カテゴリー: 書評

『行動する女たちの会資料集成』全8巻と、映像記録『行動する女たちが未来を拓く』

執筆者:山口智美

2015年7月から、2016年6月にかけて、編集復刻版『行動する女たちの会資料集成』全8巻が発行された。

運動体の記録を残すとき、過去の運動体による発行物を集めた資料集を作るべきなのか、または 過去を振り返って、運動の当事者および第三者が歴史を記述するべきなのかの2つの方向性がある。1999年に未来社から刊行された『行動する女たちが拓いた道』は、後者の方法をとった。「行動する会」の歴史を、運動に関わった当事者が記述することで、現在や未来の女性運動につなぎたいという問題意識が大きい本だったからでもある。そのため、あくまでも、運動当事者が、この記録の執筆当時であった1999年の視点から、自らの記憶を中心として歴史を振り返った ストーリーを提示したものとなった。

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巻末に収録された年表により、運動の流れはわかるが、年表もやはり、すべての出来事を記述することはできない。1999年当時の編集委員の視点から重要だと考えた出来事等を選び、小さな表形式のスペースに入るような形で執筆、編集したものである。 ページ数の限定もあり、運動の記録としては不十分な面があったことも否めない。

編集復刻版『行動する女たちの会資料集成』全8巻(詳細情報はこの記事最後に掲載)が発行されたことで、会の運動を実際に行っていたときの視点からの資料をまとめて見ることができるようになった。『行動する女たちが拓いた道』と合わせて読むことで、当時と現在と両方の視点からの行動する会の歴史がまとまった形で提示された。(私が書かせていただいた「解説 行動する会を女性運動史に位置付ける」は当サイトにも掲載している。)

資料集成のパンフレットの表紙。年表や推薦文などが入ったパンフレットは六花出版サイトからダウンロードできる
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さらに、今年の6月には、映像記録『行動する女が未来を拓く』が完成し、9月にはDVDの形になり販売が開始された。
この映像に記録は、昨年7月の『行動する女たちの会資料集成』出版記念の集会での元会員の方々のご発言に加え、個別に何人かの元会員の方々にさせていただいたインタビューも収録されている。さらに、元会員が所有していた、当時の運動の貴重な写真からも収録されており、どんな人たちが、どんな雰囲気で運動していたのか、彼女たちの生の声が聞ける、貴重な記録だ。

私自身もこのプロジェクトのインタビューをいくつもさせていただいたが、お話の内容も貴重だったし、それを語ってくださる皆さんのパワーや感情などに動かされるところがかなりあり、私にとっても本当に貴重な経験になった。行動する会関係の編集の際はいつもそうなのだが、DVDのための編集作業でもやはり様々な議論が喧々囂々となされたりもして、参加すること自体が楽しく、かつ考えさせられたり、自分の思いをお互いに語ったり、、という場でもあった。

DVDは、送料込みで680円で販売。複数枚ご注文の場合、680円×○枚。運動として広げたいという意味もあってのこの値段。是非ご覧ください!
お申し込みご希望の方は、「行動する女たちの会」映像を記録する委員会 kodosuruonna@gmail.comあてにメールでお申し込みください。追って、お支払い方法などをメールでご連絡させていただきます。

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以下、編集復刻版『行動する女たちの会資料集成』全8巻の詳細情報を紹介しておきます。

国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会(1975~96年)の全記録!
インスタントラーメンCM「私作る人、僕食べる人」、NHK女性アナウンサーが天気予報とアシスタントばかり担当していることなど、性別役割分業に抗議し、家庭科の男女共修、出席名簿の男女混合の運動を推進して70年代から90年代のウーマンリブ/フェミニズム運動の一翼をになった「行動する会」。
その活動を記録するチラシ・宣言文・裁判資料・リーフレット・機関誌等、資料約630点を編集復刻!
1975年、性差別への怒りを行動に変え、果敢に異議申し立てを実行した、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(1975〜96年)の活動記録のすべてを網羅!

「女らしく」「女だから」の常識=性別役割分業に挑み、分断されている女たちに連帯を呼びかけ、教育・労働・マスコミ・離婚・主婦・などのグループを立ちあげて、女をめぐるさまざまな問題に取り組んだ「行動する会」。
自分たちのいたみや怒りから出発し、男社会のバッシングに徹底的に反駁しながら、あらゆる場にひそむ女性差別を告発し、社会を動かしたその行動は、1910年代の『青鞜』から始まった、日本の女の運動史に明確に刻印されるべき運動である。
現在もなお頑強に残り、さらに深刻になっている性差別問題を解決したいと望むすべての人に、女たちの二二年間の記録を提供する。

◉体裁
A4判(第1巻・第2巻)
B5判(第3巻〜第8巻)
上製/総約3、300ページ
◉揃定価
180、000円+税〈全3回配本〉
第1巻 チラシ・抗議文・声明書等Ⅰ(巻頭に解説)
第2巻 チラシ・抗議文・声明書等Ⅱ
第3巻 パンフレット等出版物Ⅰ
第4巻 パンフレット等出版物Ⅱ
第5巻 機関誌「活動報告」1975年4月~80年
第6巻 機関誌「活動報告」1981~86年3月
第7巻 機関誌「行動する女」1986年4月~90年
第8巻 機関誌「行動する女」1991~96年10月

◉編
高木澄子/中嶋里美/三井マリ子/山口智美/山田滿枝
◉推薦
笹沼朋子/樋口恵子/ノーマ・フィールド/安田常雄
栗田隆子/千田有紀/谷合規子/角田由紀子/福島みずほ/三木草子/山口里子/横田カーター啓子/米津知子
◉解説
井上輝子/山口智美

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斉藤正美【書評】『海を渡る「慰安婦」問題』

山口智美・能川元一・テッサ・モーリス・スズキ・小山エミ『海を渡る「慰安婦」問題 右派の歴史戦を問う』岩波書店を読んだ。本書は「歴史戦」が、右派運動による、安倍政権、外務官僚まで総抱えの仕掛け戦であり、その結果、「歴史戦」が諸外国から顰蹙を浴び、彼らがいうところの「国益」を損じていることを明らかにしている。

安倍政権が巨大な勢力となった現在、安倍政権のアキレス腱である、日本の植民地主義や戦争責任を否定する歴史修正主義がどのような背景から生まれ、どのような思惑と戦略が込められているかを検証した本書は必読である。安倍政権の弱点を突き止めるためにも本書を多くの人が読むことを薦めたい。

なお、「歴史戦」とは、「中国、韓国、および『朝日新聞』が日本を貶めるために、歴史問題で日本を叩こうと「戦い」を仕掛けている、そして今、その主戦場がアメリカ」である」(p.ⅵ)という言論の「戦い」を指すという。仕掛けたのは、彼らが「敵」とみなす勢力であり、自らは被害者という位置づけだ。

ところで、能川元一さん@nogawam の「「歴史戦」の誕生と展開」によれば、大量に流布するゆえ「事実」と誤解しがちな「歴史戦」言説は、実は「論証において怪しくとも、熱心、かつ声高に、さらには確信的に自説を唱えるのが有効である」(佐瀬昌盛教授、p.9)という戦略により右派が仕掛けた言説運動であるというのだ。

「日本側から、「熱心、かつ声高に、さらには確信的に自説を唱え」ることによって歴史認識「対日包囲網」を突破しようとする戦いこそが、「歴史戦」なのである」(p.10)とする。このように右派運動は、被害者と見せかけているが、実は右派が野心に富んだ言説運動を自ら仕掛けたものなのである。仕掛ける媒体は、『産経新聞』や『正論』が中心であるが、論証に基づかなくとも「確信的に」「唱え」ればよいという「戦略」を打ち出しているのが上述のように学者であることも本書では明らかにされており、興味をそそられる。

第二次安倍内閣時代には、今度は「歴史戦」や「歴史戦争」と名付け、「強い日本へ——さらば、「心の戦後レジーム」」という特集を組むなど、歴史認識問題で安倍政権をもり立てようと、大攻勢に出ていた。すなわち、「歴史戦」というのは、安倍政権のために仕掛けられたプロパガンダなのである。

この書により、安倍政権のプロパガンダの仕組みが解明されたことは、極めて重要な意味を持つ。 安倍政権のアキレス健の一つが丁寧に解析され、その弱点も晒されている。それをどのように使って、対抗方法を組み立てるかが今、我々に問われているのだと思う。これらが能川さんの第一章を紹介したものである。

ところで、この書の重要性に気づかされたのが、たまたま安倍政権が改憲三分の二を勝利したターニングポイントであったことに意味があるのかもしれない。この機会にこそ、ぜひ多くの人が本書を読まれ議論が盛んになればと願う。

また、ここまでは、国内政治にのみ言及したが、この「歴史戦」という仕掛けのせいで最も大きな被害を被っているのは、植民地主義や戦争の被害者の方がたである。未だに解決していないのみならず、繰り返し、中傷され、否定され、いないことにされているのであるから。この状況を変えないといけない。

『右派の「歴史戦」を問う』本は、1)日本を、中国、韓国、朝日新聞という「反日」勢力から狙われた「被害者」であるとするのは右派勢力が仕掛けた虚構のプロパガンダであること、2」このプロパガンダは安倍政権を反日の中国、韓国に対抗する「強い政権」として打ち出してきたこと、を暴いている。

amazon軍事部門で1位の人気を博する『海を渡る「慰安婦」問題』いわゆる「歴史戦」本であるが、2章小山エミ章で重要なのは、ネットでよく言われる、海外在住日本人が慰安婦像設置後に「日本人いじめ」が多く勃発しているという件を調査し、一件も実態がなかったことを報告していることだ。

小山エミさん@emigrl は、報道されているグレンデール市について、現地の警察・学校・教育委員会、他のさまざまな機関や民間団体に問い合わせたが、何の連絡も通報も報告されていなかったことを明らかにする。さらに、デマの蔓延こそが、関東大震災時にもあった差別的なデマを連想させると言う。

『海を渡る「慰安婦」問題』は、海外に在住する著者らが海外で「慰安婦」問題を否定したり否認したりと暗躍する日本政府の意を汲む外交官の活動をつぶさに知る機会があり、そうした実態を丁寧に報告している。私たちは、これを読み、それがいかに顰蹙を買う行動であるかがわかり、慄然とするわけだ。

国内に住む私たちも、「日本の名誉」のために行われているそうした行動をきちんと知っておく必要があるとつくづく思わされた。知れば知るほど、「誇り」や「国益」のためにということでなされていることのあまりのお粗末さに、気分が暗くなってくるのであるが、、。

歴史学者であるテッサ・モーリス・スズキさんの3章は、ケニアでの虐殺事件や、インドネシアで「慰安婦」にされたオハーンさんの物語を挿入することで読者の感情を揺り動かしつつ、その主張を伝えようとしていると感じられた。テッサさんの章で最も興味深い問いは、「戦後生まれの人々にも先行世代が行った戦争や不正義に対する責任や謝罪の義務は存在するのか」(P.73)という問いとその答えを示す部分だった。

「実際に手を下ろしたことではないにせよ、過去の不正義を支えたその問いの答えは、「差別と排除の構造」が現在も生き残っているのであれば、私にはそれを是正する責任が確実にある」(P.74)というものだ。なぜなら「過去の憎悪と暴力、歴史的な嘘に塗り固められた差別と排除は、現在も社会の中で生き残り、再生産されていくのだから(P.75)という理由を、テッサさんは、ケニアの虐殺を忘れない記念碑、オーストラリアのアボリジニー、インドネシアで「慰安婦」にされたオハーンさんの例を引いて述べる

大正期にヒットした「籠の鳥」という「娼家」の女性を歌った歌の詩を紹介して、戦時「慰安婦」が世界の人々の定義によればどの角度から見ても「性奴隷」であるとしか言えないことを述べている部分は、圧巻であった。ぜひ『海を渡る「慰安婦」問題』お読みいただきけたらと思う。

山口智美さん @yamtom の4章「官民一体の「歴史戦」のゆくえ」では、「慰安婦」問題を中心とした歴史修正主義と右派の流れについて、1990年代から安倍政権での2015年末の「日韓合意」に至るまでを辿り、日本会議から在特会などの排外主義運動までかなり主張が異なる右派運動が、「慰安婦」問題ではある意味、共に闘ってきたこと、また安倍晋三をはじめとした主要な政治家も積極的にこの動きに関与してきたことなどを明らかにしている。現在は「女性活躍」や女性閣僚の登用を目玉とし、海外では女性登用のリーダーを任じている安倍晋三だが、「慰安婦」問題では早くからバッシングの急先鋒でもあったことがわかる。

さらに、「「慰安婦」問題の主戦場はアメリカ」と右派が主張するようになってから、海外の研究者やジャーナリストへのバッシングが増えたという。そして、著者自らがこのバッシングの対象にもなったことが記されている。さらに、右派による海外発信の増加に伴い、これまた著者自身が、国会議員から送られた、呉善花の著作と産経新聞の「歴史戦」という発行物を手にするくだりは、「真実はこうだ」というドキュメンタリーを読んでいるようだ。

山口さんの章では、国会議員や外務省の官僚、電通といった私たちが信頼をおいていた方々が、「主戦場はアメリカ」という右派の考えと共振し、歴史修正主義の言説を海外に拡散している事実がこれでもかこれでもかというくらい報告されている。

私たちが知らないところで、こうした情報の拡散がなされていることはぜひ多くの方に知っていただきたいと強く思う。

(ツイッターで連続ツイートしたものに、若干加筆しました。)

 

 

リブ関連書の紹介

日本のウーマン・リブ運動に関する書籍をいくつか紹介。抜けているものもあると思うので、このリストにも加筆がはいっていくかもしれません。
(ブログ「ふぇみにすとの論考」2007年10月2日付エントリに若干加筆したもの。)

リブ全体像

  • まずはリブを語るに必須のこの3冊。当時のリブの書き物のコレクション。これだけの資料を選び、各団体や文章の著者に連絡をとり、、と、編集は大変な作業だったという。1〜3巻まで、年代、テーマ、地域と複数の柱のもとに構成されており、リブがいかに一極集中ではなく、さまざまな地域で起きていた多様な動きだったかというのがわかる。資料日本ウーマン・リブ史 (1)、(2)、(3)
    溝口明代、佐伯洋子、三木草子編
    松香堂書店

資料日本ウーマン・リブ史 (1)

資料日本ウーマン・リブ史 (2)

資料 日本ウーマン・リブ史〈3〉

  • そしてこちらも必須の一冊。『銃後史ノート』と『銃後史ノート戦後篇』全冊は、日本の女性運動史を語る上で欠かせない書物だ。他の巻は女性史家たちがまとめた文章が主になって掲載されているが、この最終巻の『全共闘からリブへ』だけは、当事者たちが書いた文章が主になっており、興味深い座談会も掲載されている。全共闘からリブへ 銃後史ノート戦後篇〈8〉1968・1~1975・12 (銃後史ノート戦後篇 (8 68・1~75・12))
    女たちの現在を問う会編
    インパクト出版会

  • 「文学史を読みかえる」シリーズの一冊。リブという“革命” 近代の闇をひらく (文学史を読みかえる)
    加納実紀代編
    インパクト出版会

  • リブに関する本としては最近(2006年)発行の本。女(リブ)たちの共同体(コレクティブ) 七〇年代ウーマンリブを再読する
    西村光子
    社会評論社

  • リブ運動に関わり、「女性学」という言葉をつくりだした研究者、井上輝子さんによる初期の本。リブの思想やミニコミについての論文所載。女性学とその周辺
    井上輝子
    勁草書房

女性学とその周辺

  • 学者によるリブの再評価、という面で影響力がかなりあったと思う本。女性解放という思想
    江原由美子
    勁草書房

女性解放という思想

リブ団体の記録

  • 新宿リブセンター員だった、米津知子さんをはじめとする方々がリブセンター「活動休止」以降もずっと資料を保存し、長年かけて整理し、ご自宅に保存されていたものを編集した、あまりに貴重な運動記録の書籍化。「この道ひとすじ」はリブセンター発行のニュース。イラストもたくさん書かれ、当時の「楽しさ」と運動の勢いのようなものが伝わってくる。もう一冊のほうは、当時のパンフレットやビラなどを集めて掲載。パンフ、ビラ篇のほうは、とにかく値段が高いのがネック(5万円!そして重量も相当なもの)で個人所有には厳しいが、もし比較的お金がありそうな図書館(とくに大学など)があればぜひリクエストしましょう。リブ新宿センター資料集成
    リブニュース この道ひとすじ リブ新宿センター資料集成
    リブ新宿センター資料保存会

  • 山川菊栄さんらの呼びかけにより創立。1962年代から活動をはじめ、2001年に解散。とくに女性学がなかった時代、地道な研究や議論を積み重ね、目立たないが重要な役割を果たした団体だと思う。いわゆる「リブ」といえるかどうか、人によって評価は割れるかもしれないが、リブに大きな影響をうけたり、自らも「リブ」となのる会員は多くいたと聞く。田中寿美子さん(元参議院議員)、樋口恵子さん、駒野陽子さん、中嶋里美さん、井上輝子さん、梶谷典子さんなど、この会を契機として女性運動に関わるようになっていった方々は多い。社会変革をめざした女たち 日本婦人問題懇話会会報アンソロジー
    日本婦人問題懇話会会報アンソロジー編集委員会
    ドメス出版
  • 社会変革をめざした女たち―日本婦人問題懇話会会報アンソロジー
  • 家庭科の男女共修をすすめる会の記録集。この会なくしては、家庭科の共修は達成されなかっただろう。70年代から、女性運動は教育における性別役割分担を批判していたのだ。74年発足、97年解散。一テーマに集中して運動を長年にわたってすすめ、成功し解散した運動体の例でもある。家庭科、男も女も!?こうして拓いた共修への道
    家庭科の男女共修をすすめる会
    ドメス出版
  • 家庭科、男も女も!―こうして拓いた共修への道
  • 私も編集委員会の一員だった、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会』の記録集。本文には75年〜85年までの会の歴史が実際運動に関わった方々の視点から書かれ、巻末年表には86〜96年までの歴史も加わって掲載。(この会が「リブ」かどうかも評価が分かれるところだけれど、この記録集の編集に関わった人たちは自らを「リブ」と呼ぶ人たちが大部分だった。)行動する女たちが拓いた道 メキシコからニューヨークへ
    行動する会記録集編集委員会
    未来社
  • 行動する会が86年、『行動する女たちの会』と名前を変えて以降に力をいれた、メディア関係の運動の記録。ポルノ・ウォッチング メディアの中の女の性
    行動する女たちの会
    学陽書房
  • ポルノ・ウォッチング―メディアの中の女の性

    個人の著作

  • 影響力甚大だった本だし、ある意味リブの古典でもある本。リブ=田中さん、という評価はおかしいと思うが、この本が多くのリブたちに読まれ、影響を広く与えたのは事実だし、今読んでもパワフル。いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論
    田中美津
    パンドラ
  • 「ウルフの会」などに関わっていた秋山洋子さんによる、リブ運動経験に基づいたリブの歴史。リブ私史ノート 女たちの時代から
    秋山洋子
    インパクト出版会
  • リブ私史ノート―女たちの時代から
  • リブに関して勢力的に著作活動をされ続けている、加納実紀代さんの私的なリブ(やその時代)の歴史まだ「フェミニズム」がなかったころ 1970年代女を生きる
    加納実紀代
    インパクト出版会
  • まだ「フェミニズム」がなかったころ―1970年代女を生きる
  • リブ以前からリブをへて、行動する会、戦争への道を許さない女たちの会など、ずっと女性運動、平和運動をリードし続けてきた吉武輝子さんの運動史。おんなたちの運動史 ーわたくしの生きた戦後
    吉武輝子
    ミネルヴァ書房
  • このように出版物もけっこう出ているのだが、やはりリブなど運動を知るには、出版されていないミニコミ類などを見るのもとても重要。

    リブ関連の資料は、『資料ウーマンリブ史』の編者さんたちが、大阪ドーンセンター、横浜女性フォーラムに寄付されており、閲覧することができる。

    行動する会のニュースレターやパンフは、東京ウィメンズプラザ、お茶大ジェンダー研究センターなどで閲覧可能。

『続・はじめて学ぶ ジェンダー論』の感想その2

執筆者:斉藤正美

2006年4月22日ブログ掲載

前回のエントリーで取り上げた『続・はじめて学ぶ ジェンダー論』伊田広行著(大月書店)批判の第二回である。今回は、同書で用いられている「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」「シングル」など出てくる概念に矛盾が多いのでその点をとりあげることにする。


女性/男性問題などについては、行政などが「ジェンダーフリー」や「男女共同参画」のほうをキャッチフレーズとすることが多くなった。しかし、「男女共同参画」は基本法での定義があるが、法律で定義されておらず、裁判で争われたこともない「ジェンダーフリー」や「ジェンダー」はわかりづらい。しかも、これらは日本社会でどのような意味で運用していくか、ということが今だ議論彷彿で定まっているとはいえない。そのため、論者によっていろいろな意味が特にネットであふれ出しており、批判を含めた多様な議論が生まれている。ネット世界でも「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」の意味への関心が高いわけである。

このような社会状況を考えると、上述の「初めて学ぶ」を謳った入門書は、大変注目されるところである。私がこのような批判を行うのは、「ジェンダー」ということばが類似の用語とあわせて、いかなる意味で活用されるのがいいか、ということを考えるからである。女性/男性問題の政策につながる議論として行っているのであり、決して言説にとどまる批判ではない。

2) 「ジェンダー」「ジェンダー・フリー」「シングル」概念の矛盾

本書には、ここで取り上げる「ジェンダー」「ジェンダーフリー」「シングル」のほかにも、「ジェンダーの視点」「ジェンダー・センシティブ」「「ジェンダー・バイアス」「ジェンダー平等」「男女平等」といった、似ているものの少しずつ意味の異なる概念がふんだんに登場する。しかも、それらは登場する場所によって意味が一様ではなかったり、重なっていたりと混乱している。

個々の矛盾点をいちいち列挙しても意味がないので、「ジェンダー」「ジェンダーフリー」「シングル」など本書の主要概念が「性差別の解消」という本書の目的と矛盾がないかという点に軸足をおいてみていきたい。

■1.「ジェンダーから離脱した個人」の押しつけ

まず、「シングル」の説明から入る。以下のようだ。

「私が使う『シングル』という言葉は、独身ということではありません。前近代、あるいは近代社会において皆が信じていた「男とはこういうもの、こうすべきもの、女とはこういうもの、こうすべきもの」というイメージ、役割、アイデンティティ(つまりジェンダー)から離脱した、自立した人のことをいいます。そしてこれからの社会は、そうした人が社会の基本単位とするようなシステムを作るのが合理的だという主張をしているわけです。だから「シングル」という言葉には、「独身」や「単なる個人」という意味合いが入ることもありますが、私の主張の中では基本的には「ジェンダー・センシティブ、ジェンダーフリーという新しい感覚を持った個人」という意味です」(P.9-10)

「シングル」は、「ジェンダーから離脱した、自立した人」でかつ、「ジェンダー・センシティブ、ジェンダーフリーという新しい感覚を持った個人」とされる。「ジェンダー」から離脱した上で「ジェンダー・センシティブ」であることが可能だろうか。そもそも意味がこんがらかってどういう意味か、紛らわしいカタカナの連続で「はじめて学ぶ」読者には考えるのも頭が痛くなりそうだ。ここで頭が混乱してきたので、「個人」についての箇所を探す(ジェンダー・センシティブ、ジェンダーフリーの定義については後述する)。

「自分のアイデンティティも「女性」「男性」におかないという指向が求められます。私は『男としての自分』というような自己認識を徐々に必要としなくなってきています」(P.12)

この一文には驚かされる。「ジェンダー水準に立つなら、つねにこうした男女二分法の限界と差別性を意識しておくしかない」(p.11)というように男である著者が舌鋒鋭く「男女二分法の限界や差別性」を説く一方で、著者が「男性」というアイデンティティを必要ないということに大きな矛盾を感じてしまう。

私は自分が女であることを原点に自分のフェミニズムを語る。社会的に「女」として見られることへの違和感から摂食障害などいろいろ社会的葛藤を経てきたが、ようやく自分の葛藤が女性が差別される「マイノリティ」の側にいることによるとわかった。女が女というアイデンティティを捨てて差別を語ることは考えにくい。

ところが、著者は「男」であるというアイデンティティを何の未練もなく捨て去るという。それは、著者が「マジョリティ」の側に身を置いているゆえんではなかろうか。差別をなくすといいつつ、差別する側とされる側の関係を追求しないで「差別の解消」を訴えるジェンダー論は、根本に大きな矛盾を抱え込んでいる。

読者に「アイデンティティを「女性」「男性」におかないという指向が求められます」(p.12)という主張は、私たち読者に自ら自由であるべき「アイデンティティ」を強要している。先に引用した箇所でも、「ジェンダーから離脱した、自立した人」でなければ、これからの社会で「社会の基本単位」(p.9)としてみなすべきでないかのように読める。人がいかようなアイデンティティを持とうとそれは一人一人の勝手である。自分のアイデンティティくらい自由に決めさせてもらいたい。こういう価値観の強要こそ「ジェンダー」の抑圧といえそうだ。

さらに、著者が男性としての権力性を無視しているという前回のエントリーで述べた本書の欠点は、自ら「男」というアイデンティティを放棄したと著者が思いこんでいることに原因がある。著者曰く「多数派は何も意識しなくても生きていけます。自分の常識はみなの常識であり、『自分と異なるような人がいる』と意識する機会がとても少ないのです。だから自分が多数派だ、権力を持っている側だと自覚さえしないのです」(p.19)。権力や「男」を捨てたと思いこむ著者が女性読者(前回参照)をターゲットに「アイデンティティを変えよ」と強要するのが本書である。差別の解消を求めて、意識の強要をするとはこれまた大いなる矛盾ではないか。

■2. 意識改革で「性差別」は解消するか

「ジェンダー論(フェミ)を「男女平等」理解するようではまったく不十分であるという点を確認しておきたいと思います。私のジェンダー論では、『男女』でなく『ジェンダー』ということの重要性に注意を喚起しています。」(p.10)と述べ、「男/女の二区分(男/女らしさ)を自然視するな、男女二分法で考えるな、異性愛を当然視するなという点がまずジェンダー視点です」(p.10)

「可変的で、大幅に男女で重なり合う部分が大きいにもかかわらず、身体的・肉体的・生物学的差異に過剰な意味づけをして、それが『自然で不変』とし、性別でキレイに二分化してしまう『思考の偏り』『思考の癖』を見直そうというのが、ジェンダーの視点なわけです。その観点に立って、現実の性差別/人権侵害を減らしていく具体策を考え、実行していくのがジェンダー(ジェンダー・フリー)の立場なのです。」(P.31)

「『ジェンダーの視点』で見たときの「偏り/偏見/非対称性」を総称して『ジェンダー・バイアス』と言います。たとえば、性別によって異なる規範意識や性のステレオタイプ、偏見を強固に持ち、それを当然/自然と考え、相手にもそれをあてはめたり、押しつけたりする傾向は、ジェンダー・バイアスのある態度と言えます」(P.33)

「『ジェンダー・センシティブ』とは、ジェンダーに敏感であること、つまり生物学的性差(セックス)だけではなく、社会的性別であるジェンダーというものがあり、それが重要であると見て、一見『自然』に見える事柄(性別による異なる扱いや個々人が持っている性に関わる規範)の中に「つくられたジェンダー」「差別抑圧としてのジェンダー」を見出し、ジェンダー・バイアスを持たずに接する態度のことを言います。」(P.34)

本書の「シングル」「ジェンダー」「ジェンダーフリー」「ジェンダーの視点」「ジェンダー・センシティブ」という概念を引用した。これを見て気づくのはいずれも、「視点」「意識」「態度」など「こころの持ちよう」に焦点をあてていることだ。どういう目線で人をみるか、どういう意識をもつべきか、どういった態度を示すか、という心理中心主義なのである。

先に「シングル」を「新しい感覚」と感性として述べていたが、ここでも焦点があたっているのは、「視点」や「考え方」「思考の偏り」「思考の癖」「偏見」「規範意識」「ステレオタイプ」などに頭の中や心の中の事象である。要するに、「視点」や「意識」などを変えろという教えなのだ。

次の文がさらにそれをはっきりと示している。「不断にできるだけその再生産に加担しないように意識し続けるスタイルです」(p.14)。

これらは、まるで「スピリチュアル」で「シングル」で「ジェンダーフリー」意識に変われば世の中変わるような幻想を振りまいている。しかし、「こころのありよう」を変えることと、複雑多層的な社会において性差別をなくすことの間には相当の距離がある。そこをどうやって埋めるかこそ、重要な課題である。意識を変えることでどうして性差別をなくすことができるのか、その間をつなぐ説明こそ重要なのだが、そこは見えてこない。意識変革が性差別をなくすことにどうしてつなげるかを欠いていては、これは空想的な物語りにすぎなくなる。

著者は「性に関わる差別・権力関係の解消を目指す」(p.25)などと「差別の解消」という目的をもっとも重要視しているようにみえる。しかし、「差別の解消」という目的と「意識し続けるスタイル」の「ジェンダフリー」が矛盾を来しているのだ。

「マイノリティとは、『少数派』『少数者』という意味です。(中略)社会における地位の低さ、力関係における『弱い立場』、支配される側、暴力を受ける側といった、人権において、不利にされている側の総称です。(中略)人類の約半数の女性も大きな構造の中では、基本的にマイノリティのグループです」(P.18)

「マイノリティ自身が、強者の価値観(世間の価値観)を内面化させて自己否定感、コンプレックス、自己嫌悪感を持つことが多いのです。強者の秩序、価値観の中でマイノリティ(負け組、被差別者、社会的弱者)は、差別され、自分の存在が否定されているように感じます。」(P.18)

上で書かれた「シングル」は、現社会ではまだ到達している人が例外的である。その意味では、てっきり「シングル」も「マイノリティ」だと思って読んだが、「シングル」は「強者の価値観を内面化させ、自己否定感、コンプレックス、自己嫌悪感をもつ」マイノリティには含まれないようだ。

本書の「シングル」は、あこがれる対象であるものの実現不可能な空想的な存在と規定されている。これでは、「ジェンダーから離脱した個人」であり、「意識し続けるスタイル」をとる著者本人しか到達できない空想とならざるを得ない。著者が「スピリチュアル」という意味不明の概念を取りいれているのは、「スピリチュアル」を体感できる解脱者である著者のみが「ジェンダーフリー」の世界に到達できると言っているかのようである。これは啓蒙書というより宗教書に近いのかもしれない。

これで「はじめて学ぶ」読者は「ジェンダー」がどういう意味かわかるのだろうか。「深いよ?」と言われても、深みにはまる前に、に混乱に足をとられて前に進む気が失せてしまいそうだ。

本書は、ユートピア的な意識啓発書である。とりわけ女性読者をターゲットにしたスピリチュアル系生き方教本である。このように女性を意識に閉じこめ、脱力させる思想が「フェミニズム」として流布されるのをだまって見過ごすことはできない。

『続・はじめて学ぶ ジェンダー論』についての感想その1(2006年4月16日)

執筆者:斉藤正美

取り上げるのは3月に刊行されたばかりの『続・はじめて学ぶジェンダー論』伊田広行著(大月書店)である。『はじめて学ぶ ジェンダー論』の続編ということだ。「ジェンダー」や「>ジェンダーフリー」「セクシュアリティ」などについてフェミニズム研究などの成果を引き継いだ書とある。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4272350218/250-3073010-1026611

大変興味深いテーマなのでしっかり読もうと思ったが、ちょっと読み進めるだけで、「スピリチュアル」「<たましい>との交流」などがやたら強調され、ジェンダー論とは無関係な言葉があちらこちらに出てくる。細木数子や江原啓之ならちょっと恥ずかしいけど、この本なら・・と女性読者が手に取る自分探し本の一種かと思ったくらいだ。

この本は、歴史的な視点を欠いているし、また「ジェンダー」「ジェンダーフリー」「フェミニズム」「フェミ」「スピリチュアル」などの概念規定が矛盾していることなど気になる点が多い。さらに、「セックス(性的行為)、性的解放について」のところへくると、急に感情があふれる語りになり多弁になる一方、他の箇所では自身の男性性や男性についての記述が少ない。

そこで、「<記述の中に表れる矛盾点に留意しつつ>、<記述に頻出する語彙や表現、記号などのパターンに着目>し、言説に潜在化されている書き手の権力性を検討する「批判的言説分析」の手法を交えながら、この本がどのような考え方や前提に立っているのかについて考えてみたい。

まず、著者が異性愛男や男学者の権力性に無頓着なまま、異性愛女を相手に、一人の異性愛者の男からみたあるべき女性論を語る、しかも、著者はそのようなスタンスのまま、「私のフェミ」などとフェミニズムを僭称しているという疑問をもったのでその点から述べていきたい。

1) 異性愛男の権力性に自覚的でないものをフェミニズムと言えるのか

「私のフェミ」と名乗る著者は、下に引用するように「ジェンダーを考えることは自分の生き方を考えること」、「自分の足元からリアルな視点で考える」(いずれも表紙より引用)と述べる。しかし、本書で語られるのは、決して自らの「足元」である「ヘテロ男学者としての生き方」ではなく、女性の生き方に関することが大半である。

足元からリアルに語っているのは「スローなセックス」(p.144)や「楽しいセックスとそうでないセックス」(p.63)などについてだが、セックス(性的行為)の帰結である人工妊娠中絶の章にくると、孕ませる性である男の立場にはほとんど触れられていない。性教育の章でも、避妊について言及されるのは、「片方の性だけでなく、男女双方がそれぞれ、避妊したり、責任を持つことが大事です。同時に、カップル単位でなく、シングル単位での自己決定が大事です。それは、男女で意見の相違があるとき、自分の体について、決定権があるのは女性本人だということです。」(p.134)というにとどまる。このように男性の立場に見直しをかけないまま、性的解放が奨励されたり、フェミニズムの課題である人工妊娠中絶やDV,セクシュアル・ハラスメントなどについて論じるのを黙って見過ごすわけにはいかない。
私の考える「豊かなジェンダー論(私のフェミ)」は、シングル単位論を基本としたものであり、その視点に立った社会システム全般の変革論、人間関係の変革論です。・・・・・・私は、『あなたの批判しようとしているのは私のフェミではないよ、ぜひ私のフェミを知ってから意見を言ってね。フェミって魅力的だよー、深いよー』というスタンスに立っています。 (p.9 )

「ジェンダーを考えることは自分の生き方を考えること」、「自分の足元からリアルな視点で考える」というように、足元からの現実的な(=リアル)視点を言うなら、男としての女に対する権力性をまっさきに語る必要がある。しかし、男性の立場性を見直すことをせず、自分だけは「スピリチュアル・シングル」(p.8)であることを主張し、女はジェンダーに囚われていると説教する。例えば、「美への囚われ」の章では、女性雑誌を例に挙げ、女は「男に求められてこそ意味がある、モテない原因は、美人/スリムじゃないから、だから化粧やダイエットや服(ファッション)で魅力的になろう、という考え方があるようです。」(p.122-23)と述べる。

縷々述べた最後に、著者は女性たちに問う。「美に囚われているのか、自由に楽しんでいるのか」と・・・。そして、自信がない女が美しく装うことを「非エンパワメント(とても自分に自信がない状態)の上での、あせった行動なのか」(p.123)と諫める。これは余計なお世話だ。装い方くらい自分の好きなようにすればいいではないか。女がジェンダー規範に囚われているという伊田氏ご自身のジェンダー認識こそ問題である。

女たちにもいろいろあり、伊田氏の思うほどジェンダー規範に囚われていない女も多いのだ。伊田氏が、「ジェンダーの囚われ」に気づくために「ジェンダーフリー」を擁護されているのであるとすれば、「女はジェンダー規範に囚われている」というご自身の「ジェンダー認識(囚われ)」こそ真っ先に再考する必要があるのではないか。

その一方で、「『いやらしいの』のは楽しいこと!・・・・・人生は一回だ、楽しみましょう」とセックス、性的行為を謳歌しようという著者が、「中絶にまつわるジェンダー規範や思いこみを打ち砕いていき、当事者が自分を受容できるように援助していくことこそ、『傷』をそれ以上深めない積極方策です」と(p.119)と人工妊娠中絶をした女性の心のケアが「ジェンダーの囚われ」の問題として片づけられている。

孕ませる男性性に鈍感なまま、避妊や性感染症について具体的に触れることがほとんどなくセックス(性的行為)を「楽しもう」と奨励する一方で、人工妊娠中絶をジェンダー規範の問題として語る。これでは男の権力性にあまりにも無神経ではないか。これを「フェミニズム」を呼ぶのはとうてい受け入れがたい。

その他、「オススメ文献紹介」のリストをみてみると、ベル・フックス、姫野かおるこ、北原みのり、角田光代など女性の作家たちが並び、さらに「映像から学ぶ」の列には、『女はみんな生きている』『女ならやってみな!』『アイアン・エンジェルス』『歌う女 歌わない女』など女性監督の作品や女性をテーマとしたものが大半を占める。

このように全般的な内容からは、この本が女性の書き手によるフェミニズム文献や映画を参考にしていることがわかる。それは、この本が女性読者に向けているようにも受け取れる点だ。しかし、この本が、参考にあげる他のフェミニズム本と決定的に違うのは、書き手が異性愛男性であることだ。異性愛男性の権力性をとらえ返すことなく、男学者が女性読者向けに、女性の生き方や意識の持ちようについて意見する。しかも、それを「フェミって魅力的だよー、深いよー」なんて言われたら女の読者はどういう気がするだろうか。わたしには、著者が何をもって「フェミニズムは魅力的」「深いよー」というのか、さっぱり理解できなかった。

同書を読み進めると、「どっかの高みから正義の顔をして」とか「高みから批判」、「高みから断罪」といった常套句が大変多く使われていることに気づく。しかし、このように男であり学者であることの権力性に鈍感なことからして、「高みから断罪している」という批判は著者ご本人に当てはまってしまう。異性愛男性の著者が自らの権力性に無自覚なまま、女が「ジェンダーに囚われている」と断罪する本に「フェミニズム」を名乗られてはたまらないという思いに駆られた。

この本は、テーマも人工妊娠中絶や性暴力など女性たちにとって深刻な問題を扱っているし、章末であげられる「考えてみよう」というワークや「映像から学ぶ」などについてなど全体的に女性のことが多く語られている。このようにこの本のテーマは「フェミニズム」である。しかし、著者は異性愛男性のしかも学者である。そのような男性著者が自らの権力性に無自覚にフェミニズムのテーマを扱うのは、フェミニズムを僭称していると思うのだ。

次回は、この本が 2)「ジェンダー」「ジェンダー・フリー」「シングル」概念が矛盾していることを指摘したい。なお、「ジェンダーフリー概念を捨て去るという退却戦略は有効か?」という伊田氏の日本女性学会ニューズレター第101号(2005年2月)の記事で、「反対のために反対する人から邪魔されたくない」と「上野千鶴子さんや一部論者たちの意見」に対しご批判をいただいた。その折り、書いた対論はここを参照ください。 女性学の権威主義)。