうか。実は、フェミニズム内部からの「ジェンダーチェック」批判は、ほとんど起きなかったのではないだろうか。前にエントリーを立てた日本女性学会『Q&A』本でも、山口智美さんとわたしの「ジェンダーフリー」批判や批判をあげている「ジェンダーフリーとフェミニズム」サイトhttp://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/Personal22.htmlは、まったく言及されていない。匿名でバックラッシュ派の動きと類似のものとされているか、存在しないことにされているのだ。上野さんがあるといわれるのなら、それがだれのどの主張やどの運動を指すのかはっきりさせる必要がある。ここのところはフェミニズムの歴史にとって重要なので確認したい。また、上野氏ご自身のスタンスも明確に示していただきたいと思う。東大ジェンダーコロキアムでのご発言とその後の国分寺事件以降の上野さんの動きを見ていると、上野さんがどのようなスタンスなのか、が極めてわかりづらいものに映っている。

上野氏は何も具体的に言及しておられないが、ここでわたしが今から述べようとする東京女性財団の『ジェンダー・チェック メディア編』作成プロジェクト阻止を事前にご存じだったのだろうか、それとも、それ以外に「ジェンダーチェック」批判の動きをご存じだったのだろうか。上野氏の原稿からは実際の運動の動きがまったく見えてこない。上野氏の原稿を読み、フェミニズム内部から、行政主導の「ジェンダーチェック」が「検閲」にあたることを怖れて阻止した事実が表に出す必要性を感じ、ここに記しておくことにした。『バックラッシュ!』本刊行や上野氏の議論を機に改めて日本のフェミニズム運動の歴史を確かめるいい機会でもあるはずだ。

東京女性財団は、東京ウイメンズプラザがオープンした1995年より毎年『ジェンダーチェック』シリーズ「家族・家庭生活編」(1995年)、「地域・社会生活編」(1996年)、「学校生活編」(1997年)、「職業生活編」(1998年)を1冊ずつ刊行してきた。(それに関わった女性学者から「ジェンダーチェック」批判が起きたという話は聞いたことがないが、実態はどうだったのだろうか。)そして、1998年8月、東京女性財団は、このシリーズの最終弾として、『ジェンダー読本(メディア編:仮称)』普及・検討委員会を設立した。これは、これまで続いた『ジェンダー・チェック』シリーズを締めくくるものとして計画されていた。(「ジェンダー・チェックメディア編」という言葉は、98年12月財団職員の方からわたしがもらった資料にも使われていることから、相当後になるまで内部での規定事項であり続けたようだ。)しかし、新たに設立された検討委員会では、いくら財団法人とはいえ、公的機関がメディア機関に対して、表現をチェックさせる趣旨の冊子を出すというのは「表現の自由」に抵触する行為であり、止めるべきだという議論が起きた。そして、最終的には、これまでのシリーズとは名称も趣旨も異なる『女性とメディアの新世紀へ』という冊子として刊行された(1999年)。それは、当初計画されたメディア組織やメディア人向けの「ジェンダーチェック」ではなく、「女性たちがどのようにメディアを使い、またメディアについてどう考え、行動したらよいのか」という市民のためのメディア読本へと方向転換したのであった。どんな内容かというと、1.みんなが発信者になる 市民とメディアの新時代、2.マスメディアを読みとる 女性はメディアをどう変えてきたか、3.座談会「マスメディアの現場から」、4.マスメディアのしくみを知る、 5.女性とメディアのいい関係をめざして、6.マスメディアが本当に公器なら、巻末資料というものだ。

この時の討議内容記録を引っ張り出して調べたところ、最初の会合で「今まではジェンダー・チェックとして出してきているが、全国・都内からの引き合いが多い。効果は図りにくいが、ジェンダーフリーという言葉が広まってきたように、反響は結構ある」と財団側が述べ、「ジェンダーチェック」シリーズを続行したい由が語られていた。それに対しては、メディアについて公的機関の介入と思われるものを出すのは疑問だということが委員から述べられていた。「メディア人向けジェンダー・チェック」という当初の方針を阻止しようとする委員からは、メール、電話、面会などで働きかけが行われた。「ジェンダー・チェック」を阻止しようとした理由としては、「1.メディアの表現の自由の侵害の危険性、2.行政のチェック(検閲)という反発がメディアから予想される(東京女性財団は、ジェンダー・チェックで名が通っていますので、今度はメディアに向かってきたと反発を受ける)、3.以上の2点から(「ジェンダーチェック」本を出しても)メディアの紹介が期待できない。」と主張されていた(以上は当時の資料より)。

なお、このプロジェクトの「執筆者は、マスメディアに関する市民活動に取り組んできた女性とメディアに関する研究実践をしてきた人、そしてマスメディアで働いていた人たち」(同書・はじめに)5名であった。FCT市民のテレビの会(当時)の竹内希衣子氏と「メディアの中の性差別を考える会」のわたしは、いわばメディアのジェンダーチェックを押し進めてきた市民活動家という役割で検討委員会に加わっていたようであった。先に述べたように、わたしは1996年『きっと変えられる性差別語??わたしたちのガイドライン』(上野千鶴子・メディアの中の性差別を考える会編)刊行に関わっていた。この委員会は、竹内氏とわたしという市民運動家が主張するメディアのジェンダー・ガイドラインを、マスコミ研究者である村松泰子氏と諸橋泰樹氏が正副の会長としてまとめあげるという性格のものとして企画されていたように思われる(富山在住のわたしが東京女性財団の事業に関わったのは、当時お茶の水女子大の院生であったことが関係していよう)。村松、諸橋両氏は、96年に刊行された東京女性財団『ジェンダー・チェック 地域・社会生活編』の編者としても名を連ねておいでであった。最終弾として当初予定されていた当「ジェンダーチェック」メディア編プロジェクトの委員会には、メディア界の重鎮である元共同通信社社長も加わっておられた。

こうした「ジェンダーチェック」プロジェクトのねらいに、それを推し進める立場を授かった市民運動代表と目されたわれわれ二人は、委員辞任をかけて上記のように「ジェンダー・チェック」企画を阻止する動きをした。最終的には、メディアに向けた「ジェンダー表現チェック」という計画はひっくり返り、上述のような一般読者向けに変わったのであった。そのことは、「この冊子は、私たち執筆者相互のコミュニケーションの成果です。会合だけでなく、電子メール(メーリング・リスト)という新しい情報メディアを使って、ひろく今のマスメディアの状況や、インターネットを通じて行われている活発な議論についての意見などを交わしながら執筆・編集しました。東京女性財団という公的な機関が、こういう冊子をつくることの意味についても、議論を重ねました。」(はしがき)という記述からも読みとれる。一方で他の『ジェンダー・チェック』シリーズには、まとめにあたった学者諸氏の名前は列記されているものの、議論があったとか、内容についてどのような議論を経て決めたなどという作成過程に関する記述は書かれていない。

最終的に、これまでの「ジェンダーチェック」シリーズとは名称も趣旨もまったく異なる『女性とメディアの新世紀へ』という冊子として刊行されたことは、東京女性財団が推し進めた「ジェンダーフリー」政策の中で、フェミニズム内部から行政主導の「ジェンダー・チェック」批判が起きた数少ない事例として表に出す必要あるように思い、ここに記すことにした。これは、東京女性財団にとって、作成過程でストップがかかった初めての「ジェンダーチェック」本だったと思われる。「ジェンダーチェック」が「男女共同参画、ジェンダーフリーの観点からの行政による検閲」としていわゆるバックラッシュ派から批判されている昨今から振り返れば、メディアの「ジェンダーチェック」本が幻に終わり刊行されなかったことは、東京女性財団にとっても福音だったのではなかろうか。なお、東京ウイメンズプラザでこの冊子を検索したところ、現在この冊子は「禁貸出」とあった。おそらくこれは、他の「ジェンダーチェック」が批判されたあおりをくったものと思われる。なお、これ以降、わたしが東京女性財団の事業に関わったことはない。

ところで、最初に戻るが、上野氏の言われる「行政側のきわめて啓蒙主義的なやり方に対して、草の根フェミは批判をもっていました」という「草の根フェミ」とはだれのどのような行動を指すのであろうか。(2006-06-30ジェンダーとメディア・ブログエントリー)

上野千鶴子さんからの応答–「ジェンダーチェック」批判について

執筆者:斉藤正美

6月30日のエントリー「草の根フェミ」による「ジェンダー・チェック」批判とは?において、『バックラッシュ!』本における上野千鶴子氏の言及に疑問を呈しました。ブログに書いても上野さんはご覧にならないかもしれないと思い、直接上野さんにメールでお知らせしました。そして、上野さんからは誠実に疑問に答えるお返事をメールでいただきました。ブログで発表することについてもご了承いただきましたので、ここで上野さんのお返事を掲載します。

「6月30日のジェンダーとメディア・ブログ・エントリー「草の根フェミ」による「ジェンダー・チェック」批判とは?」への上野千鶴子氏からの応答(オリジナルはメール)

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こういう貴重な歴史的事実は、もっと早くに公開なさってもよかったのではありませんか。「当時ジェンダー・チェックに批判がなかった」ということへの反証になりますから。もしそれを今になって批判なさるなら、こういう情報公開を今日に至るまでなさらなかったことも、自己批判の対象になるのではありませんか?

わたしの情報は伝聞情報です。わたしは政府からも都からも審議会等のお呼びがかかりませんので、内部情報はまったく知りません。ジェンダーチェックが出てから、フェミ系の民間のアクティビストから評判が悪いことを耳にしていました。それからあるとき都内の行政関係のイベントに出たときに、問題のジェンダーチェックが目の前に登場し、不快な思いをし、それを口頭でその場にいた担当者に伝えました。メディアや文書による批判があったかどうかは知りません。複数の人たちから聞いており、そのうちのひとりは記憶にありますが、他は記憶にありません。口頭の批判は批判にはあたりませんか。

フェミ内部では、さまざまな批判は口コミで行われていたと思います。たとえばバックラッシュ派の最初の標的となった『新子育て支援 未来を育てる基本のき』(でしたっけ、ひな祭りもいかんのか、と反動派から揚げ足取りを受けた啓蒙書です)も、フェミ内部では「あれは行き過ぎ」と批判の声がありましたが、メディア等のおもてには出ませんでした。だれが言っているかは知っていますが、その方たちも、外部への配慮から表立っては批判はなさらなかったようです。

ついでに山口さんの「なぜその当時批判しなかったのか」というご批判について、再び。「ジェンダーフリー」とほぼ同時期に、「男女共同参画」が登場しましたが、これも草の根フェミ(これがおいやなら「民間フェミ」でもいいです)には反発がありました。私のスタンスは、「ジェンダーフリー」と同じく、「男女共同参画」は自分では使わない、が、他の人が使うことは妨げない、というものです。ですから「男女共同参画」を掲げたイベント等にも参加しました自分の原則は通すが、ゆるやかな連帯のうちで多様な展開があってよい、という立場です。ですが、各地の女性センターが次々に「男女共同参画センター」と名称変更していくことには不快感を持っていましたし、それを合理化する学者を「御用学者」として講演等で公然と批判したことはあります。

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最後の段落は、山口智美さんの「『ジェンダー・フリー』論争とフェミニズム運動の失われた一〇年」『バックラッシュ!』(pp.244−282)での上野さんについての言及への応答です。上野さんからここの部分もいっしょに掲載してほしいという要望がありましたのでここに掲載しました。

以下は、上野さんの応答を受けて、斉藤がメールで上野さんにお返事したものです。(ブログアップのために、2つの論点にわけました)

こういう貴重な歴史的事実は、もっと早くに公開なさってもよかったのではありませんか。「当時ジェンダー・チェックに批判がなかった」ということへの反証になるのではありませんか?

(1)実際に「ジェンダーチェック」批判に関わっていたのなら、もっと早く公開すべきではなかったか?

そうですね、そういわれるとまったくその通りです。今回上野さんに指摘されて、なぜ今までこのことを書かなかったのだろう、書きたいという強い意志が働かなかったのだろうと、初めて考えてみました。これまでこの経験についてはだれかれとなく話していたとは思いますが、はっきりと書いた方がいいと指摘されたのは山口さんだけでした。さらに、これまでなぜ書かなかったのか、と指摘されたのは上野さんが初めてでした。

わたしが書こうという強い動機づけができなかったのは、ジェンダー・チェックが東京の問題だと受けとめていたことが大きかったと思います。もし富山の女性センターサンフォルテがこのようなことをやっていれば即行動したと思います。実際、サンフォルテが「県民共生センター」というヘンな名前になるというときには、いろいろ行動もしました。

しかし、東京のウイメンズプラザのことであれば、たくさん専門家や関心ある運動家のかたがおられるので何もわたしが出る幕でもなかろうという気持ちが根本にあったように思います。それと、関係者にちょっと気兼ねをする気持ちもありましたね、あの時は委員を下りる、下りないと相当激しくやりあったことを表に出すことになるからと、、気を遣って書くほどの必然性を感じてなかったということかもしれません。

それともう一つは実際に、このことが公に議論されている場面に遭遇しなかったことがあります(わたしの記憶では、、)。上で上野さんも書かれているように、上野さん以外の有名女性学者は政府や都道府県の審議会に入っておられるのでほとんど「ジェンダーチェック」批判を公にされていなかったために、内部でクチコミでなされていたようでわたしにはそれに接する機会がなく、これが「貴重な歴史的事実」、公表したほうがフェミニズムにとってもいいことだという認識につながりませんでした。言い訳めいてきこえるかもしれませんが、それがわたしの正直なところです。上野さんに指摘されてからずっと考えてそう思いました。

今度の上野さんのインタビューでは、その問題が取り上げられていました。しかも、フェミニズム側の対応としてでした。これを書いた方がいいという認識がわたしの中でも高まっていたので、即反応したのでした。上野さん憎しと思ってしたのではありません(笑)。上野さんのご発言は影響力が大きいから見過ごせないというのは、確かにあったとおもいますが、、。

ですから。もしそれを今になって批判なさるなら、こういう情報公開を今日に至るまでなさらなかったことも、自己批判の対象になるのではありませんか?

(2)情報公開しなかったことは、自己批判の対象ではないか?

この体験のもつ重要性を軽く見てきたという認識については、「自己批判」、すなわち自らの状況認識の甘さを反省したいと思います。

いずれにしても上野さんから真摯なご回答をいただけたことを感謝します。それによりわたしはいろいろ気づくことができました。女性学内部ではなかなかできない、こういう議論を公に積み上げていくのが、問題をよりよく考えよりよい方向を考えるのに必要なことではなかろうかと思います。

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これが上野千鶴子氏とのメールでのやりとりでした。他の領域に比べ、女性学はネット議論への参加がとても遅れているように思うので、女性学者もネットを議論の場として使っていくことが重要と考えているからです。今後は、コメント欄に気軽に書いていただけるとなおさらうれしいかなと思いますが、今回、このような形で上野さんと議論のやりとりをブログという形で公開できたことは、よかったと思っています。

なお、『バックラッシュ!』キャンペーンサイトで、前エントリーを貴重な情報を提供したとほめていただき、うれしいドギを頂戴しました。女性学領域でも、ネットで継続して議論を積み上げていく例となればいいなあと思っています。みなさまコメント欄などで積極的な議論をつづけていけたらと思っておりますのでよろしくお願いします。

上野千鶴子さんの位置取り (「『女の品格』『おひとりさまの老後』から思うフェミニズムの行方」改題)

執筆者:斉藤正美

坂東眞理子さんの『女性の品格』、『親の品格』、それに上野千鶴子さんの『おひとりさまの老後』などフェミニストにより執筆された本がベストセラーの上位に食い込んでいる。お二人は自他共に認めるフェミニストである。そのお二人の本がベストセラーになっている。ウーマンリブの頃とは違い、フェミニズムが日本社会に受け入れられるようになったんだなあと思う今日この頃だ。ついでに言うなら二人とも富山県出身だこと!(その考察はまた改めて・・)

紀伊國屋書店単行本本週間ランキング(12月31日-1月6日)では、『おひとりさま』が3位、同新書ランキングで『女性の品格』が1位、『親の品格』が2位といずれもトップを占めている。文教堂(10分おき更新)では、総合で『女性の品格』が2位、『おひとりさま』が10位に入っている。

「品格」を説く書は啓発本である。『おひとりさま』は読んでいないのでよくわからないが、読者からは「老後の心構え」本と受け止められているのではないか。意識啓発で押してきた主流フェミニズムの面目躍如だなと思う。同じく現在何冊もベストセラー入りしている、坂東さん、上野さんより2周りほど若い勝間和代さんの本は、『効率が10倍アップする新・知的生産術–自分をグーグル化する方法 』などキャリアアップのための「サバイバル本」である。シニア世代は、「品格」という心構えを説き、若い世代は「サバイバル」のための仕事術を伝授する・・・。なんと好対照であることか。なんと世代格差を感じさせることよ。

フェミニズムが日本社会に浸透した今だからこそ、言っておきたいことがある。それは、社会で主流になりつつあるフェミニズムだからこそ、女性の中の多様性を積極的に肯定する動きが必要となっているということだ。要するに、女性の間での違いや批判を積極的に受け止めようということであり、自らを批判的に見ることができなければいけないということだ。新たに求められるフェミニズム像については、macskaさんによって「第三次フェミニズム」 (第三波フェミニズムともよぶ)として1998年にまとめられている。

しかしながら、実際はそうではない方向に進んでいるように思う。例えば、日本女性学会研究会レポ:守旧化するフェミニズム?マッチポンプ、あるいは、対立の禁止が対立をつくりだすで書かれているように、「フェミニズムにとって今闘うべきはバックラッシュである」という大義名分を掲げ、「対立をあおらず共闘、連帯しよう」と叫ばれ、学会運営などでフェミニズム批判がおさえこまれたものになっている。わたしもいろいろ声を上げているが、真剣に取り上げられ改善されたとはなかなか思えない。「バックラッシュ」が名目として便利に使われているのではないかという疑いさえ生じる。

2004年12月、上野さんが主宰されている東京大学ジェンダーコロキアムで「ジェンダーフリー概念」から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」という企画を山口智美さんとわたしで提案した。(報告を参照ください。)しかし、その頃から現在までの3年の間に、女性学をめぐる地図はだいぶ変わってしまった。残念なことに、よりいっそう閉塞的で多様な声が出ずらい状況になっているというのがわたしの見方だ。フェミニズム運動がよりいっそうおだんご状にまとまった気がする。相互批判がなくなり、多様な意見が上がってこない。

それに関連したエピソードとして、上野さんのフェミニズム運動における位置取りが変化したことがある。3年前東大ジェンダーコロキアムでの「ジェンダーフリー概念」企画の時は、東京中心の行政一体型フェミニズムを批判した山口智美さんや私に上野さんは、「私がこういう場に出られる理由は、私は行政と結託していないほうですので、ジェンダーフリーがバッシングを受けても、私自身がその対象にならなかったために、痛くもかゆくもない」と見得を切っておられた。そして、自ら行政とは一線を画していた「非主流派(?)」を主張されていた。ただし、『上野千鶴子対談集・ラディカルに語れば・・・』(平凡社)での大澤真理さんとの対談を見る限りでは、上野さんが「行政と一線を画していた」とは必ずしも言えないと思うが、上野さんが「ジェンダーフリーを死守せねば」というフェミニズムの主流派と意見を異にしていたことは確かだった。

しかし、その後、主流フェミニズムに対して批判的なわたしたちのスタンスはウェブで示しているように変わっていない一方、上野さんはその後メーリングリストを開設し、かつて「行政と結託している方の人たち」と呼んでいた方たちと共に集会を開いたり、それをまとめた『「ジェンダー」の危機を超える!』(青弓社)を共に刊行するなど行動を共にするようになっておられる。ジェンダーコロキアムに企画を出したことから、上野さんと同じ考えだと誤解される方もないとは思うが、明確にしておきたい。傍目には、上野さんは今や行政と連結した主流フェミニズムのリーダーとすら目されている状況にある。

しかし、今やフェミニズムは孤高の人ではなく、行政とも連動してやっていけるし、その考え方がベストセラーにもなるほど受け入れられている。この現状を真っ当に認識する必要があるのではないか。いつまでも自分たちを「少数派」や「弱者」の位置において安住しようとするのは、現状を読み違えている。もちろん、行政との連携ゆえに今の男女共同参画政策が意識啓発に偏ることも受け止め、本筋の性差別是正へと軌道修正すべきである。今の男女共同参画政策が意識啓発に偏るから右派の道徳重視派から反発を受けている部分が大きいのである。それをせずに、「バックラッシュ」を大義名分として持ち出し、内部批判を封じたり、スルーしたりするのでは、フェミニズムは先細りになるだけだ。いくら覇権を握っているのがシニア世代だからといって長生きできなくてもいいということにはならない。

私からの提案としては、批判を含めて内部の議論を活発にすること、メーリングリストや更新の少ないHPにとどまることなく、議論をウェブ時代に適応して拓いていくことをあげておきたい。あー、『女性の品格』には、インターネットは危険なので近寄らないのが女性の品格だといった趣旨のことが書いてあったんだ・・・。(2008-01-13 ジェンダーとメディア・ブログ・エントリー)