「ジェンダーフリー概念」から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係

==全パネリスト報告アップ完了(New!! 2006年1月16日)==

2004年12月16日 東大ジェンダーコロキアム 報告

2004年12月16日、東京大学ジェンダー・コロキアムにて「『ジェンダーフリー概念』から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」というテーマの集まりが開かれた。本報告は、冒頭の報告を記録している。なお、他の発表ならびに質疑応答等については、テープ起こしが出来次第アップする。

「『ジェンダーフリー概念』から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」というテーマ企画は、山口智美・斉藤正美が企画し、上野千鶴子氏に持ちかけ、上野研究室ジェンダーコロキアムでの開催となったものである。企画趣旨を以下に添付する。

(2006年1月3日 TY&MS 記)

企画意図

『We』11月号での上野千鶴子インタビューにて、「ジェンダーフリーなど使わず、男女平等を使えばよいのではないか」という論点が出された。だが、女性学では、保守派のバックラッシュ攻撃や、東京都による「ジェンダーフリーに基づく混合名簿禁止/廃止」通達をうけて、「ジェンダーフリー」を今さらやめるのは「後退」であるとみなす見方も示されている。しかし、「ジェンダーフリー」や「男女共同参画」は、本当に「家父長的な逆風」をはね返す根拠となってきただろうか?

「ジェンダーフリー」とは、いったい何を意味するのか?「ジェンダーフリー」は、どのように作り出され、実践されてきたのか?この概念をめぐる問題は何なのか?そして、「ジェンダーフリー」を使わない運動は可能なのか?

むしろ、反動勢力によるバックラッシュが激化している現在だからこそ、「ジェンダーフリー」概念を導きの糸として、女性学、行政、女性運動が歩んできた歴史を振り返る機会としつつ、今後の女性運動や女性学の展開にむけての戦略を練っていきたい.

報告表題と報告者

  1. ジェンダーフリーとは何なのか:山口智美
  2. 「男女平等」を掲げる運動をやってきてみえてきたこと:山下清子
  3. それぞれの場における女性運動の対抗戦略:斉藤正美
  4. 混合名簿運動の現在–混合名簿運動の現在と都立高校の現場:高校教員長谷川美子
  5. 混合名簿運動の現在と都内中学の現場:中学教員A*

司会・コメント  上野千鶴子


上野
本日、なぜこういう集まりを主催することになったかといいますと、『We』という雑誌があります。公称2,000部という、まことにマイナーなミニコミですが、その「バックラッシュを打ち負かせ!ジェンダーフリーバッシングなんてこわくない」という特集で、上野がインタビュー受けました。同じ号に、今日来ていらっしゃる山口智美さんが「ジェンダーフリーをめぐる混乱の根源」という文をお書きになるなど、ジェンダーフリーバッシングの最近のバックラッシュをめぐる特集になっています。それが出てから、上野の発言が、諸方面で物議をかもしているらしいという情報がはいってまいりました。賛否両論いろいろ私の耳にははいっておりますが、それならまともに俎上にのせてみようではないかというご提案を、こちらにいらっしゃる斉藤正美さんと、山口智美さんご本人から提案をいただきました。そのご提案に沿う形でこういう構成をつくりました。私は司会をいたしますが、よくしゃべる司会なので、議論に適宜介入するつもりです。報告のあと全体でディスカッションをやりたいと思います。今日はそのWeの編集長である稲邑さんもこちらにおみえです。その特集号の『We』の現物がこちらに届いておりますので、お求めくださればと思います。
そういうわけで、私のほうからご紹介するというよりも、ご本人がまず自己紹介をしていただいて、問題提起をしていただければと思います。各自だいたい10分ずつくらいお話いただく予定です。私は時間管理に厳しいですから、ちゃんとタイマーがありまして、時間どおりにやっていただければと思います。まず問題提起に50分、それプラス上野がコメントを述べさせていただくという形で、私のほうからは特別に報告をいたしません。というのは、稲邑さんとのインタビュアーのなかで、彼女はたいへん聞き上手な方ですから、ほぼ言うべきことを言ってしまったからです。何をいってもくりかえしになるので、オープニングのスピーチはあえてやらないことにいたしました。ということで、早速始めたいと思います。それから、事柄の性格上、とりわけ教育現場にいらっしゃる方たちで、ジェンダーフリー・バッシングに抗しておられる方々は、皆さんご存知のように、とりわけ石原都政下で大変な抑圧をうけておられます。ここでのご発言については、ご本人に不利益になることも配慮せねばならないという状況すらございますので、写真とテープ録音はお断りいたします。それから、一部の方は、実名を使っておられないということもご承知ください。
では、山口さん、よろしくお願いします。
山口
現在、アメリカのシカゴ大学で東アジア研究所の研究員をしております、山口智美と申します。よろしくお願いします。
今日はジェンダーフリーという概念が生まれた背景や歴史、それにまつわる問題点について問題提起をしたいと思っています。で、本題に入る前に、私つい3日か4日くらい前に、ここにいらっしゃる斉藤さんと一緒に東京ウィメンズプラザの資料室に、東京女性財団のジェンダーチェックおよびジェンダーフリー資料をもう一回見てみよう、といって行きまして、「ありますか?」といったところ、カウンターの奥のほうにそれは置かれていて、「それは撤去処分になりました」と言われ、見ることができませんでした。というか、実際には見たんですけどこそこそと。いちおう貸してはいけないという処分になっているということなので、皆さんもしウィメンズプラザに行かれる機会があったら、ぜひ請求してください。で、抗議をしたほうがいいのではないかと思います。
こういう状態があるのはわかっているんですが、それでもやっぱりジェンダーフリー概念というのは問い直すべきなんではないか、今だからこそ批判的に検証しなおす必要があるのではないかと私は思いまして、それで、ジェンダーフリーというのがどこからいったい出てきたのか、というのを調べてみました。
まず最初に、日本語で書かれた文献をいくつか見たところ、バーバラ・ヒューストンという人物の論文が、唯一、アメリカの教育学の文献として引用されているということがわかりました。で、そのバーバラ・ヒューストンがどのように引用されているかというと、今日お渡しした資料の1番で、これはバーバラ・ヒューストン直接の引用ではないのですが東京女性財団版の「ジェンダーフリー」が説明されているものがあります。それと2番のところに、直接的にバーバラ・ヒューストンが引用されています。これは東京女性財団報告書ですね。で、まず1番の東京女性財団のジェンダーフリーというのが「心と文化の問題」であって、制度とかそういうものではないと、要するに心のありようであると、はっきりとこういう概念として東京女性財団は打ち出しました。これを誰が打ち出したかというと、報告書のほうをみると、これは深谷和子が執筆したところですので、深谷和子という心理学者、この人が考えたものであると。そしてこの人がバーバラ・ヒューストンを引用しています。で、バーバラ・ヒューストンはこんなことを言っていたかというと、実は言っていなかったというのが、『We』の記事に私が書いたことです。
バーバラ・ヒューストンという人はジェンダーセンシティブ、ジェンダーに敏感ということは主張しているんですが、ジェンダーフリーに関しては適切ではない、という主張をしていると。なんですが、資料の3番から6番までずっと見ていただくと、3番から5番まで学者がこのように間違えて引用している、そして6番で運動の集会資料からいただいたんですが、やはりまた、和製英語じゃないんだよと言っており、このようにバーバラ・ヒューストンが言った事になってしまっている、という事態があります。
もうひとつ、『女性学』の学会誌の中の、亀田温子さんの書かれた文章、「教育装置のつくりかえ」があります。これでヒューストンを引用して、ヒューストンの説明は80年代後半に女性に対する暴力の問題から明確となった、力の関係性の要因を含めたものとなっており云々かんぬん、、と説明しています。しかしこのヒューストンの論文は、80年代後半どころか85年に出されたものであって、全然コンテクストがずれている、つまりしっかりと読んでないということを発見してしまったということです。
要するに、ジェンダーフリーという概念が、もともとはとても保守的な心のありかたを示す和製英語として始まった。そして、他の学者たちがバーバラ・ヒューストンの誤読をそのまま広げてしまった。それでその概念というのが東京女性財団のジェンダーチェックパンフをはじめ、女性センターなどの講座、啓蒙活動、行政の助成事業としての市民団体とか研究者などのプロジェクトやその報告書などを通して日本全国にばーっと広がって行きました。
で、やっぱり心のありようというのはまずいということになったんだろうということで、ジェンダーフリーの新たな定義づくりが始められたと思われます。新たな定義づくりというのが、例えば7番の引用に書いてある、これは実は性差別の解消を示すんですよと、いうような定義があったりとかというような感じで、なんか新しいものがでてきたと。
このように、かなり意味がごたついている状態なので、ジェンダーフリーという言葉の意味が本当に、フェミニストの間でも、女性運動関係者の間でも共有されているとは思えないという状況があります。で、大沢真理さんは大沢真理さんでまったくこれが違うことを言っていて、ジェンダーフリーというのはジェンダーからの解放を意味する、とおっしゃっています。でも、ジェンダーからの解放、という意味でのジェンダーフリーも英語にはないです。
これだけ混乱したジェンダーフリーという概念、それも、心のありようというとても保守的なものから始まった概念であった。これに何で私はこだわる必要があるのかなあ、とすごく基本的な疑問をもっています。もっと説明しやすいはずの、男女平等であるとか、このジェンダーフリーという言葉で表している、ほとんどの事象を表すことができたはずの、性別役割分業であるとか、分担でどうしていけなかったんだろう?という疑問があります。
ですが、ジェンダーフリーを使わないということが、しかしこれは今バックラッシュの中でそういうことをするということは、バックラッシュに屈するということなのではないか、というような議論もあります。だけど本当にそうなのかな。これは、行政と学者の密着関係をもとに発展してきたコンセプトですので、こういう密着関係を問い直すことにつながるからやめられないんじゃないか。学者のメンツがかかっているだけなんじゃないか、というふうに私は正直いって思いました。
ということで、このバーバラ・ヒューストンがジェンダーに敏感な教育というのを言っているんですけども、彼女が依拠しているといのがジェーン・マーティンという教育哲学者です。で、その人たちが何を言っているかというので、バーバラ・ヒューストンに私は連絡とって、ジェーン・マーティンさんのお宅に伺って、お話を聞いてきました。で、二人とも、私たちはジェンダーフリーなどというのは全然主張していないと。それと、資料の引用に出ているように、ジェンダーセンシティブ、ジェンダーに敏感な、というのは、ジェンダーフリーを目指して、その一過程として存在しているのだと、ジェンダーセンシティブとジェンダーフリーはあまり変わらないんだよ、というふうな解釈があるようにも思えます。しかし、これについても聞いてみたんですけども、ジェンダーフリーの一過程ではジェンダーセンシティブはない。永遠に私たちはジェンダーに敏感であり続けなければならない、なぜかといえば教育現場というのは刻々と変わるものであって、いきなりコンピュータが出てきたりとか、いろいろな新しい状況があります。その中で、やっぱりいちいちいちいちジェンダーはチェックして、いちいちいちいち考えて行って、調査して、それでジェンダーに基づく差別的状況を変えて行かなければいかないものだ。だから、ジェンダーフリーな教育現場などありえない。ということなので、ジェンダーセンシティブというのとジェンダーフリーというのは全く違う概念であると。
このことが、英語の引用そのままで申し訳ないんですけども、9番と10番に書いてあります。もし英語ができる方がいらっしゃったら、後で読んでみてください。この2つ。最初の引用はジェーンマーティンの、一番最初にジェンダーに敏感な教育という概念を提唱したスピーチですね、これ。これ1994年の本ですけども、もともと81年にやったスピーチです。それからのもの。これは、ジェンダーフリーというのを私は支持しない、ジェンダーフリーというのはジェンダーというものを考えないことである、考慮にいれないことであるというふうに。で、バーバラ・ヒューストンのほうは、何人かの方はお読みになっていらっしゃる方もいると思うんですけども、ジェンダーに敏感というものと、ジェンダーフリーというものは違うと、最後のところですね。このヒューストン論文の。そこでも言ってます。
もうひとつ、日本の学者がよく言うことに、ジェンダーフリーの意味というのはジェンダーバイアスからの自由であるという、こういうふうにヒューストンが言っているぞというのがあります。ヒューストンの第三の定義というのが、これこそがジェンダーフリーの定義であるというような議論をよく耳にするんですが、これもヒューストン自身はジェンダーバイアスからの自由なんていうのは誰でも考えるようなことで、こんなことを言ったって今更仕方がないじゃないか、つまらないことであって、私はそんなことには興味がない、というような発言をされていました。
ということなので、2人の言っていることが、いかに日本でずれて伝わって、で、いかに東京女性財団版で心の問題にされ、でそれがどんどんどんどんと広がってそのまま放置されてしまったということです。
もうひとつジェンダーフリーという概念に付随して出てくるのにジェンダーバイアスという概念があるんですけれども、この定義もなんか日本語の文献をちょっと見てみたところ相当ぐちゃぐちゃであると。ジェンダーバイアスをめぐる混乱、というところに3つくらいちょっと書いておいたんですけれども、大沢真理は性別による偏りといっている、そしてその次の、ジェンダー平等社会をめざすネットワークさんは、固定観念のことであると言っている。そして館かおるさんは、文脈によって使い分けをすると。それでいろいろなことが入っていると言っている。何がなんだか私にはわかりません。ということなので、ジェンダーバイアスもわからない。
ここで誰でもわかる言葉を使って行くというのが非常に重要なんじゃないか。今このバックラッシュで敵になっているのは、保守派、要するに宗教団体がバックにいます。宗教団体、新宗教なんていうのは、わかりやすい言葉で人々を説き伏せるのはプロですから、それに対して私たちがジェンダーフリーのジェンダーバイアスのわけわからないこと言っていていいのかな。それよりも、もっと、もっともっとずっと使ってきた、適切な言葉があったんじゃないかなと私は思います。そういう問題提起です。
上野
はい、ありがとうございます。行政と学者の結託という刺激的なご発言が出ました。私がこういう場に出られる理由は、私は行政と結託していないほうですので、ジェンダーフリーがバッシングを受けても、私自身がその対象にならなかったために、痛くもかゆくもないということがあります。こういう言い方をすると、ピルの解禁をめぐって、かつて反対してきた人たちがまったく沈黙してしまったみたいな、女性のあいだの分断がここにも持ちこまれるという可能性もありますから、それもひとつの問題だろうと思います。それから、このようなあまり根拠のない和製英語が、このように流通してしまったことについては、私がいただいた様々なご感想の中では、江原由美子さんからのメールで、学者にも責任の一端がある、とおっしゃっています。次に。山下さん。自己紹介してください、皆さんに。
山下
富山県の高岡市から来ました山下清子といいます。
私のレジュメは、「山下資料1」(未掲載)、「年表」「高岡市と福岡町の合併」と、3枚あります。
それで、先ほど上野さんが富山から婦人会がきたというように紹介されましたが…・・、
上野
婦人会とはいっていませんけど。
山下
婦人会も入っているグループの集りで、「高岡女性の会連絡会」(以後、女性の会)の活動が15年前から続いています。その活動の事例発表という形で、やらせていただきます。
最初は1989年に、女性センターがほしいという「要望書」を行政に届けました。
線をひいてあるところをご覧ください。行政には、それまで女性政策の担当課がなかったのですが、総合計画の中に女性プラン、女性センターを位置づけました(註:HPに線は入っていません)。
1991年は、統一地方選挙の年でした。私たちは女性の議員を出そうということで、婦人会中心で仲間を送り出す選挙をし、無所属の女性議員1人を出しました。あと2人、政党の方も出られて、高岡市政 初の女性議員3人が誕生しました。それで、議員たちは質問、私たちは要望、という活動に入るわけです。
「要望書2」と書いてありますが、今度は女性政策を進めてほしいという要望書を出しました。その時期は、女性プラン、女性センター、女性専管課というのが女性政策の3本柱だったので、私たちはそれを要望しました。そして、女性プラン策定となります。そこでは混合名簿を取り入れるようにと書き込んであります。担当課は「女性・国際課」ですが、いちおう設置されます。
1994年になると、女性の会では政治のことを勉強しなくてはならないというので、広報誌に「政治を知る・学ぶ・行動する」というシリーズを開始し、自分たちで勉強しはじめました。
そして、富山県が女性センター設立するという時は、高岡市が中心になって県内の女性たちがネットワークして「要望書」を提出しています。
その後、1995年の選挙になるわけです。結局4年ごとの選挙に、女性議員を出すことは絶対必要ということで、取り組んでいます。
この時は県のセンターのこともあったので、県議を出そうと運動しました。その時、市長から呼び出しがありました。女性の会そのものではなく「ガンバ高岡女性県議の会」という政治団体を作って、そこから候補者を出しているので問題ないのですが、男性県議から市長のほうへ圧力がかかったわけです。私たちはキチンと説明して、選挙を行いました。
しかし、残念ながら市議選・県議選ともに次点となり、この時は本当に辛い思いをしました。
また、前からプランの策定委員などに公募制を取り入れてほしいと言っていたのですが、1995年になって公募制が取り入れられました。1996年には、市内小学校に男女混合名簿がはいっております。
選挙には負けたけれど、女性センターは大事だということで、1995年には「提言書」を出しています。この「提言書」は、すごく細かく書いたものです。「女性問題解決」という視点で、「男女平等」を掲げていました。
その後、県のセンター「サンフォルテ」ができて、そこで「女性センターを考える会」ができ、上野さんが講師に来られたりして、学習を続け活動のネットワークが広がりました。
1999年の選挙では、今度は県議も市議も当選しました。県議のほうはなって年ぶりの女性議員ということで、皆さん応援してくださいました。高岡市選挙区では初の女性県議でした。
女性プランの改訂になって、私たちは「男女平等プラン」にしてほしいと言いました。この市民委員も、最初の頃は私みたいな市民活動のメンバーは落選していたのですが、どのように選んでいるのかという質問などが出て、入いれるようになりました。
それから2001年、まだセンターはできません。市のほうはいろいろ事情がありまして、生涯学習センターと一緒に建てるという計画に変わってきたので、女性センター機能をもつ女性プラザということで、また「要望書」を出しています。
2002年には、条例について「意見書」を出しています。これも女性の会として「男女平等推進条例」(最終的にできた条例については、ここを参照)にしてほしいと書いています(ここも参照)。
それから、2003年・4回目の選挙ですね。県議・市議とも再選されました。このとき、市議をもう一人増やそうとしたところ、すごい圧力がかかりました。女性の会通信で、立候補する女性全員を推薦するというお知らせを書いたのが、配布された後に回収するようにと言われて、まあこの時は期間がちょっとずれこんでいたということもあって、回収しました。結局、一人増やすことは出来ませんでした。そういう辛い思いもしながら、それでもまた「男女平等推進センター」という名称にしてほしいという「要望書」を出しています。
それから、今年ですね。念願かなって、高岡市男女平等推進センターができました。駅前の再開発ビルの中、6階に「高岡市男女平等推進センター」という名前でオープンしました。
要望した時から15年、やっとセンターはできたのですが、合併という問題がでてきました。
高岡市は「男女平等推進プラン」だが、合併する福岡町のプランは「ヒューマンプラン」であるということや、条例ができていないこともあって、合併協議会の中で名称は「共同参画プラン」でいいのではないかと話し合われていると聞いて、私たちは「要望書」を出しました。
それからその時、合併協議会に女性の代表が少ないということで、それに対しても要望書に書いています。これが参考資料になっているほうの「要望書」です。
こういうことで、私たちは「女性問題」「女性政策」、それから「男女平等」という感じで運動してきました。そういう意味では、先ほど問題にされました「ジェンダーフリー」という言葉は使ってはいません。
地方で活動している私たちは、学者さんや東京での取り組み、それからヌエック(NWEC:国立女性教育会館)での取り組みを頼りにしているのです。
ぜひ、女性学者の方、議員の方、みんなが話し合って、女性が連帯する。み現場のことをちゃんと話し合い、それに沿った法制度を作っていく………そういう運動をしていってほしいと思います。
高岡が、がんばってこられたのは政治に関わって、議員を出し、要望書も出して、公募委員になり、傍聴に行き、ロビー活動をずっと続けてきた結果だと思います。
バックラッシュというのではないですが、いろいろな圧力がかかります。その都度、皆で話し合って連絡を取りながらやっているわけです。
今日も、みなさん方のご意見を聞かせていただいて、また運動を続けていきたいと思っていますので、よろしくお願いします。時間はどうですか?
上野
あ、まだ30秒あります
山下
じゃあ、これで終ります。
上野
山下さんありがとう。私のほうから質問していいですか?
山下
はい
上野
この年表、大変印象的な年表ですね。この中に「男女共同参画」という言葉を使ってこられなかったのは、何か意図的な理由がおありなんでしょうか。「ジェンダーフリー」という言葉も、意図的に避けてこられたんでしょうか。
山下
「男女共同参画」という言葉は、基本法やいろんなところで出ていましたが、女性の会としては、会を立ち上げた時が女性問題・女性プランでした。その後も話し合いでは、共同参画というのは出なかったと言っていいです。「男女平等」でした。思いの中には、女性差別があるから、まずは女性政策が大事、女性プランが大事。今度は「男女平等」でいかなくちゃ…と、いう感じでした。
上野
ということは、「男女共同参画」はすでに行政用語として存在してるから使わなくてよい、と?
山下
ありました。
上野
「男女平等」のほうが重要だというお考えですか
山下
私の思いですが、それこそ愚直なまでに「女性差別がある。それを無くさなきゃいけない」「共同参画」という言葉はわからない。やっぱり「男女平等」のほうがいいということです。
上野
じゃあ検討の上で、こういう選択をされたということですね。
山下
そうですね。
上野
はい、わかりました。「男女共同参画」というのは甘い、というお考えですね。私は、はっきり甘い用語だったと思います。これは男女平等を言わないための婉曲語法だったと思うので、それに対して「男女平等」をかたくなに使って来られた運動がある、というご紹介でした。?
ジェンダーフリーという用語についてはどうですか?
山下
それも言葉は聞いたり流れたりはしましたけど、センターができる前なので、センター要望という活動中には、高岡ではジェンダーフリーという言葉は出ませんでした。
上野
ということはジェンダーフリーという用語が、全国に定着していたわけではなかったという、ひとつの証言ですね
山下
そうですね。「サンフォルテ」などで用語としては聞きましたけど、高岡ではあんまり取り上げていません。
上野
わかりました。ありがとうございます。その次、斉藤さん、お願いします。
斉藤
はい、3番手の斉藤正美です。配付資料の肩書きに書きましたように、富山大学非常勤講師という研究者とシャキット富山35など女性運動の両方に関わってきました。今日のテーマが「ジェンダーフリー概念からみえてくる女性学・行政・女性運動の関係」なんですが、私自身、その安全圏から批判をするというのではなくて、それら(女性学、行政、女性運動)のすべてに無関係ではなく関わってきている立場です。例えば先に山下さんからご紹介あった高岡市の政策の件に関しましても、当初は女性運動家として市民サイドから女性プラン策定委員として高岡市の女性政策に関わっていましたし、男女平等推進プラン以降は専門委員として市の政策に関わっています。運動の方と一緒に、ずっと「女性問題の解決」としてやってきました。「男女平等」ということばですが、「共同参画」が(行政から)でてきたから初めて男女平等っていう(女性問題より)後退した形でもそれで押すしかない、っていうので、それを推進してきたんだと思っています。
今日は、山口さんのほうから「ジェンダーフリー」というのは官僚と学者によって、結託によってもちだされてきたまったく根拠のない、意味の定まらない概念だというご報告がありました。山下さんのほうからは、(最近の行政の動きのように)「ジェンダーフリー」を自粛して「男女平等」に変えたのではなくて、ずっとかつてから、「男女平等」、あるいは「女性問題」の解決ということでやってきたというご報告がありました。
それを受けまして、私は、条例制定において「ジェンダーフリー」ということばがどういうふうに実際使われているのか、また、それはどうのように役にたつか、というご報告をしたいと思っております。
私も先ほどプランや条例制定のところに関わったという話しをしましたが、資料で「男女共同参画条例は家父長的な逆風をはねかえす根拠だ」という文を示しました。『男女共同参画条例のつくり方』という本では(橋本ヒロ子さんにより)「条例をつくる必要性」というところで、「男女共同参画推進に対する逆風をはね返す根拠となります」(橋本2001:27)というふうに書かれていました。
で、私もあの、ころっと信じるたちですから、私この間ほんとにオレオレ詐欺にひっかかりそうになったんですけど(笑)素直に信じやすいもんですから、私も条例は重要だということで地元の高岡市で条例の制定にずっと関わってまいりました。
今日は、ここで、本当にそうなのか。条例の制定っていうのは、本当に家父長的な逆風、バックラッシュともいわれていますけども、それをはね返すような根拠になるものであろうか、ということを見て行きたいと思います。はね返す根拠となりますというところに私もそうかなと思って関わったんですが、今「ジェンダーフリー」を条例の中でどういうふうに使っているのかというところをひいてみて驚きました。
資料では、3つ例を挙げています。この「ジェンダーフリー」というところの定義を見ていただけますか? 一番目のは、山形県の長井市の条例です。そこでは「ジェンダーフリー」というのは、「男女別に期待される役割や、イメージなどの歴史的、社会的、および文化的に作られた性差により差別されないことをいう」とあります。その一方で、同じ長井市条例の最初の文章は、「市民ひとりひとりが、男女の生まれながらもつ性差を互いに尊重し、固定的な役割分担の概念にとらわれることなく」って書いてあるんですね。しかし、その次の基本理念では、「男女共同参画推進にあたり、男女が、ジェンダー・フリーを理解することで、個性と能力を発揮する機会が確保され、人権が尊重されること。(ジェンダー・フリー 男女別に期待される役割やイメージなどの歴史的、社会的及び文化的に作られた性差により差別されないことをいう)と、「ジェンダーフリー」を理解することが重要だといっているんです。「理解する」って、ただ理解すればいいのか、っていうことです。ここでは「ジェンダーフリー」っていうのが、ほんと何いっているんだかわからない条文です。これ皆さんはわかりますか?
次に、資料にある福島市条例を見ていただけますか。2番目の条例です。このジェンダーフリーの定義をご覧ください。3行目途中からです。「人々の行動又、生き方をジェンダーによって、枠にはめることなく、男女がともに多様な生き方を許容する社会をつくろうという考え方をいう」とあります。
「ジェンダーフリー」の定義に「ジェンダー」がはいってくると、ますますわからなくなる。一方で同じ条文には、「性別による固定的な役割分担を反映した社会における制度又は慣行をなくし、ジェンダーフリーの実現につとめるとともにこれらの制度慣行が社会における活動の自由な選択に対して影響を及ぼすことのないように配慮されなければならない」とあります。これわかりますか?支離滅裂な文章です。私が市民だったら、あるいは市役所の施策を推進する立場の人間だったら、これでどんな施策をやっていいかさっぱりわからなくなります。
「ジェンダーフリー」っていう言葉は、実際にそれが使われている条例を見ても意味が定まらないものです。ジェンダーフリーの定義として条例でこのように混乱した意味を示していると、施策のレベルに下ろしても役にたつ施策が生まれそうにないです。まるで呪文の言葉のようであって、市民をかえって遠ざけるか、こういうわからない言葉をお勉強しようって、お勉強好きな人しか寄って来ない、このわからない意味をわかりたいっていう奇特な人しか寄って来ないものになっています。
むしろ、「男らしさ、女らしさを一方的に否定することなく」っていう、いわゆるバックラッシュ派といわれている保守派の人たちの文章のほうが文章としてはまともにみえます。次にそれを見てみてください。
これだと、(先の2つの例と違って)意味としては通じるんですよ、皆さん。男らしさ、女らしさを否定することなく、っていうところなんですが、「男女が男らしさ、女らしさを一方的に否定することなく、互いの特性を認め合い、互いにその人格と役割を認めるととともに、尊厳を重んじ合うこと、男女性別によって、法の下の平等の原則に反する取り扱いを受けないこと、男女がその特性と能力を発揮する機会が確保されること。その他の男女の人格的平等が尊重されるようにつとめること。」意味としては、(ジェンダーフリーの場合と違って)すっきりわかるものではありませんか?
条例でジェンダーがはいっている3番目のになると、ますますわかんなくなっちゃうんですよね。出雲市の条例です。「男だから、女だからといったジェンダーではなく、それぞれの個性を重視し、その人らしさを大切にする家庭になること。」なんかジェンダーはいったら一気にわからなくなるっていうふうに、ここでは「ジェンダー」という言葉が混乱の基だと思います。これを読んで、まるで呪文のような言葉だと思いました。
次に、「ジェンダーフリー」という概念が家父長的な逆風をはね返す根拠になるかっていう点についてです。実は、資料の写真ですが、しっかりした男性市長さんの写真で、この市長さんは、富山県富山市の森雅志さんです。これ森雅志さんのホームページにのっているので、皆さんホームページご覧ください(ただし、2006年1月現在では、2004年12月当時とは図像、構成等が若干変わっている)。この方は肖像が大好きで、とにかく至る所に肖像写真が出てくるんです。トップページからマンガがあって、似顔絵があるんです。プロフィールのところも顔写真あるし、横のところに至る所に顔が出てくるのです。で、最後のところに書いてあるように、「この際正しい日本男児は過激思想と闘うために堂々と決起しなければ、、」とお書きになるような非常に家父長的な男性の市長さんです。
この富山市は、実は、男女共同参画推進条例きっちりもっていらっしゃるんですね。さっきの例にあったような、「ふるさと富山を築くために、しっかりと男らしさ、女らしさを一方的に否定することのない、人権を尊重しつつ」るるるる、、っていうふうな条例がしっかりとあるんです。これでは、「ジェンダーフリー」という概念は逆風をはね返す根拠になるんじゃなくて、逆に家父長的な市長にジェンダーフリー条例が逆に利用されているっていうふうに思いました。
こんな条例であれば、役にたつっていうより、逆効果ではないかっていう風に思います。で、富山市はもう、新しい歴史教科書をつくる会の高橋史朗さんも、市田ひろみさんも、どんどん呼ばれて来ています。市田ひろみさんなど、男女共同参画推進のつどいのメインの講師なんです。家族の絆とか、そういう麗しいお話をなさってます。ということですので、こういうふうな男女共同参画条例が本当に役にたつのかという点を問題提起したいと思います。もうあんまり時間ないですか?
上野
まだ大丈夫です。
斉藤
じゃあ山下さんのほうの、レジュメに関して、ちょっとだけ説明させてください。報告では男女共同参画条例やジェンダーフリーは(女性政策や男女平等政策として)本当に必要なのだろうかということを私は言いたかったんですが、条例をつくったことが本当に役にたっているかどうかと疑問に思い始めたのは、実は、山下さんが報告された資料にある合併協議の時でした。
合併に際しては合併協議会っていうのがあります。東京の方は合併についてはあまり報道されてないからご存知ないかもと思うんですが、資料のような合併協議会の名簿リストがあって、その中で、普通だったら積極的格差改善措置というので、アファーマティブアクションで、女性をたくさんいれる、というか、30%いれるなどとなっていますよね。それが(当市の合併協議会では)ぜんぜん違っていて婦人会の代表だけいれてよし、っていうふうになっていることに気づいたんです。積極的改善措置をれっきとして入れた男女平等条例ができているのに、実際の運用に当たっては全然尊重されてないということで慌てて山下さんたちと動いたり、要望書出したりもしたんです。だから条例ができても、放っておけばすぐに「平等」だったのも「共同参画」にずれてずれて逃げ打つような姿勢が(行政には)あるんですね。また、このような経験から条例があることはあっても使っていかないと意味がないっていうふうに思いました。
最後に、資料の「2. それぞれの場における女性運動の戦略」のところなんですが、ジェンダーフリーっていうふうに使ってきたのは、「女性学者が行政と一体化し『ジェンダーフリー』という意味が定まらない呪文詞を導入することによって女性運動を体制順応型に変えた」と思うんですね。ジェンダーフリーは、基本的に学ばないとわからないものになってしまっている。ジェンダーフリーっていうのは。
また、「心の問題」や「男女の特性」ってそれほど重要なことでしょうか。それより、「性差別の改善」あるいは「性差別をなくす」、「性差別社会を変える」ってことが重要だと私は思うんです、現在はそうではなくて「特性」のところに焦点が絞られている。これでは女性運動が後退戦を強いられているというふうに私は見ています。
結論としては、「行政密着・トップダウン型の女性運動から、権力関係を変える女性運動へ」と、やはり権力関係を変える女性運動にならなきゃならないんじゃないか。女性運動が目の前の差別を変えるようなことから運動をはじめるという、そのことを今考えなきゃいけないんじゃないかと思っています。
上野
時間です。
斉藤
はい、わかりました。じゃ最後に、上野さんが『ラディカルに語れば』という本を書いておられますけど、今こそ「根源的(=ラディカル)な問い返し」をしようではないかということで終ります。すみません長くなりまして。
上野
ありがとうございました。立ってらっしゃる方いらっしゃいますが、隣室から椅子をもってきていただいてかまいません。終わったら返して行ってくださいね。
今の斉藤説では、条例はあっても、実効性が今のところ認められないと。少なくとも富山市に関しては、ないと。立派な条例が、家父長的な市長のもとにできた、という実例をおっしゃったわけですね。私も同じようなことを言いました。条例は作っても効果がないし、やめても効果がない、どっちにしたって効果がない、まあその程度のもんだと。条例をつくるかどうかと、つくった条例に実効性があるかどうかとは、また別の問題ですね。
斉藤
もうちょっと細かいところで見ないといけないと思います。
上野
じゃあ次にいきましょうか。では、長谷川さん、お願い致します。
長谷川
長谷川といいます。職業は都立高校の教員です。その昔、「行動する女たちの会」というところで主として私がやっていたことがマスメディアの問題と教育の問題です。世の中の性差別を解消しようとするときに、例えば法律だとか制度がハードウェアだとすると、メディアと教育というのはソフトウェアの最たるもので、それが変わらなきゃどうしようもないなって思って、いろんなことをやっていました。今日はレジュメは用意してないんですけど、本屋さんにはもう売ってないと思いますが、その頃仲間と書いた『ポルノウォッチング』という本とか、女子中高生向けに書いた『がんばれ女の子シリーズ』という本が図書館に行けばあるかもしれませんので、興味のある方はレジュメがわりに読んで下さい。で、今は単なる教育労働者をやっております。これが今や東京都で教育労働者をやるのはすごく大変なことでして・・・
「ジェンダー」と聞いてパッと思い出すのですが・・・今から十数年前に私が赴任した職場で隣の席にいた人が、「スケベの××さん」と呼ばれていた人だったんですが、机上にヌードカレンダーを飾って顰蹙を買ったりとか、授業でセクハラ的な話をするとか生徒から苦情があったり・・・ その方が社会科の教員でね、ある日私に「長谷川さん、ジェンダーって概念はなかなか面白いね」って言うんです。「何言ってんの、こいつ」って思いましたね。女性差別には鈍感でも横文字や学者の使う用語には弱いんだと。
「ジェンダー」はともかく、「ジェンダーフリー」という言葉を私自身は使ったことがないんです。自分の言葉として発したことはないし、ましてや文章に書いたことはない。でも、そうこうするうちに、都から全教員に配られるパンフレットとかの中でも「ジェンダーフリー」がさかんに使われるようになりましたね。「ジェンダーフリーの教育」とか。 私たちがさんざん女性差別だと問題にしてきたことを、今さら行政に「ジェンダーフリー」という用語を使って啓蒙されることにちょっと違和感を覚えました。どうして「男女平等教育」ではなく「ジェンダーフリー教育」なのか胡散臭さを感じていましたが、差別解消にはいろんなアプローチがあっていいし、こんなことになるとも思いませんでしたから、個人的な違和感止まりで特にその点を問題にしてはこなかった。そりゃお前が悪いと言われればそうかなとも思うんですが・・・組合でも、女性部の人はけっこう使ってましたね。組合内できちんと議論しておくべきだったかも・・・、
上野
ジェンダーフリーは連合からきたんですかね?
長谷川
連合系の人だけじゃないですよね。フェミニスト系の人も、都高教女性部主流派の人たちもです。
「ジェンダーフリー」という言葉がない頃でも、たとえば学校行事のときに、「女子生徒を何人か受付係によこして」なんて言われると、「そういうのを『性別役割分担』っていうんだよ」「差別するつもりはなくても、そういうことが結果的に女性差別になるんだよ」って言えば、多少ムッとされても、解る人、解ろうとする人には十分通じたし、解りたくない人にはどういう言葉を使っても通じないわけです。「男女平等」っていう言葉も私はスゴく好きで、友人の中嶋里美さんが教員を辞めたとき、新しい名刺に「男女平等運動家」って肩書きを印刷してるのを見て感動した覚えがあるくらいで。
たとえばね、セクシュアルハラスメント、セクハラって言葉がありますよね。一時的に揶揄されたこともありましたが、今、セクハラって聞いて、「セクハラ、セクハラって騒いで・・」と言う人はいても、「セクハラの何が悪いんだよ」と反論したり、セクハラという概念そのものを否定する人って、かなり勇気がある人ですよね。セクハラという言葉は多くの人に言葉だけでなく実感として受けとめられている。「アメリカでいうセクハラと日本でいうセクハラは違う」ということもない。それに比べ、やはり「ジェンダーフリー」は、曖昧だったなと思います。
私は今まで職場でイヤというほど「すぐ男女差別、男女差別ってうるさいんだから・・・」というようなことを言われてきましたが、それでも「男女差別、ベツにあってもいいんじゃないの」って言う人や、「男女差別という言葉を使っちゃいけないよ」などと公言する人には会ったことがない。言いたくても言えないわけで。「差別」や「平等」という言葉はそういう意味ではっきりしてる。
もちろん、「ジェンダーフリー」をさかんに使ってきた人たち、耳になじみやすいし、使いやすい、反論されにくいから使ってきたという人たちも、こんなふうなバッシングは予想していなかったと思います。バッシングする側は「ジェンダーフリー」という言葉をバッシングしているのではなくて、この言葉の隙につけこんで、男女平等そのものをバッシングしているんです。だから退きにくいというのはわかるんですが、だからといってその人たちは、バッシングする人に対していちいち、「あのね、だから私たちが言っているジェンダーフリーっていうのは・・」って解説して歩くんだろうか。「ジェンダーフリー」という言葉の伝道者になられるんだろうか、と。そういう思いはしています。
今年の春、都教委が出した文書の中では、都教委も男女混合名票は推進してきた立場だから、それ自体がいけないとは言ってないのです。で、何がいけないかっていうと、「ジェンダーフリーの考え方に基づく男女混合名簿」はいけないとか、もう支離滅裂なんですね。かなり混乱している。まあ、都教委にもいろんな人がいますし。こうしたバッシングの影響で、じゃあ出生率がいきなり上がるとかそういうことはありえないと思うけれど、私は公立学校の教員なので、男女平等教育に対して教育行政が腰が引けてしまったのには困っている。行政の最たる「パシリ」である現場の管理職が腰が引けていると私たちは大変迷惑するんですね。最近の教育行政関係者は体罰とセクハラについてはそれはピリピリしているんですよ。その同じ人たちが、反性差別、いわゆる「ジェンダーフリー」叩きに噛んでいる、という状況が起こっています。
今年は都立の教員にとって受難の年で、特に私にとってはそうでした。まず日の丸君が代の件がありましたね。運悪く私は3年の担任でして、歌が流れる1分弱のあいだ着席していて、たちまち「被処分者」という立場になっていました。財界出身のある教育委員は、「そういう教員は癌細胞と同じだから、この際徹底的に撲滅しなければいけない」と言い、卒業式での被処分者に比べ、続く入学式で被処分者がかなり減ったことに胸をなでおろしたのか、例の米長教育委員は「もう日の丸君が代は終った。次は混合名票だ」と。こうバーンと話が跳んだんですね。ところが、ちょっと聞くとバーンと跳んでいると思われるかもしれませんが、実は彼らは本質的な問題にはある意味で敏感なんですね。
私はこういう集会とか女性運動とかにはもう10年以上関わってなくて、久しぶりにこうした場に出て来たんですが、その一番のきっかけは『We』っていう雑誌を目にしたことなんですね。『We』って、ごめんなさい、まだあったんですよね。感動しました。(笑)あの家庭科の男女共修をすすめるあの雑誌ですよね。その記事を読んで上野さんにちょっと言いたいことがあって来ました。
処分問題があって、混合名票叩きがあって、ダブルパンチの年なんですけど、そんな中にあって私は「ジェンダーフリー」という言葉をどう捉えるかということについては、上野さんが『We』のインタヴューの中でおっしゃっていることにほぼ同感なんです。私が自分の中でいろいろ感じていたのと同じようなことが、非常に的確に分析され発言されていて、とてもいいなあと思ったんですが、ただひとつ、混合名票のことに関しては、「ん?」と思ったので今日は来ました。
男女平等を進める「名目上の」闘いの具体的な例として、男女混合名票が挙げられているんですよね。で、私たちには正直言って、名目上の闘いをしているような余裕などないんですよ、ほんとうに。私は今まで都立高校にいたうち、19年間はいわゆる「教育困難校」というところで過ごしてきて、無駄なことにエネルギーをかける余裕は一切ありませんでした。
男女混合名票って、男女平等の根幹に関わる問題なんですね。「ささいなことと」言われながら、これほど本質的な問題はない。私たちが「行動する会」で最初に男女混合名票の運動を始めたのはもう20年も前で、だいいち、その頃はそもそも「ジェンダーフリー」なんて言葉はなかったんですよ。全然ない。私自身、大学に入った時に名簿が男女混合アルファベット順だったんですけど、狐につままれたみたいで・・・「これって、どういう順番かしら?」って、最初はわからなかったんです。今から思うとバカみたいですけど、それまでにあまりにも男女別名簿に慣らされていたので、本当にわからなかった。だから、自分が教員という立場になって、そういうことを再生産したくないなあと思って、取り組みました。
20年ほど前にいた埼玉のある高校で、その男女混合名票についてちょっとした試みをしようとしたら、「お前、殺したろか!」とまで言われたんですね。で、その「殺したろか!」とつかみかかってきた教員が、自分の机の上に小さな日の丸を飾っていて・・・今だったら「新しい歴史教科書をつくる会」に入っていそうな人かなあと思うんですけどね。ほんとうに、地雷源を踏んだようでした。その後東京都に移ってから、組合の女性部総会に仲間と混合名票の推進を提案したときも、「趣旨には賛成だけど、そういうことはもっと男の人の理解を得てからのほうがいいんじゃないか」っていう雰囲気で、組合の女性部で、採択されるまでに3年くらいかかりましたね。
学校の男女混合名簿がなぜこう攻撃されるかというと・・・ これが会社の社員名簿なら、男女混合だといってクレームつける人はいないですよね。だって会社の中では社員が名簿順に行動することってあまりないですよね。ところが、学校は名簿順がほとんど。座席から、テストを返すときから、あらゆる場面でそうなんですね。入学式から卒業式までずーっと。日の丸・君が代の問題にしろ、混合名票にしろ、攻撃してくる側は、大人や大学生はともかく、子供相手にそういう価値観を教えて欲しくないんですよ。
この春私が異動した学校が、いまだに男女別名簿なんですね。びっくりしました、あらためて男女別名簿の影響の大きさに。いまだに体育祭となると男女がピターっと別れて、男の子が裸で組体操やって、女の子だけがチアやってたり。職員室でも、テストやるたびに、「○組は男はいいけど女はダメだ」とか、「あそこのクラスの女は・・・」とか「男は・・・」っていう話題でしょっちゅう盛り上がっている人たちがいる。私が「ナニそれ?あんた、男女別に違う教え方でもする気?」って皮肉を言ったら、「だって本当のことなんだから」なんて。これほど日常的で根幹的な問題なわけです。
たとえば冒頭に触れた「スケベの××さん」あたりが、上野さんのインタヴューを見て、「ホラね、上野さんもこうおっしゃってるじゃない」とかって言い出しそうだなあなんて思ったりして、これは困ったなあと考えてしまいました。
上野
はい、ありがとうございました。
長谷川
すみません、長くなりました。
上野
男女混合名簿が現実を変えるかどうかについては、私は大学の教員として男女混合名簿を経験しておりますが、男女混合名簿と大学の性差別が何の関係もない、ということを実感しておりますので、そう申し上げたんですが、小中学校の現場では混合名簿が違う働きをしているということですね。実際それは現場では死活問題なのだというようなことですが、私がこれまでお会いしてきた男女混合名簿推進者の女性教員の方から、今のような形で明確なご返答をいただいたことがありませんでした。だからサンプルが悪かったと言われればそうかもしれません。あるいは私の視野が狭かった、ということでしょうか。それじゃあ、最後にもうお一方お願いします。
教員A
私が今時分のいる場所で大事にしていることは、もちろん、学校の中で男女平等を実現する、差別をなくすということです。そしてもう一つ大事なことは、“男女平等の社会を実現していく主体を育てる”ということだと思っています。そういうことは、今ここにもすごく若い方がいらっしゃって、たぶん私が教えていた年頃かもしれないんですが、ここにいらっしゃった方たちが、例えば中学校の時に男らしくしろとか女らしくしろとか、女だから○○ができないとか男だから△△ができない っていうことをずっと刷り込まれて育ったら、やっぱりそれなりの育ち方しかしないわけで、私はそういうふうにしないように細心の注意を払ってきました。先ほど、男女平等って言葉はわかりやすい、ってことをおっしゃっていましたが、あの、その言葉に反対する人は確かにいないんです。本当に学校の中でも。
でも私は、平等を実現するふたつ前のステップに大事なことがあると思うんです。よく結果の平等と機会の平等っていいますけど、その前に、これは差別だとわかる意識を育てなければならない。これは平等ではないとか、私は平等に扱われていないんだ、そういうことがわからないといけないと思います。例えばさっきの『We』の中に、女は男よりかしこくないって人今いないと書いてありました。でも、女は数学が苦手だとか、力があるのは男だとかっていうことは学校の中ですごく言っていると思いますし、さっきの女性議員の数の問題がありましたけど、まずは女の議員が少ないのがおかしいってことに気づいてなければ、そういうことを増やす運動も起こらないわけで、そういう意識をもった人を育てる場所は私は学校だと思っています。
そこでジェンダーフリーっていう言葉がでてきたので、今日はジェンダーフリーという言葉を、知らなかったころと、そういう言葉を知ってからと、それから今どう思っているかという3段階の話をしたいと思っています。
まず私はジェンダーフリーという言葉をいつどこで知ったか全く記憶はないんですけど、例えば先ほど長谷川さんもおっしゃったように、学校につとめていると、体育祭のときの要項の中で「受付接待係は保健委員女子・用具係は生活委員男子にする」というように、男女別に役割をきめることがよくあります。そういう提案に対して、会議の中で修正を求めることがよくありました。その際 どうしてそれがだめなのか説明が難しかった。それで苦労して苦労して変えても、学校が変わるたびに、また同じことがおこりました。みな忙しいので会議が延びると、いや?な顔するんですよ。で必ず言われることは、これは区別で、差別ではないとか、こうやっておくと都合がいいとか。でも、私はやっぱりさっき特性ということばを使われましたけど、役割分業の前にそういう役割を担う自分のイメージ、特性を刷り込むことは問題だと思うのでそれはやめてほしいと言いました。
そこで、ジェンダーフリーが出てきたときにこれは便利に使えるかもしれないと思いました、私は学者ではないのでアメリカの人が何か言ったとかそういうことは関係ないので、目の前にいる子どもたちとか、区別は差別ではないという人がいた場合には、説明のためにジェンダーバイアスという言葉を使うようになりました。区別するのは当然ではないと説明するために。私は ジェンダーバイアスということばは割とわかりやすいかと思ったので。そしてジェンダーフリーも バイアスがかかったというゆがんだ状態から解放するということで、いちいち、階段のてすり、スロープ、トイレのアコーディオンカーテンという変わりにバリアフリーっていうのがわかりやすいように、わかりやすく説明するのに便利だと思いました。私は学校を、男女の特性の固定したイメージを子どもたちに刷り込む場所にしないことが重要だと思います。
もしジェンダーフリーという言葉が不都合なのなら、ここにいらっしゃる方たちにぜひ(それに変わることばを)つくってもらいたいと思う。つまり、平等な社会の実現のために、子どもたちにどういう教育をしたらいいのか、みんなが実現したいイメージをぜひつくっていただいてだれもがそれを使えばいいなと思う。だから、わたしは使いやすい言葉があればいつでもそれに変わります。しかし、説明が、以前はホントに困難でした。で、短いことばでしかもそれが教科書に載っていたり、教頭会の学習会の中でそういう言葉を使ってもらうと、申し訳ないけどレール引いてもらってありがたいっていう思いがあります。
最後に、今ジェンダーフリーという言葉への攻撃が起こって私が心配していることは、この言葉を叩くっていうことはそのあとに性別役割分業観だとか男女平等など別のことばを叩く第一歩になると思うからです。あのご存じの方も多いと思いますが、都立七生養護学校ですばらしい性教育の実践をしていたのですが、それについてのバッシングが起こったら数週間で私の行っている市では、自主規制のように教育委員の人が来て、性交ってことばが入っている本を全部引き上げました。保健室に入っているのも全部引き上げました。そのように今の学校というのは、上意下達で、上からどんどんやろうとしているだけでなく、自主規制をして、先取りして気に入られようとしてやりますので、その効果というのは私は大きいと思っています。
上野
ありがとうございました。ちょっと確認したいのですが、「ジェンダーフリー」が便利に使えると思われていたそうですが、それでも、代替案があればいつでもとり替えるとおっしゃいましたね。「性差別」とか「男女平等」では代替案にはならないと、お考えなんでしょうか。
教員A
はい、まず、男女平等ってことばがありますよね。私がさっき話したように、、、例えばお前は女なんだから、受け付け接待は女の仕事だからお前やれと言われた時に、それはおかしいじゃないか、という風にいえなきゃいけないし、あるいはお前は女なんだから力がないんだから<発言聞き取れず>方をすればいいじゃないかと学校で言ったりするんですね、例えば、男の子を集めて・・
上野
それを「性差別」だと言っちゃまずいんですか。
山口
あと、性別役割分業だ・・
教員A
いえ、そうするとですね、それは区別だとか、男と女は身体つきが違うとか言ってくるんですね。
上野
そういう扱いを性差別というのですが。
長谷川
そういうセックスに基づく区別を差別というのだよといって。私はそういってきたんですけど。
上野
「ジェンダーフリー」を使って便利な言葉だと思っておられるとのことですが、「ジェンダーフリー」を使うためにはまず「ジェンダー」って何っていうことを相手に理解してもらわなければ使えません。「ジェンダーって何」、って子どもたちに聞かれて、そこから説明してじゃあ「ジェンダーフリーは」っていうほうがはるかに面倒くさくって、説明が難しい、という気がしますけど。
教員A
例えば、肉体的な違いの中にあとから付け加わった社会的、文化的男女の差というものとその生理(?)の差が違うということとを示して上げることが必要だと私は思っていて、大人にそこのところがわかってなく使っているので、もちろんそれが差別だということは言えますけど、なんというのかな、何でもかんでも差別にして目くじらたてるという風にいうと議論としてはなんかなるんだけど、学校の中のしくみを変えるときに、説得しきれないと学校のしくみは変えれないので、説得する時に私は、その合間を埋めています。それでさっきジェンダーフリーということばを、ジェンダーフリーにしましょうみたいなといった形で使っているわけではないんですね、ジェンダーバイアスにからむ解放ということが学校では必要だということを自分の頭の中に入れて相手と話をする時に枠組みをつくってきた、ということです。
上野
相手は同僚ですか、子どもですか?
教員A
はい、同僚です。
上野
子どもには通じますか?
教員A
子どもにはそうですね、いろいろ例を挙げて説明します。
上野
「ジェンダー」ということばをそのまま伝えるのですか
教員A
ジェンダーということばが社会でこういう風に使われているということは社会(科?)の一部で伝えます。
上野
ふーん。「男らしさ/女らしさ」という言葉では具合悪いんですか。
教員A
それは男らしさ、女らしさっていう風に決めつけるのはまずいっていう・・・
上野
だから、「ジェンダーフリー」を使わなくても、「男らしさ、女らしさにこだわらなくてもいいんだよ」って日常用語に言い換えたらどうですか。
教員A
・・・・(無言)
上野
先ほどのお話を聞くと、差別とか平等とかいうことばを使ったとたんに、めくじらたてる者がいて、トラブルメーカーというふうに扱われて具合が悪いという、ニュアンスを感じました。できれば差別という用語を避けたい、というふうなお話だったと解してよいでしょうか。
教員A
いえ、差別差別という言葉を使うとまずいというのではなくて、差別という言葉だとみんなは私たちは差別をしていないんですよと言われるので、それをどう反映するか、差別、差別なんかありませんというのをどう説得するかに苦心していた。
上野
それを説明する際に、「あなたがやっている区別を差別というんですよ」、と説明すればよいので、「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」という用語を使わないと説明できませんか?<
教員A
あ、できると思います。できると思います。
上野
はい、わたしもできると思います。今の上野の質問は誘導ってぽくていやらしいと思われたかもしれませんね(会場爆笑)。
以下、ごく簡略に私のコメントをいたします。実は、今日どなたがいらっしゃって何をお話になるかってことは私の予測を超えておりました。本日の仕掛けを決めて発言者のセッティングをなさったのは斉藤・山口組でして、今日お話を聞かれると、教員Aさんを除けば全員が「ジェンダーフリー」批判勢力で揃えたかのように思われるかもしれません。
私は『We』のインタビューに対してどのようなご批判を受けるかと思っておりましたら、むしろ同調者で発言者を揃えたという印象を持たれたかもしれませんが、私は人選には関与しておりません。
全体の感じとして私が思ったことはこういうことです。「ジェンダーフリー・バッシング」という現象それ自体は不愉快だしなんとかしたいが、だからといって「ジェンダーフリー」擁護に回る気持ちにはなれないというのが、教員Aさんを除けばここにいらっしゃる方の共通した立場だと思いますが、会場の中にはたぶん「ジェンダーフリー」擁護派に回りたい方もいらっしゃるかと思いますので、ここは議論したいと思いますが、、、。
ただ、「ジェンダーフリー」擁護に回るかどうかということと、バックラッシュといかに闘うかという問題とは別の問題です。ただその際、私たちは妙な二者択一の踏み絵を踏まされるような感じになっています。バックラッシュと闘うべきかいなか、闘う際に「ジェンダーフリー」を擁護せねばならぬかどうか。「ジェンダーフリー」を擁護しないで、バックラッシュと闘う闘い方はあるか。それにはどうすればいいのか。あるいは「ジェンダーフリー」を擁護しないと言うときに、教員Aさんが危惧されたように、運動の中に分裂を持ち込むという、本来仲間であるべき人たちが割れるという不幸なことが起きるのかどうか、ということは検討の必要があります。
もうちょっと具体的なご発言に則したコメントを申しあげますと、まず山口さんの方からバーバラ・ヒューストンについてのお話がでました。山口さんの意図ではないと思うのですが、アメリカではこうしているからという本家争いみたいなのは、私は嫌いなんですね。こういう用語はアメリカでは使われているよと言っても、アメリカでは使われていないよといってもどちらにしても、ある種の黒船によるオーソライゼーションのように思うので、どっちだっていいじゃないか、自分自身がどう判断するかということがもっと重要だと思うので、アメリカに権威を求めない、それをまず前提として押さえておきたいと思います。2つめには、山口さんの意図はここにあると思うのは、ふつうにわかりやすいことばを使うということで、私はそれには100%賛成です。上野は難しいことばばかり使って誰に向けて書いているんだと言われますが、上野はバイリンガルです。つまり、アカデミックな場で使うのとそうでない日常用語の場で使う場合とでは、私はまったく用語を変えておりまして、その点では私は「ジェンダー・フリー」という言葉を使ったことがありません。なぜかと言うと、その意味が私にはわからないからです。それから「ジェンダー」という言葉も、私は一般向けには使いません。「ジェンダー」ということばを一切使わなくても話はいくらでもできますし、場合によってはフェミニズムということばすら使いません。このようなカタカナ言葉を使わなくても女性差別について話すことができますし、男女平等について語ることができると思いますので。ただ、バイリンガルだというのは、女性学はいまやダブル・スタンダードを持つ時代になったということを認めないわけにはいかない。女性学は一方では非常に実績をつくってきた学問ですので、水準が高くなりました。学問の世界ではグローバリゼーションは避けて通れません。自分の使っている用語が外国の学者と言語と概念を共有していることが前提でアーギュメントをする必要がありますから、その点では「ジェンダー」という言葉を使わずに議論することはもはやできません。だから、学問の用語としては使いますが、それをアカデミズムで使ったからといって、自然言語で使う必要はまったくない。ですからずっと私が違和感を感じ続けてきたのは、地方に講演に行って、「このへんじゃジェンダーて言っても通じないんですよ?。遅れているんです」って言われるたびに、この人何言っているだろう、って思ってきました。「ジェンダー」って新しい用語ですし、カタカナ言葉ですし、定訳がありませんし、知らなくて当然じゃないですか。だからといってその地方の人が女性差別に苦しんでいないとか、男女平等に自覚的じゃないとかはいえないので、なんでこんなこと言うんだろうと昔から思ってきました。私はその点については、「ジェンダーフリー」推進派にいなかったのですが、これを責任と感じなければならないのかどうか。江原説では、「ジェンダーフリー」の流通を放置したことに責任があり、学者の怠慢だというのですが、怠慢だと言われても直接自分に実害がなければ、そんなものいちいち目くじら立てる必要がないんで、いろんなことばでいろんな人が思い思いに何かを言うっていうのは、ある運動の生成期にはいつでもあることですから、自分が使わないからと言ってその言葉を撲滅する必要はない。「ジェンダーフリー」を使う人がいたってなんていうこともない。私は使わないだけです。だから一つは、私はバイリンガルだと言いました。つまり学問のことばと日常用語とのダブルスタンダードを認めたうえで、日常用語としてはこなれないカタカタは使わないということです。2つめには、学術用語としてすら意味不明で定着していない、ジェンダー研究の業界で共通の了解がない概念を使わない、ということがあります。どちらの点から見ても、「ジェンダーフリー」は使わないという結論しか出ない、と言うのが私の立場です。で、代わりがあるかというと私はあると思っているのですがね。「男女平等」というりっぱな代わりが。  その次に、「ジェンダーフリー」を推進してきた人たちが、女性センターや条例の命名について、この用語を導入しようとしてきたかどうかを考えてみましょう。「ジェンダーフリー」が用語として入っている条例があることは確認できますが、例えば、女性センターを、「ジェンダーフリー・センター」にしようという動きを私は聞いたことがありませんし、そう名乗ったセンターを私は知りません。日本人はカタカナ言葉が好きですから「アミカス」とかなんとかいろいろカタカタ名前のセンターはありますが。今あるのは「男女共同参画センター」ですが、私だけではなく多くの人びとが「男女共同参画センター」という名称に違和感と抵抗感を感じてきたというのは事実です。これに対して、富山の方たちは「男女平等センター」の方がましだという選択をおやりになりました。が、「男女平等センター」ですら気に入らない、「女性センター」とどうしてはっきり言わないのか、という思いはあります。「女性センター」は中国語でいうと、「女性中心」ですが、女性センターから世の中に一歩外に出れば、「男性中心」なのだから、ここくらい女性中心であってもいいというのが、もともとの「女性センター」の設立理念です。「男女共同参画」なんてつまらない言い方をするな、という感覚は、運動体のなかに一貫して底流のようにあったと思います。それがどんどん押し切られていくという歴史が行政主導型でした。もう一方、条例はどうだったかというと、これもなだれをうって「男女共同参画条例」になっていったわけですが、これに抵抗した自治体はいくつかあります。石原政権前にできた都の条例は、男女平等参画条例となっています。ちょっと変な名前なんですが、「男女平等」が入っています。ですから、わりと運動系の人たちがきちんと条例を制定する側に入っていたところでは、「男女平等」という言葉が条例に採用されているケースがあります。そもそも「男女共同参画」という用語法それ自体に対して抵抗があった、ということは証言しておきたいと思います。この「男女共同参画」という用語法それ自体に行政のトリックがあったということは公認の事実でした。なぜかというと、「男女共同参画」の英語の定訳がジェンダー・イコーリティ(gender equality)なんです。それで、ジェンダー・イコーリティを日本語訳にすれば、「男女平等」にしかなり得ないんで、これを「男女共同参画」と訳すことには無理があります。こんな不自然なしかけまでやって、ある意味英語圏と日本語圏とで二枚舌を使いながらやってきたのが日本の行政です。ただ、ここで、このような形での行政批判を、研究者のあいだや運動体内部からやることへの是非という問題が出てくるでしょう。私が「ジェンダーフリー」批判をした時に出てきた反応に、女性運動の中に分裂を持ちこむな、というものがありました。先ほど、斉藤さんから行政と女性学研究者の結託という発言が出ましたが、行政に参加していった研究者とそうでない研究者の間での分裂、あるいは手を汚したと思っている人びとと、手を汚してないと思っている人びとの間の相互の対立というのもありうるかもしれず、裏返しにいうと、これもさきほど斉藤さんがおっしゃった通り、行政主導型フェミニズムに巻きこまれていった研究者や言論を担った人たちに対する批判や抵抗が抑制されていく、それこそ後退を強いられいくということもあり得るので、これはどちらの可能性を考えても危ないことだと私は思っています。というわけで問題点はすでにいくつも出ていますが、どうしましょうか、後ほど会場の皆様方からご発言をいただきたいと思いますけど、まずパネリストの方から、今の5人の報告者の話を聞いた上で、ご発言の追加がありますでしょうか。
山口
今上野さんの言われたジェンダーフリーという用語の本家争いのことですが、そんな風に聞こえてしまったらほんとに申し訳ないのですが、私は本家争いをしたい覚えは全然なくって。ただ、マーティンのもヒューストンの論文も、20年前のものであって、そんなものを今更私たちがなんでお勉強をしてやらなければならないのというふうに思います。対こころの問題にまずずらされ、それでだんだんこの問題が放置された背景に、やっぱりそれは女性学内部での問題があり、今になってやっと私みてみようかなと思ってみたわけで。今までみていない私自身の問題でもあるんですね、(女性学内での)相互批判ができていない。それでそういう行政のプロジェクトにのってしまったという問題。
それと、ジェンダー・バイアスの問題なんですが、ジェンダー・バイアスは英語圏でもよく使われる表現ではあって、私もmale baisだのgender biasだのよく使っているのですが、よくよく考えてみると、「バイアス」ってすごく中立・客観性に基づいて、そこからずれているというニュアンスを感じてしまって。それというのは、フェミニズムの考え方とずれているのではないかという根本的な疑問を実は持っています。それをこないだマーティンに会ったときに言ってみたら、マーティンも全然気が付いていなかったけど、それは興味深いポイントだと。アメリカの学者のいうことも私たちが疑ってかかるべきだと。どんどんどんどん議論は深めていくべきだし、考えていくべきなんじゃないかなと思います。
斉藤
上野さんが男女平等を条例に使ったところの話をされましたが、12月1日現在で私が調べたところでは、「男女平等」を条例の名称に入れたものが実際に26ありました。
上野
条例の名称に入っているのですか。
斉藤
はい。中に「男女平等」が入っている条例です。
上野
ああ、そうですか。
斉藤
それで思うんですが、男女平等という発信をあちこちでしていても。ジェンダーフリー派やジェンダー・フリーバッシング派の方が情報発信力をお持ちだと思うんで・・。それは情報発信が東京一局集中だからだと思うんですね。女性学も女性運動も・・。それで、私たちも今富山から東大の上野さんのところに来て発信しているから初めてこういうことが届くのかなという・・
現実に、東京大学とか情報の一極集中の現実があるわけで、だからそれを認識しつつ、いろんなところで発信が届くように私たちもがんばらなくちゃいけないなと思っています。
上野
今のお話だと、同じことを富山で発信すると広がらないが、東京から発信すると広がるという意味でしょうか。
斉藤
だってこれだけの人が聞きに来て下さっているんです。東京の中央集権的情報発信のあり方が関わっていると思います。
上野
それと、上野が東大の看板を背負っているから、みなさんが来て下さるということなんでしょうか。(笑)
斉藤
わかりません。
上野
会場に中央のメディアの担い手の方などもいらっしゃいますが、どうお考えでしょうか。そもそも「ジェンダーフリー」っていう用語を、誰がどこでどうやって広げたのかということを、どうやってトレースできるのですかね。バーバラ・ヒューストンっていう名もない人がこんなに有名になったのは、日本でだけじゃないかと思うんだけど、、。
山口
本人もこんなことになっているとはって・・
上野
普通にグローバル・スタンダードで女性学研究をやっていればどうしたって英語圏のものを読まざるをえないので、「ジェンダーフリー」という概念を使おうという選択をする研究者がいるとは私には思えませんが。日本語でしか、研究をやっていないのかしらね。
山口
だと思います。
上野
このなかには当事者の方もいらしゃるようなのでご発言をいただければ。

【以下、フロアとの質疑応答略。聞き取り不能な部分が多いが、聞き取りができる部分のみテープ起こしでき次第掲載する予定】