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『行動する女たちの会資料集成』全8巻と、映像記録『行動する女たちが未来を拓く』

執筆者:山口智美

2015年7月から、2016年6月にかけて、編集復刻版『行動する女たちの会資料集成』全8巻が発行された。

運動体の記録を残すとき、過去の運動体による発行物を集めた資料集を作るべきなのか、または 過去を振り返って、運動の当事者および第三者が歴史を記述するべきなのかの2つの方向性がある。1999年に未来社から刊行された『行動する女たちが拓いた道』は、後者の方法をとった。「行動する会」の歴史を、運動に関わった当事者が記述することで、現在や未来の女性運動につなぎたいという問題意識が大きい本だったからでもある。そのため、あくまでも、運動当事者が、この記録の執筆当時であった1999年の視点から、自らの記憶を中心として歴史を振り返った ストーリーを提示したものとなった。

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巻末に収録された年表により、運動の流れはわかるが、年表もやはり、すべての出来事を記述することはできない。1999年当時の編集委員の視点から重要だと考えた出来事等を選び、小さな表形式のスペースに入るような形で執筆、編集したものである。 ページ数の限定もあり、運動の記録としては不十分な面があったことも否めない。

編集復刻版『行動する女たちの会資料集成』全8巻(詳細情報はこの記事最後に掲載)が発行されたことで、会の運動を実際に行っていたときの視点からの資料をまとめて見ることができるようになった。『行動する女たちが拓いた道』と合わせて読むことで、当時と現在と両方の視点からの行動する会の歴史がまとまった形で提示された。(私が書かせていただいた「解説 行動する会を女性運動史に位置付ける」は当サイトにも掲載している。)

資料集成のパンフレットの表紙。年表や推薦文などが入ったパンフレットは六花出版サイトからダウンロードできる
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さらに、今年の6月には、映像記録『行動する女が未来を拓く』が完成し、9月にはDVDの形になり販売が開始された。
この映像に記録は、昨年7月の『行動する女たちの会資料集成』出版記念の集会での元会員の方々のご発言に加え、個別に何人かの元会員の方々にさせていただいたインタビューも収録されている。さらに、元会員が所有していた、当時の運動の貴重な写真からも収録されており、どんな人たちが、どんな雰囲気で運動していたのか、彼女たちの生の声が聞ける、貴重な記録だ。

私自身もこのプロジェクトのインタビューをいくつもさせていただいたが、お話の内容も貴重だったし、それを語ってくださる皆さんのパワーや感情などに動かされるところがかなりあり、私にとっても本当に貴重な経験になった。行動する会関係の編集の際はいつもそうなのだが、DVDのための編集作業でもやはり様々な議論が喧々囂々となされたりもして、参加すること自体が楽しく、かつ考えさせられたり、自分の思いをお互いに語ったり、、という場でもあった。

DVDは、送料込みで680円で販売。複数枚ご注文の場合、680円×○枚。運動として広げたいという意味もあってのこの値段。是非ご覧ください!
お申し込みご希望の方は、「行動する女たちの会」映像を記録する委員会 kodosuruonna@gmail.comあてにメールでお申し込みください。追って、お支払い方法などをメールでご連絡させていただきます。

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以下、編集復刻版『行動する女たちの会資料集成』全8巻の詳細情報を紹介しておきます。

国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会(1975~96年)の全記録!
インスタントラーメンCM「私作る人、僕食べる人」、NHK女性アナウンサーが天気予報とアシスタントばかり担当していることなど、性別役割分業に抗議し、家庭科の男女共修、出席名簿の男女混合の運動を推進して70年代から90年代のウーマンリブ/フェミニズム運動の一翼をになった「行動する会」。
その活動を記録するチラシ・宣言文・裁判資料・リーフレット・機関誌等、資料約630点を編集復刻!
1975年、性差別への怒りを行動に変え、果敢に異議申し立てを実行した、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(1975〜96年)の活動記録のすべてを網羅!

「女らしく」「女だから」の常識=性別役割分業に挑み、分断されている女たちに連帯を呼びかけ、教育・労働・マスコミ・離婚・主婦・などのグループを立ちあげて、女をめぐるさまざまな問題に取り組んだ「行動する会」。
自分たちのいたみや怒りから出発し、男社会のバッシングに徹底的に反駁しながら、あらゆる場にひそむ女性差別を告発し、社会を動かしたその行動は、1910年代の『青鞜』から始まった、日本の女の運動史に明確に刻印されるべき運動である。
現在もなお頑強に残り、さらに深刻になっている性差別問題を解決したいと望むすべての人に、女たちの二二年間の記録を提供する。

◉体裁
A4判(第1巻・第2巻)
B5判(第3巻〜第8巻)
上製/総約3、300ページ
◉揃定価
180、000円+税〈全3回配本〉
第1巻 チラシ・抗議文・声明書等Ⅰ(巻頭に解説)
第2巻 チラシ・抗議文・声明書等Ⅱ
第3巻 パンフレット等出版物Ⅰ
第4巻 パンフレット等出版物Ⅱ
第5巻 機関誌「活動報告」1975年4月~80年
第6巻 機関誌「活動報告」1981~86年3月
第7巻 機関誌「行動する女」1986年4月~90年
第8巻 機関誌「行動する女」1991~96年10月

◉編
高木澄子/中嶋里美/三井マリ子/山口智美/山田滿枝
◉推薦
笹沼朋子/樋口恵子/ノーマ・フィールド/安田常雄
栗田隆子/千田有紀/谷合規子/角田由紀子/福島みずほ/三木草子/山口里子/横田カーター啓子/米津知子
◉解説
井上輝子/山口智美

解説 行動する会を女性運動史に位置づける

執筆者: 山口智美
編集復刻版『行動する女たちの会資料集成』第1巻(2015年7月 六花出版刊)所収

<行動する会の歴史とリブ、女性学>
  「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(以下「行動する会」と略す)は1975年1月13日に発足した。 市川房枝、田中寿美子両参議院議員が、国際婦人年に民間の女性たちの機運を盛り上げたいということで女性たちに呼びかけ、1974 年の秋に新宿の婦選会館で準備会が開かれた。準備会での議論をへて、行動する会は、団体の連絡会ではなく、「原則として個人参加」の会と定められた。
 初期の世話人には両参院議員に加え、評論家や弁護士、教員、主婦などのさまざまな女性たちがいた。そして、1975年9月末、NHKへ27項目からなる「要望書および質問状」を持って小野会長に面会したことや、ハウス食品インスタントラーメンCM「私作る人、僕食べる人」への抗議などが大きく報道されたこともあり、 新聞記事や集会案内等を見た事などがきっかけとなって、新たな会員も加入していった。その後、会はマスコミ、教育、労働、政治など多様な分野にわたる活動を行った。「国連婦人の10年」は1985年に終わりを迎え、会は1986年に名称を「行動する女たちの会」に変え、より若い世代が中心となった。その後も会は活動を続けたが、1996年12月に解散した。
 行動する会は、女性学の文献でも、また女性運動やウーマンリブの歴史という文脈でも、その知名度や役割の大きさに反して、驚くほどに語られてこなかった会だった。1970年代のウーマンリブ運動の歴史についての出版物も、70年代始めから半ばまでを扱うことが多く、行動する会の歴史は抜けがちだった。女性学において後に主流となった歴史記述では、1975年以降は国連の動きや外圧が強まり、行政主導の運動が盛んになり、1977年以降は女性学が生まれ発展した時代と捉えられた。こうした歴史解釈の中で、行動する会の運動の歴史は十分に顧みられず、埋もれていった。
 井上輝子さんは本資料集の解説で、行動する会を「生活者版リブの集まり」だったと表現している。本資料集第3巻収録の『女の分断を連帯に 1年目の記録』に掲載された、「明日をつむぐ女たち」は、行動する会が結成された年に、会の歴史的な位置づけを詳細に論じた大変興味深い論考であるが、そこでも 労働運動、既存の婦人運動に加え、リブ運動の流れの中で会の発足が論じられている。元会員たちに私が行った 聞き取りでは、自分をリブと自認する人とそうではないと思う人と、その人の世代や出身地など、背景状況によって様々なケースがある。 しかしながら、リブに大きな影響をうけたことを語る元会員は多く、紛れもなくリブの歴史を受け継いだ運動だったと言えるだろう。よって、リブの歴史を現在につなげるという意味においても、行動する会の歴史は外す事はできないものだといえよう。
 本資料集成は、2012年に亡くなられた吉武輝子さんをはじめ、編集委員である高木澄子さん、中嶋里美さん、三井マリ子さん、山田満枝さんら、元会員の 方々の、 歴史の欠落を埋めたいという強い思いのもとに実現したものだ。さらにたくさんの元会員の方々が、手もちの資料を共有してくれた。70年代のウーマンリブ運動のミニコミ等の資料をどう保存するのかは、紙の劣化や資料の散逸などがある中で大きな課題となっているが、行動する会の関連資料も例外ではなかった。 そうした中で、今回の復刻版資料集の出版は大きな意義がある。
 会の事務局専従を7年間にわたってつとめ、活動報告の編集も行っていた山田満枝さんは「この復刻版は私の命」と言い切った。その言葉の持つ意味は大きく、重い。このプロジェクトは「過去語り」のためだけのものではない。現在の日本社会を考えるにつけ、今だからこそ「行動する会」の活動の歴史を振り返り、そして今後の運動に生かしていくべきなのではないか。 今の運動にとっても「性別役割分業」批判や「性差別」の撤廃にこだわった、行動する会の運動は現在にも続く重要な視点を提示しているのではないか。
 では、 行動する会の 歴史の中で、とくに何が重要だったのか。 本復刻版収録の資料に加え、私自身の元会員らへの聞き取りなどの調査 も参照しつつ、以下で考察してみたい。

(まだまだつづきます。ページ移動は下にある「ページ」からどうぞ。)

リブ運動のメディア抗議

日本におけるフェミニズムのメディア批判に関する論考では、女性運動のメディア抗議は、主に1980年代以降起きたとされている(鈴木1992)。それ以前のものとしては、1975年の「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」のハウス食品の「私作る人、僕食べる人」というテレビCMへの抗議が女性の性差別に関する抗議として挙げられるにとどまる(井上1992, 諸橋1997)。

しかしながら、リブ運動は、リブ合宿を報じた週刊誌の報道に「悪辣なものが多」いと、1970年リブ合宿後にいち早く抗議に出かけていた。長時間にわたり、男性編集者と話し合いをすることに成功していたのである。

マスメディア機関に抗議に出かけたという最初の記述が見られるのは、「リブニュースこの道ひとすじ』創刊号においてであった。「第一回リブ合宿・北から南から女たち駆けつける」という題で、1970年8月長野県で開かれた最初のリブ合宿の雑誌報道に対して次のような激しい怒りと批判が書かれていた。

男マスコミは庭先でシャットアウト。女性記者に限り合宿参加。しかし、味方の顔をした女性記者の合宿記事は「猛女と裸踊り」「性告白集会」など悪辣なものが多く、合宿後、女たちからの怒りの声が相つぎ、「文春」編集部へ抗議に行く。(「リブニュースこの道ひとすじ』創刊号、1972年)
これは、全国リブ合宿が1971年8月21日から24日まで飯山市のヒュッテ鈴荘で開かれたこと、そして「実行委のよびかけ通り、啓蒙主義的な一切を廃した合宿の成果は十分はたされた」というリブ合宿の総括のあとに載っていたくだりである。

これについては、「ぐるーぷ闘うおんな」の行動メモに、9月8日「リブ合宿総括集会」が開かれ、「男文化の手先となって働く女ジャーナリストの提供したブルマスコミ(ブルジョア・マスコミの略語)のニューズに対して『素直』になれない姉妹よ団結せよ!」(溝口他1992:211)というマスメディア批判の記述が記されていた。

そこで、筆者は、当時の『週刊文春』編集部の特集担当デスクを探し当て、当時のリブ運動の抗議がどうだったかについて1999年8月、当時の編集デスクから聞き取りを行った。当時のデスクによると、市民運動からの抗議というのは珍しく 、しかも「事前連絡がなくいきなりたくさん来る」のに驚いたと言う。だから、印象に残っていたのであろう。25年以上前のことではあったが、その時のことをよく語ってくださった。

リブの抗議で最も印象深かったのは、代表を置かず大勢で突然訪問し、長時間の話し合いをする、という新しい形式であったと語った。会議室がいっぱいになる15、6人という人数で、しかも二人くらいは赤ん坊連れであったという。会社側としての常套手段として代表のみ面会という形を提案したが、「抗議に来たリブの側は、『われわれはそれぞれが我々自身を代表しているのであって、誰かを代表してきているのではない』と口々に答えたのが実に当時の雰囲気」だと語る。全員が会議室に入ったが、赤ん坊が机の下をはい回ったり、自分の足下にまで来たりしたし、ミルクを用意したり大変手間がかかったことを『週刊文春』のデスクは述懐した。

そうした抗議の仕方は、1960年代盛んだった全共闘運動の「集団団交」の流れを汲むものとして特に印象に残っていると述べた 。リブの抗議のスタイルとして彼が次に挙げたのは、長時間に及ぶことと要求条件を出さず、話し合いそのものを重視する姿勢だった。合宿を取材した担当者と直接話し合いたいと望んだというが、それだと取材した女性記者に迷惑がかかるので拒否し、責任者として答弁したという。

リブの主張の中に、「女性記者というのも男社会の中で末端だから男のいいように使われているのだから敢えて責めない」といっていたことを覚えているという。同デスクにとって抗議とは、一般に、訂正を求めたり、抗議があったことを雑誌に載せることを要求する、あるいは訴訟にするなど具体的な条件闘争が展開されるものであった。だが、リブの抗議はそういった要求がないことが特徴であったと彼は述べた。ウーマンリブ運動の側は、10数名が四方八方から口々にあれこれ述べるという方式で、結局、抗議は結局、5〜6時間にも及んだという。

デスクは、当時、他のリブよりも年長であった田中美津がリブ運動の中では代表として振る舞っていたという。「この人達は組織の人間だからこういう反応をするものなのよ。代表して来るとこういうことを言うのよ」と組織の論理を仲間に教育していたと映ったという。デスクが、組織の代表として発言をすると、田中が「組織の代表はいつでもこういうことを言うのだから」と的確に反応してきたことも覚えているという。

こうした初期リブの抗議の方法は、私自身が80年代以降に経験してきた反原発運動や消費者運動、メディアの性差別批判の運動などさまざまな市民運動を行ってくる中での抗議の方法とよく似ている。

その抗議のスタイルは、基本的には、少人数ではなく大人数で出向く、代表を置かない、長時間の話し合いをする、条件闘争をしない、相互理解の向上を重視する、などの特徴があった 。こうした抗議が全共闘運動の影響が強いものであり、リブ運動に受け継がれ、その後のフェミニズム運動やその他の市民運動にどのように受け継がれてきたのか。そして、いつまで続いたのか。現在もそれは続いているのか。

格差拡大や原発事故などに対応すべく、今また盛んになりつつある社会運動。社会運動の抗議スタイルのあり方は、これまでの運動の抗議スタイルの功罪を振り返りつつ、再検討することが必要であろう。

井上輝子1980「ミニコミ・ウーマン・リブの季節ー報道されるリブから主張するリブへ」『女性学とその周辺』勁草書房:156-173

鈴木みどり1992「メディア問題に取り組む草の根の女性たち」加藤春恵子・津金澤聡廣編『女性とメディア』世界思想社:57-70

溝口明代・佐伯洋子・三木草子編1992『資料日本ウーマン・リブ史 (1)』松香堂書店

諸橋泰樹1997「日本におけるメディア・セクシズム批判の高まり」湯浅俊彦・武田春子編『多文化社会と表現の自由−−すすむガイドライン作り』 明石書店:143-171

(初出 2012/09/14 7:24 am)

ウーマンリブ運動とそのメディア戦略 

ウーマンリブ運動のメディア活動

1970年代のフェミニズム運動のメディア活動を見ると、女性の活動をからかい、矮小化したり、お飾りとして周縁化する「マスメディア」に対し、批判をしつつ、そうしたマスメディアを自らの活動を取りあげる媒体として利用するしたたかさを持っていた。

さらに、利用しようとしてもストレートに伝わらないマスコミを通じた発信に対し、チラシ、ミニコミなどの「自前メディアによる発信」も重視してきた。とくに1970年代には、ウーマンリブ運動(以下「リブ運動」と略す)がマスコミをはげしく批判しつつ、積極的に利用もした(斉藤2003)。

ウーマンリブ運動というのは、1960年代後半から全国で沸き上がっていたベトナム反戦、安保反対などの市民運動、学生運動のうねりの中から起きた女性解放をめざす運動。マスコミや女性学では、「銀座でリブのデモ」をリブ運動の誕生とするなど、リブ運動を東京で活動した運動として取りあげられることが多かった。そのため、運動体としては、東京の「ぐるーぷ闘うおんな」や「リブ新宿センター」がリブのグループとして多くとりあげられているが、北海道の「メトロパリチェン」から九州の「リブFUKUOKA」まで全国の都市部で自然発生的に生まれていた。

全国で起きていたリブ運動については、当時のガリ版刷りのビラなどの資料を集めた『資料日本ウーマン・リブ史 (1)〜(3)』(溝口明代・佐伯洋子・三木草子編、松香堂書店、1992-95年)などがある。山口智美による、リブ新宿センターに所属していたメンバーへの聞き取りによれば、リブ新宿センターは『リブニュースこの道ひとすじ』などミニコミやチラシ出版のために、写植機械を設置し、印刷技術を女性たちが自らもつようになり、それが後の女による印刷業の開業(「あいだ工房」)につながったりもしたという。「あいだ工房」については、女たちの現在を問う会編(1996:242-243)も参照。これも、リブのメディア活動への積極性を示すエピソードである。

なお、1972年にリブグループが共同で新宿に開いたリブ新宿センターでは、避妊、中絶などに関する相談を受け付けたり、デモ・集会、合宿、ミュージカル公演などを企画するなど、1977年まで地域における女の運動の拠点という役割を果たしていた。そうした活動を広報するメディアとして『リブニュースこの道ひとすじ』が大きな役割を果たしていた。

リブ運動の積極的なメディア戦略

リブ運動のメディア戦略については、「からかわれたリブ」イメージが強いためあまり注目されないできた。しかし、実際には、リブ運動はマスコミを積極的に利用しつつ、抗議や批判も行ってきた。例えば、斉藤がリブ新宿センターなどに所属していた運動関係者への聞き取りの際に見せてもらったジャーナリストの人名を書き連ねたノートの表紙には、「重要人名録(ブラックリスト)」というタイトルがつけられていた。そこには、当時のマスコミ関係者で取材に来てい人名が並んでいた。田原総一朗をはじめとして、現在は著名なマスコミ人の名前がそこには並んでいた。それらの男女を問わないジャーナリストたちは、彼女らにとってマスコミへのルートとして重要人物ではあるが、同時にどのように書かれるかわからないという意味で危険人物でもある。そのため、「ブラックリスト」とシニカルなルビを振っていた。

このことは、この時のリブ運動がメディアを単に批判的にとらえるだけではなく、積極的に利用しようということも含んだものであったことを示している。リブ運動は、マスコミ対策としては、批判しつつ活用するという両義的なローチをとっていた。

実際、首都圏のリブグループは初期運動においてリブ大会、リブ合宿などを開催する際にマスコミに積極的に広報する一方で、取材を女性記者のみに限定し、記者から取材費1万円(なお、1970年の大卒初任給は4万961円、はがき7円、封書15円。当時としてはかなりの高額。現在の4-5万くらいに相当)をとるなど確かな戦略をとっていた。

リブ合宿におけるマスメディア対応

1971年8月23日『毎日新聞』夕刊「合宿女館」という8段に及ぶ記事は、長野県信濃平で8月21ー24日に開かれた「ぐるーぷ闘う女」主催「ウーマン・リブ合宿」に参加した記者の報告であった。記事に添付されている写真に映し出されている案内板には、次のような文字が書かれていた。

「マスコミのおにいさんたちへ  この入り口から入ってください。 ビジネス、フリーを問わずいらっしゃった方は受付へ 取材協力カンパとひきかえにワッペンと名札(所属と指名)を差し上げます。ただしカンパをもらったってお見せします、お話ししますにはならない。それを前提に協力します。」

写真下のキャプションは「取材費 カンパ1万円ナリ」とある。

「男はシャットアウト」といいつつ、「おにいさんたちへ」とするのは矛盾してみえる。ただ、筆者が、『女性自身』の記者としてこのリブ合宿の取材に入っていた女性記者Yさんに行った聞き取りによれば、この合宿では夜になると、主催者が何人か遠巻きにいる男の記者たちを一部テーブルに呼んでいっしょに酒を飲んでいるのを見たという。そしてその女性記者は、昼はシャットアウトといいつつ、夜は周辺にいる男性記者たちにその日のことを取材させているというその現実的なやり方に「なかなかやるじゃない」と感心したと語っていた。決して原理的に「男はシャットアウト」を実践していたということでもなく、利用できるものは利用するという現実的な戦略が取られていた。

さらに、『資料日本ウーマン・リブ史 (1)』(330ページ)には、「リブ合宿をもし取材しようと思っているなら、、、」というリブ合宿実行委発の取材関係者へのアピール文が掲載されており、積極的に事前からリブ合宿を広報活動していたことが伺える。

その一方、取材した記者からの反発を含めた批判としては、例えば写真家の上野千鶴子(女性学者と同姓同名だが、別人)からの「やりきれぬリブの『幼児性』」と題する、次のような批判がある。

「集合の異常さに疑問を発する私の言葉は『ナンセンスだド!』と一蹴される。(中略)そして、『マスコミは敵だド』『カメラなんて撮ったらブッコロスゾ』。取材協力費一金一萬円也をとりあげていての発言だからおそれいってしまう」(溝口他編1992:389)

そして、『資料日本ウーマン・リブ史 (1)』でも、取材協力費が1万円だったことは、編者らにより註記されている。

1970年10月-11月の『朝日新聞』都内版は、蜷川真夫記者による積極的な初期報道が掲載されている。それら記事の中には、この当時のリブのマスメディア対応についてもとりあげられてもいる。11月2日「14日にティーチ・イン」という記事には、「参加者は女性に限り、男とカメラはお断りとし、違反者にはバケツで水をかけることもある、という」というリブのメディアに対する方針が掲載され、若干おもしろおかしくというトーンではあるが、見出しにまで取りあげられている。

さらに同紙11月21日「リブとマスコミ」というコラムでは、リブの集会がマスコミ取材拒否であることに賛同する都内女子高校生の意見と、「いずれは、芸能週刊誌まで巻き込んで、インテリだけの理屈だらけの運動にならないようにする方がいい」と、マスコミに目くじら立てないのがリブのいいところ、という集会参加者の声を併記している。男性やマスコミ記者取材拒否か、週刊誌にとりあげられて話題になるほうを選ぶか、リブ運動のメディア対応については、当時から話題になっていただろうことがうかがえる。また、それを新聞で報道していたというのも興味深い。いずれにしろ、当時から、リブ運動のマスメディア対応には、拒否的スタンスと積極的にアクセスという二つのアプローチが存在、あるいは混在していたことは確かである。社会運動のメディア戦略、古くて新しいテーマである。

そして、1971年夏のリブ合宿が新聞や週刊誌などでおもしろおかしく盛大に報道された後に、主催者グループは、早速、報道したある週刊誌企業に抗議に出向いている。それについては、別のエントリーで紹介したい。

女たちの現在を問う会編1996『全共闘からリブへ』インパクト出版会

斉藤正美2003「ウーマンリブとメディア」「リブと女性学」の断絶を再考する?一九七〇年秋『朝日新聞』都内版のリブ報道を起点として」『女性学年報』第24号:1-20

溝口明代・佐伯洋子・三木草子編1992-95『資料日本ウーマン・リブ史 (1)〜(3)』松香堂書店

(初出 2012/09/13 6:12 pm)

中ピ連のメディア活用とその功罪

「中ピ連(中絶禁止法に反対し、ピルの全面解禁を要求する女性解放連合)」は、1972年6月に結成。代表は、榎美沙子。代表をおかないことが多いリブグループの中では、代表を明確に定めている数少ないグループであった。

中ピ連の活動を追うと、73年10月、日本家族計画連盟主催「産児制限を考える」討論会に出向き、「ピルを解禁せよ」と主張した。75年4月、中ピ連は、日本産婦人科学会総会(京都)に出向き、ピル解禁勧告を政府に提出するよう要求した。その他、72年10月には、ミスインターナショナルコンテストへの抗議行動も行っている。こうした動きは週刊誌などで大きく取りあげられ、多くの人の目に触れることになる。

74年8月には、「女を泣き寝入りさせない会」発足、暴力を振るう夫、一方的に離婚したがる夫の会社に、ピンクヘルメットの女たちが抗議デモをしかけ、それがテレビや雑誌で大きくとりあげられるなどした。「激突中パ連」(玄海つとむ作『週刊明星』)というマンガでもとりあげられた。さらに、75年11月には、NHK「紅白歌合戦」に襲撃予告を出した。ターゲットになった芸能人は、三船敏郎、前川清、にしきのあきらなどの名が取りざたされ、週刊誌などで盛んに報道され、「中ピ連」の名前は知れ渡った。

その後、76年6月、中ピ連は宗教団体『女性復光』を創設、77年7月には、参議院総選挙で「日本女性党」を立ち上げ、7人の候補を立てるが、1700万円の供託金を没収され、中ピ連自体が解散に至る。中ピ連の解散は、女性学会がスタートするのとちょうど時を同じくしていた。

榎美沙子と中ピ連は、雑誌やテレビなどでの表出が大量かつ群を抜いて目立っていた。例えば、『大宅壮一文庫雑誌記事索引総目録』(1985年)には、「婦人問題、婦人運動」の項目を見ると、そこにはさまざまな運動体の名前と、その運動体について書かれた記事が集録されている。

そこに登場する運動グループの記事中、「中ピ連」に関する記事が119と、ダントツトップだ。中ピ連は、誕生から解散まで、たかだか5年程度の活動期間にすぎないにもかかわらず、「主婦連」という長期間に活動がおよぶグループが56であるのに比べ、断然多い。名前の上では誰でも知っている「青鞜社」に関する記事は、時代が異なるとはいえ、19であるから、中ピ連がいかに、当時のマスメディアに注目されていたかがわかるだろう。

また、同じ『索引総目録』で「女性著名人」をみると、現在、「ウーマンリブ」では最も有名な人物といえる、田中美津に関する記事が6件、当時からリブの活動にも参加し、その後評論家や男女共同参画行政でも活躍した、樋口恵子についての記事が45件掲載されているところ、榎美沙子は173件である。中ピ連および榎美沙子のメディア表出は、他の運動体と比較しても、他の女性著名人と比較しても、飛び抜けて多い。

中ピ連は、問題にしていることが「避妊」や「ピル解禁」「男の不倫に泣き寝入りしない」など身近であり、抗議に記者を同行させたり、テレビの歌合戦などにも出演したり、ビジュアル的にもピンクのヘルメットをかぶるなどと目立つ行動をとることが多かった。

多くの女性団体がメディアに載るのは、お堅い言論誌やニュース系雑誌であったのに対し、中ピ連が取りあげられるのは、もっぱら『女性自身』『ヤングレディ』『アサヒ芸能』といった週刊誌が中心であったし、榎美沙子は当時、テレビの娯楽・バラエティ系番組にもよく出演した。

中ピ連はよくも悪くも広くメディアにのったことで、リブ運動を幅広い層に知らせることができた。例えば、オノ・ヨーコが中ピ連のために、「女性上位万歳」という歌をつくっておくってくれたりした。また、アメリカで中ピ連の活動が報道されると、在米日本人女性たちは、「日本の女性たちもなかなかやるじゃない」と力づけられたという(溝口他編1994:246)。

しかしながら、当時は誰でもが知っている中ピ連と榎美沙子について、その後の女性学や女性史などにおいての評価や考察は決して十分とはいえない。いや、80年代以降、リブ運動に関する研究が盛んになったにもかかわらず、中ピ連と榎美沙子に関する論考は非常に少ない。その上、数少ない論考での、中ピ連の評価が著しく低いのである。

例えば、リブ運動に参加していた秋山洋子が、「中ピ連は本当にリブだったのか」と、次のように、中ピ連の活動に懐疑的な見方を示している(秋山1993:121-138)。

ピンクのヘルメットをかぶって華やかに行動する中ピ連は、マスコミにとっては格好の話題だったし、中ピ連のほうも意識的にマスコミを利用した。それによって、リブ=中ピ連といったイメージがかなり広範にばらまかれ、他のもっと地味な活動をしていたグループは、いろいろな形で迷惑をこうむった。(中略)中ピ連の側にもマスコミに乗じられる問題があった。それは軽率さというようなことではなく、もうすこし中ピ連という組織の本質に係わる問題である。端的にいえば、中ピ連は本当にリブだったのか。真剣な運動だったのかという疑問を、当時リブ運動に参加した女たちの多くがいまだに持ち続けているのである(秋山1993:125-26)。
そして、秋山は、「リブ運動の中で中ピ連とは何だったのかと問い直すとき、すくなくとも仲間だったと評価することはできない」という。

確かに、宗教団体設立や女性党で候補を立てるなどの活動に関しては、「アイデア倒れ」(溝口他編1994:244)であり、リブ運動に悪しきイメージをつけた面もあったと思う。しかし、設立当初掲げた優生保護法をどうとらえるか、という提起や、避妊薬ピルの解禁を求めるという活動まで無視していいとは思えない。

どうして中ピ連に対して、これほど冷たいのだろう。『社会運動の戸惑い』本でも取りあげているが、日本の女性学系メディア研究(「メディアとジェンダー研究」)では、強大なマスメディアの被害者としての女性像を主に研究対象としてきた。私自身もこうした流れの影響を受けてきた一人であるが、女性たちの主体的なメディア活用についての研究がその蔭ですっぽりと抜け落ちてきたのは損失であると思う。

別エントリーで、リブ運動のメディア抗議について紹介したが、そうしたメディアに対する主体的な活動はやはり重要である。中ピ連の活動でも、メディアの強大な影響力を認識し、その被害者にならないようにと行動を萎縮させるのではなく、むしろ、自ら主体的にその強大なメディアを活用し、自らメディアに登場するというメディア戦略をとる。その主張をメディアを通して、幅広い層に届けるという点において、中ピ連は見事に成功している。

秋山が「意識的にマスコミを利用した」「中ピ連の側にもマスコミに乗じられる問題があった」と述べているように、「迷惑をこうむった」面も確かにあっただろう。しかし、当時は、厚生省が番組/CMを問わず、『ピル』『経口避妊薬』という言葉を一言たりとも口にしてはならない、などと民放にピルの報道規制を要請している時代であった。さらに、厚生省はピルを要指示薬に指定、処方箋のない薬の店頭販売を禁止。同時に、薬事法違反の取締りを強化し、ピルを店頭で販売していた店に恫喝をかけるなどと、70年前半は、避妊薬ピルの規制が強化された。中ピ連は、女性にとって厳しいこの状況の中で、声を上げたのであった。

避妊に対して厳しい社会で、「妊娠の決定権は女にある」「中絶よりもピルの方がいい」(「男性用のピル開発を急げ!」『サンデー毎日』1972年9月17日)などという主張を広く届かせることができたことは、ある意味すごいことだと私は思う。

私なりに考えると、中ピ連のメディア露出が多かった理由には、第一に、ピル解禁、ミスコン反対、(不倫する男を懲らしめ)女を泣き寝入りさせない、などだれにでも、わかりやすい主張を次々に繰り出したことがある。第二には、ミスコンへの抗議や、産婦人科学会総会におしかける、NHK紅白歌合戦に襲撃を予告、女を泣き寝入りさせない会の行動など、中ピ連が派手なパフォーマンスで行動が人目を惹いたことがある。主張にしても、行動にしても、誰の目にもわかりやすかったことが、中ピ連の報道が非常に多くなった要因であると思う。第三には、榎美沙子がピンクのヘルメットをかぶったり、着物を着たり、テレビの歌番組に出演したりなどを厭わず、自ら広告塔となったことがある。

思えば、これは、90年代以降、バラエティなどに多く出演してフェミニズムの主張を社会に届かせた田嶋陽子に対する女性学の冷たい対応ともよく似ていると思う。不思議なことだが、あれだけ多くのメディアに出演してきた田嶋陽子についてもメディア研究でとりあげられることはこれまでなかったように思う。そして、中ピ連同様、田嶋についても、バッシング言説のみが蔓延しているのは、不幸なことだと考えている。

メディアを主体的に使っていく方向に冷たいのは、フェミニズム系のメディア研究の背後にある「メディアの強力効果説」(被害者としての女性像研究)や、それとネガポジの「主体的なメディア活用」への薄い関心(視聴者はメディアの影響をいかに被ったか、というオーディエンス研究は盛んだが)などが影響しているように思われる。

秋山の中ピ連評には、マスコミを「意識的に利用」するなど、マスコミを利用すること自体を悪しきこととする感覚がかすかに覗いているように思われる。当時は「ブル新=ブルジョワ新聞」などという呼び方があったくらい、全共闘運動や反安保の運動が盛んな中、大学や政府、マスメディアなどの「体制批判」が強い時代でもあった。そんな中だからこそ、積極的にマスコミを利用したことが今から見ると過剰な反発を招いた面もあったのではないだろうか。

だが、真面目に主張するだけでは届かなかった、多くの人に、避妊薬ピルやその必要性について知らせることに成功したことも事実である。こうしたメディア活用の戦略は、現在でも運動のメディア活用として十分有用なものである。いろいろ意見は分かれるかもしれないが、いずれにしろ、中ピ連の主体的なメディア戦略の功罪についての検証が必要なことだけは確かである。

秋山洋子1993『リブ私史ノート―女たちの時代から』インパクト出版会

溝口明代・佐伯洋子・三木草子編1994『資料日本ウーマン・リブ史 (2)』松香堂書店

(初出 2012/09/21 12:21 pm )

『季刊・ピープルズ・プラン』51号(2010)「ジェンダー平等」特集を読む 

執筆者:斉藤正美

「ジェンダー平等は日本でなぜ進まないのか」を読んだ。twitterなどでちらほら言及されたり、発売元のPP研サイトでもよく売れて在庫がなくなりそうと書いてあったりと大人気の特集号らしい。だが、私が住む富山では大型書店にも大学生協にも電話で問い合わせたが、どこにも入ってないことがわかった。仕方なく、わざわざ発行元から取り寄せた。いったいどういう人達が手に入れているのだろうと思いつつ手にとった。そして、一通り読んでみて、いくつかの現実的な議論を展開する論者を除き、この書き手たちが進めておられるのであれば、「ジェンダー平等」はうまく進むはずがないわ、と思ってしまった。

「ジェンダー平等は日本でなぜ進まないのか」という問いを投げかけられたら、まず自らがどのように関与してきたか、それをどう評価するか、を真っ先に考えるのではないか。しかし、本特集を読んで一番疑問に感じたのは、政策にも関わってきた船橋邦子らフェミニスト学者が自らの責任や課題に言及しないで、遅れている責任を「市民の意識の遅れ」や、法律や制度といった外部のみに押しつけていることであった。これまで深く関与してきた自分を棚に上げて「責任逃れ」をしているのだ。法律や制度を問題視すること自体はいいと思うのだが、この号に欠けているのは、運動への評価という視点だ。自らどう関わってきたのか、それを現在どう評価するのか、にはまったく触れないのだ。

結果、特集で書かれているテーマや内容がどっかで読んだことがある「ワンパターン」であり、「リブ」の過去がたりという「ノスタルジック」なものになっている。つまり、今起きている現実と向き合わずに、過去のリブを懐かしむ、自分とは無関係に理念や政策を批判するなど、現実感に乏しい特集企画であった。さらに、「ジェンダー平等」が何を指すか、わたしには最後までクリアにならなかった。これらの点は、「ジェンダー平等」特集を組んだ青山薫・千田有紀両編集委員のスタンスが大きく影響していると思われ、疑問に思うところである。

特集の目次が参照できます。

青山薫「特集のねらいと概要」は全文が読めます。

この特集のトップページに1660年頃のオランダの絵画があがっているのも、浮世離れした特集を象徴している気がした。17世紀の絵画が、それ以前の宗教画から脱皮し、「人びとの日常を描く」ものになり、「女の家事と、男性の仕事の違い」を描いているというのだが、本特集は、「ジェンダー平等」をはじめ、「オールタナティブ社会」「アクティビィスト」などバタ臭さのする言葉の蔭に、市井で条件の悪い中で必死に生きる女性たちが顔を出す機会を失っているような感じをもった。

生活実態がみえないことがこの領域が遅れをとる一番の理由だと言うことをこの特集は逆説的に教えてくれた。それに関してだが、「ジェンダー平等」の現状がどうなっているかについて、「ワンパターン」が炸裂している。この特集で編集の青山が特集の概要を示す中で、ならびに男女共同参画政策を論じる際に船橋が、揃って上げているのは、毎度おなじみの国連のジェンダーエンパワメント尺度(GEM)だ。貧困・格差社会になった日本の格差・性差別を計ろうとする際に、いつも「上級公務員、衆議院議員、会社経営者」(青山の記述。p.24)というエリートたちを指標にすることに疑問を感じないというのはあまりに現実離れした目線ではないかと思う。

そもそもジェンダーエンパワメント指数(GEM)は、統計上問題があるという批判が複数の統計学者からなされている曰く付きのデータである。ジェンダーエンパワメント指数とは、a.国会の女性議員割合、b.<行政職・管理職>と<専門職・技術的職業>における女性割合の単純平均価、c.推定勤労所得の3分野の4指標をとりあげ、0-1の数値に換算して、3つの価をそれぞ?のウエイトで単純平均したものである(伊藤2009)。統計学の伊藤が上述したように、異なる3つの分野を取りあげ、単純に3つに割って平均値を出すといった乱暴な評価づけについて、「このような見当外れの議論を引き起こすようなUNDPの指数・尺度は罪つくりだ」「時間をロスしあるいはミスリードすることは許されない」と早くから厳しい批判をしているのがまったく斟酌されていないのはどうしたことか。さらに、ジェンダー研究で多くの論考もある杉橋やよいも、かねてより異質な指標を総合し単純に平均するという測定指数構成要因がこの3つという選択が適正か、また単純に平均を出すという計算方式でいいのか、などウエイトづけならびに計算根拠の妥当性に対する批判を行っているところである(杉橋2008、2009,)。こんな指標が性差別の実態を言い表しているとはとても言えない。

「ジェンダー平等は日本でなぜ進まないのか」特集号は、上述した「どれほど進まないのか」という現状認識でも問題があったが、どういう解決方法を示したらいいか、という解決策でも、「ワンパターン」である。現在のように、貧困と格差の問題が深刻になっても相変わらず毎度おなじみの「世帯単位からシングル単位」論が繰り返される。これにたいし、「大量のフリーター女性が出現している」こと、「女性の収入が低下している」ことをあげ、「政策単位の個人化だけではうまくいかない」と山田昌弘から批判も出ている(山田2005:252-253)。

シングル単位論は、WLB、女性のエンパワーメントなどを掲げ、女性の社会進出、共働きを推進することによって男女共同参画が進むといった政策と共に語られている。しかしながら、鈴木ふみが論考で書くように、日本では正社員、特に子どもをもった女性がフルタイムで働くのが一般化する前にニューエコノミーによる労働の二極化が始まり、パート、アルバイトー、契約社員、派遣社員などの非正規雇用の拡大が始まった。90年代半ば以降、企業が非正規雇用を「柔軟型」労働と呼んで人件費を削減していった結果、社会保険などのセイフティネットに守られることがない非正規就労者の割合が若年、女性など50%前後の割合を占めるまでになっている。シングルマザーは平均所得243万であり非正規就労が過半数とされる(2007年国勢調査)。このような「労働の主婦化」が進行した現状のまま、ほかの問題をみずにシングル単位のみを優先していても、非正規就労者は「働けど働けど貧乏のまま」となる可能性が高い。非正規雇用が浸透する中で、片働き夫婦のみを優遇する制度、性分業システムを是正しようというシングル単位論のみを強調するのは現実を見損なっているのではないか。その点で、鈴木ふみの論考は、経済や雇用の現状認識では共感するところが多いが、運動については、海外の運動の歴史に目が向きがちで日本の運動史が見過ごされている点、運動の担い手を「育てていく」という発想には疑問も感じた。女性に多い非正規就労者のことを考えるならば、解決策として出されている「失業給付や就労支援」「ベーシック・インカムの保障」などについてもっと活発な議論をしていきたい。

また、「ジェンダー平等」をめざすレトリックとして、しばしば用いられたものに「男らしく、女らしくではなく、自分らしく生きる」というものがある。「ジェンダーフリー」や男女共同参画政策における条例や行動計画などでよく取りあげられる文言である。しかしながら、いやが応でも「自分らしさ」イデオロギーが広まっている中で、「自分らしさ」をこれ以上強調するのはどうか、「自分らしさ」を免罪符にすることになりかねないという指摘もある(山田2005:232-233)。若者の状況と「自分らしさ」の関係はどうかわからないが、「自分らしさ」イデオロギーが自己責任論を助長させるリスクがあることについては「ジェンダー平等」を主張したフェミニスト学者も十分認識する必要があると思う。これまでの「ジェンダー平等」を主張してきた中にどんな課題があったのかを検証することも重要だと思う。現在の貧困格差問題とのからみでも、こうした批判と向き合う議論が期待されていると思うので、特集に自らの行動や主張への振り返りが見られない点を残念に思う。

さらに、運動についての「ワンパターン」がある。特集では、運動といえばいつもの「ウーマンリブ」ネタが持ち出されている。「ジェンダー平等がなぜ進まないのか」という特集に、なぜいつも1970年代前半に勢いを持った「初期リブ」にスポットがあたるのか、わたしには初期リブでなければならない必然性やその関連性が理解できない。青山は、「フェミニスト/リブを自称してはばからない」編者二人が「先達の運動を、建設的に批判・検証することにした」という。だが、建設的に批判・検証するにふさわしいのは、40年前のリブ運動であろうか。

しかも、田中美津インタビューに延々20頁も割いている。リブ運動を運動として検証するという時に現在は運動を下りている「田中美津」を取りあげても説得力に欠ける。それまで「リブとは一線」を引いてリブを置き去りにして女性学を立ち上げてきた女性学者が多い中、女性学者である上野千鶴子が1987年に『美津と千鶴子のこんとんとんからり』を出版し、田中美津をほめちぎって以来、女性学は田中美津をリブの教組といった「ワンパターン」な存在として扱うようになった。今回の特集もその「ワンパターン」を繰り返している。インタビューアーは千田有紀。しかも千田によるインタビューは、田中に「美津さんからするとわたしなんかは頭でっかちに見えるのかな」などとリブ運動を批判的に検証するといいつつ、一向に批判に向かないのである。最後には「心強い先達がいると、生きていくのが楽になりますねえ」という感想で締めくくっている。ノスタルジックな語りとしてしか読めない。「ジェンダー平等」の現在を語るのにふさわしい運動家は他にいなかったのだろうか。

さらに、秋山洋子は、この特集号で、リブの闘士だった北村三津子の死と樺美智子について書いている。保母から介護福祉士へとケアの現場で働き続けた北村三津子。六〇年安保のデモで亡くなった樺美智子のことをノスタルジックに語られることを批判する文脈で秋山は書いているのだが、この特集全体のモチーフがフェミニズムの歴史の中で「過去の栄光」である「ウーマンリブ」を取りあげるのだから、ノスタルジーに陥っているのである。亡くなって語られる北村三津子、運動者でないからお呼びがかかる田中美津、いずれも運動現場において実際に活動していないという意味でノスタルジックなのである。書き手やインタビュアーがどれほど大きくすばらしい存在として描こうと、過去語りでしかないために、書き手やインタビュアーらの現在の地位やスタンスが脅かされることはない。

リブ運動、左翼運動検証、政策に関しての議論をした後に、シングルマザーについて漢人朋子、レズビアン運動について尾辻かな子、「若い世代」について栗田隆子に、それぞれ4頁、5頁、6頁のスペースを割り当てられるという構成も「ワンパターン」だ。周縁として補完されるのは、相も変わらずシングルマザー、レズビアン、若い女である。わたしはむしろこの方たちの議論をもっと詳しく聞きたいと思った。例えば、栗田が言うように、「フェミニストであろうとなかろうと(中略)きちんと敵対するべきところは敵対する」というスタンスは重要と思う。グローバル経済により、日本に就職口自体がなくなっている現在、大沢真理らがこの貧困状況に対してミスマッチな「キャリア教育の充実」を語っていること自体が「ジェンダー平等」を推進した大沢ら女性学者の行ってきた政策を批判的に検証する必要性を強く示していると思う。また、尾辻が提唱する「同性パートナー制度」を導入するにはこれまでの「男女共同参画政策」をどのように改正する必要があるのだろうか、あるいはそもそも「同性パートナー制度」は結婚制度とどこが違うのか、といった論議こそ今やるべきことなのではないだろうか。漢人が述べるように、保育所を単に増やすだけでは十分ではなく、保育士が働き続けられるように労働条件を上げていくこと、児童虐待が増加しているが子どもたちをどうしたら救い出せるかといったことも「ジェンダー平等」と不可分なことである。もっとこうした議論を深めてほしかったと思う。

海妻径子の論考では、小倉ら男性アクティビストや男性研究者が日頃、「文字の上」においてしか女性運動に「敬意」を払わず、実際に目の前にいる女性運動が眼中にないという批判をしているが、わたしは本特集では文字の上でも現在の「女性運動」に敬意を払っていないと感じられた。海妻があげる、やれ「リブはすごかった」という過去の運動に対する評価しか存在しないという批判は、そっくり本特集にあてはまるのではないか。「すでに失われてしまった闘いの名残りほどラディカルなものはない」(p.90-91)という海妻のことばは、いつまでも「リブ」にこだわる本特集にそっくりはねかえってくる。

さらに、海妻のみならず、本特集全編を通じてのメッセージとしてフェミニズムが「コンシューマリズム」あるいは、「化粧とハイヒール」に「負けた」という見方をしていることに違和感をもつ。また、海妻は「コンシューマリズム的主張を批判しきれ」なくなるという批判をしているが、消費主義は、完全にわたしたちの外部にあるもので、フェミニズムはそれに「勝ったり」「負け」たりするような存在なのだろうか。コンシューマリズムとは、より多く商品を購入させるように消費をあおり立てる社会のしくみを指すと思うが、わたしたちは、フェミニズムも含めてそうした社会体制の中に絡め取られているのではないか。「負ける」とか「勝つ」とか「批判しきれる」とかそんなにすっきりと自分の外にある存在として切り取れるやわな装置ではないと思う。「化粧とハイヒール」「コンシューマリズム」ということばで言い表されている消費社会や消費主義のとらえ方にも疑問を抱いた。

最後に、本特集を読んで一番疑問に感じたのは、そしてこれが一番深刻な問題であるが、自分を棚に上げて「責任逃れ」をしている書き手のスタンスであった。この「責任逃れ」がもっともひどいのは船橋邦子だ。これまでの男女共同参画政策は「心がけ論」でしかなかったからダメだというが、船橋は、佐賀県立男女共同参画センター館長職に自ら応募して、「男女共同参画社会とは、伝統的な性別役割や、女らしさ、男らしさに縛られず、自分らしく生きることのできる社会」と定義し、「男らしさ」「女らしさ」から「自分らしさ」へというかけ声を繰り返しかけまくった。船橋が、『ジェンダーがやってきた』(木犀社、1997)という本の中で繰り返し書いているのは、その意識改革であった。自ら行政に飛び込み、その組織のトップとして「女らしさ」ではなく「自分らしさ」へと意識改革を迫る男女共同参画政策を推進してきたのが、船橋その人であった。しかしながら、船橋は自分がまったく関わってこなかったかのように、自分の責任を棚にあげて、女性センターにおいて予算の大半が単にイベントに費やされていた、女性のためにならないやり方だったと批判している。自分がどう関わって、どううまくいかなかったなどという実例を一切出さないので、問題の所在が見えてこない。そして、問題を深めないままに、さて今度は、男女共同参画社会基本法が性差別禁止法ではなかったのがまずかったと、とんでもない主張を繰り出し、責任を自分とは関わりのない外部に押しつけようとしている。

船橋の記事の最後は、「既存の政策に対する批判力をつけ、主体的に政策づくりにコミットしていく活動が求められている。国や自治体が呼びかける協働やパートナーシップという美名のもとで、気がつけば政策に動員されていたという過去の過ちを繰り返さないために」というものだが、市民よ批判力を養え、といったいわゆる女性のエンパワーメント、言ってみれば「心がけ論」に回帰している。船橋自身が真っ先に自治体の呼びかけに応えてトップセールスを担ってきたこと、そのことにはまったく触れずに、「過去の過ちを繰り返さないために」といっても説得力なさすぎだ。いつも自分のよって立つ位置や関わりを明らかにすることなく安全な位置から、一般市民や政策・制度など他者を批判する。自分が関わったこと、してきたことの責任を問うことのないその批判のあり方こそ、90年代以降国や自治体の男女共同参画政策に深く関与してきた女性学者がもっとも問われなければならない課題だと思う。フェミニスト学者、運動者らがこの問いを投げかけられたら、まず自らがどのように関与してきたか、それをどう評価するか、を真っ先に考えるのではないか。

この特集において、フェミニストが過去の運動語りにどっぷりと浸かったまま、現実の運動の評価と向き合うことを避けている。そしてそのこと疑問を感じていない。これは、フェミニズム研究の中で「運動」や「アクティビズム」を売りにする人が出てきてそれがそれら一部の人達の一種の専売特許となっていること、そしてそれ以外の大勢の女性学者が運動から遠ざかっており、運動についての議論が成立しなくなっていることが影響しているのではないかと思った。運動や政策をめぐって、目の前のもっとも厳しい局面を避けたり、自らの責任逃れの主張がなされている特集を読んで、「フェミニズムって一体何のために書いたり、議論したりしていたんだっけ」と改めて突きつけられたような気がした。

参考文献:

伊藤陽一2009「ジェンダー統計研究(10)ー性別格差の総合指数について1ーGEMとGender Gap Indexを材料に」『経済統計学会ジェンダー統計研究部会ニュースレター』(10-15号筆者はインターネットからダウンロードしたが、2010年9月15日現在同じ文書を確認できなかった。しかし、伊藤のGEM批判論考は他にもネット上に多くあげられており読むことが可能。

杉橋やよい2008「ジェンダーに関する統合指数の検討?ジェンダー・ギャップ指数を中心に」戒能民江編著『ジェンダー研究のフロンティア1巻 国家/ファミリーの再構築?人権・わたし的領域・政策』作品社:230-249

杉橋やよい2009「第7章 ジェンダー統計の現状と課題-日本を中心に」杉森滉一・木村和範・金子治平・上藤一郎編著『現代社会と統計1社会の変化と統計情報』北海道大学出版会:151-170

船橋邦子1997『ジェンダーがやってきた』木犀社

山田昌弘2005『迷走する家族-戦後家族モデルの形成と解体』有斐閣238

女性運動史をめぐる「江原史観」の問題点とその影響

執筆者:山口智美

「ふぇみにすとの論考」2006年7月6日付エントリ。女性学において「主流」とされてきた、江原由美子氏の「フェミニズムの70年代と80年代」論文に提示された、フェミニズムの「主体の交替」に関する史観が、結局のところ女性学の勝利の歴史になってしまっており、そこから漏れ落ちている運動史があることを指摘した文章。この江原論文は、日本のみならず、英語に翻訳されているため英語圏でも影響力が大きい論文となっている。(2009年7月20日 山口智美記)

1996年、「行動する女たちの会」(1985年までは「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」)が解散した。その後、一部の元会員たちによって、会の記録集作成プロジェクトが始まり、1999年、『行動する女たちが拓いた道』(未来社)という本として、出版された。

この本の「はじめに」に、「女性学を学ぶ若い研究者や学生たちの中には、日本にはフェミニズム運動はなかったとか、’70年代初めの短期間の運動に終わったと思っている人たちが少なくない。 このような女性解放史の欠落は埋められる必要がある。私たちがこの記録集をまとめようと考えた動機はここにある。」(行動する会記録集編集委員会 1999:1-2)という一文がある。

近刊のジェンダーフリーバッシングに関する出版物などを見ると、どうも、多くの女性学やジェンダー研究者は、若くなくとも、このような歴史観を共有している場合が多いように思えるのだ。つまり、日本での運動は70年代初期の、初期リブの後勢いを失って終わってしまったかのように記述され、以降の運動史は無視されていることが多い。このように、70年代中盤以降の女性運動史を無視してきた結果が、私もたびたび『ふぇみにすとの雑感@シカゴ』ブログで問題にしてきた、男女平等教育は特性論に基づいていた、などといったような、実際の女性運動の成果を考慮にいれない歴史認識につながるのではないかと思う。

私自身を振り返ってみても、「行動する女たちの会」を中心とするフィールド調査を始める前、学術系の日本のフェミニズム本しか読んでいなかった時代には日本のフェミニズム運動に関する知識はほとんどなかったといってよい。私自身の勉強不足ももちろん原因ではあったが、日本語で学者が書いた文献の中で、70年代中盤以降の運動がなかったかのように扱われて来たことも大きな原因だったと今は思っている。

このような女性運動の歴史の欠落の背景として、は江原由美子氏の論集『フェミニズム論争』に収録された論文「フェミニズムの70年代と80年代」の影響が大きいのではないかと考えている。この江原氏が提唱した、日本のフェミニズム史観が、女性学で主流のものとなっている現状があると思うのだ。

そこで、この「フェミニズムの70年代と80年代」論文で論じられている、江原氏の「「主体の交替」に着目したという、フェミニズム運動史の問題点について考察してみたい。

 「主体の交替」論の問題

江原は、実体的な意味ではなく、反響や影響力に着眼して分析的に構成した意味であるとする「主体の交替」という視点にたって、日本のフェミニズム運動史を考察している。まず、この前提に問題がある。ここで江原氏が言う「主体の交替」論では、マスコミ上の影響力、社会の主流における影響力を重視するという視点にならないか。そのような視点で、オルタナティブな価値を求め、既存のマスコミなどを否定する側面を強くもっていた女性運動の歴史を語ることの限界は、まず問われるべきだろう。

この「主体の交替」視点にたち、「運動から制度へ」「活動家から研究者へ」「ミニコミからジャーナリズムへ」といった変化があったと江原は論じる。そして、70年代、リブ運動を契機として「運動の言葉」として始まったという日本のフェミニズムは、次第に行政関係者や研究者たち、そして、80年代にはジャーナリズムや有名人フェミニストによりリードされるようになったとする。

これは、いわば、学者と行政が女性運動を淘汰して生き残ったという歴史観ではないだろうか。要するに、江原が所属する「学者」の世界、とくに自身も含まれるだろう「有名人フェミニスト」が、フェミニズムの中心として君臨しているという歴史観のようでもある。

このような、ある意味社会進化論的な、歴史が直線的に進化するといったような歴史観に基づいた江原論では、フェミニズム内部の複雑かつ同時的な、時には対立も含んだ多様な動きは、ないものとされてしまうことになる。

そして、ここで落とされたのが、江原史観において、70年代後半から80年代に女性学によって取って代わられてしまったとされる、女性運動なのだ。例えば、行動する会が関わった、70年代後半から85年にかけての雇用平等法をつくる運動、82年の優生保護法改悪阻止運動などは、この歴史観からは抜け落ちている。80年代中盤から始まった、男女混合名簿運動についても同様だ。

リブ運動の時代区分の問題

江原は、1970年のリブ誕生から、1977年頃までを「運動の側」「活動家の側」に主導権があった時代だと捉えている。そして、この時代を(1)70〜72年の黎明期、(2)75年くらいまでの運動の専門分化期、(3)75年以降の質量ともに大きくなった時期、と3期に分ける。そして、各時代を代表する運動体として、(1)の時期に対しては「ぐるーぷ闘う女」(2)は「中ピ連」、(3)は「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」であるとする。

だが、いわゆる初期リブの、全国にわたった多様な動きを、東京の一団体であった「ぐるーぷ闘う女」で代表させて語るというのは、いかにしても無理がある。おそらく、リブ運動の代名詞のように語られがちな田中美津氏が「ぐるーぷ闘う女」に関わっていた事から、このような評価になるのではないかと思われるが、「ぐるーぷ闘う女」は一例ではあっても、これを「代表」として捉えることで、リブの多様性が見えなくなる効果は否定できない。そして、「ぐるーぷ闘う女」だけを代表とすることで、田中美津氏こそがリブの代表的な声だったというような言説を強化することにもつながるだろう。

リブ新宿センターが開設されたのは72年だが、その時期にはすでに江原史観では、主体は「中ピ連」にとってかわられた(かわられつつあった?)、ということになっている。確かにマスコミ上で多く取り上げられたのは中ピ連だが、実際の運動現場においては、様々なリブグループが同時多発的に活動していた時期なのではないだろうか。実際、リブセンター系の団体と中ピ連は様々な論争も行っていた。そして、ぐるーぷ闘う女は、72年以降もリブ新宿センターにおいて、活発な活動を続けている。同様に、75年において、主体が中ピ連から行動する会に交替したというのだが、行動する会が結成された75年時点においても、中ピ連はまだマスコミ上で華々しく取り上げられていたし、「日本女性党」として参議院選挙に打って出たのは77年のことである。このように、運動は同時期に、時には対立も経験しながら、続いていたのだ。

女性学の誕生と論争の時代

1978年頃から1983年頃は、江原史観によれば、女性行政、そして女性学の誕生の時期であるが、いまだ運動家、行政関係者、研究者のいづれも主導権をとれなかった時代だという。初期の女性学は、リブ運動とは一線を画して始まり、結局リブ運動が内包してきた多くの未解決問題を残したままの状態であり、1970年代末には運動の下火化も進んでいたと指摘されている。

ここでの江原氏の解説中、全く無視されているのが、リブ系や、それ以外の幅広い全国の女性たちを巻き込み、しかも成功をおさめた、82年の優生保護法改悪阻止運動だろう。山上千恵子監督による、記録ビデオ『女たちは元気です!』で映し出されるデモ風景などをみても、この運動は最後のリブ的なデモなどが行われた運動といってもよいように感じた。この重要な運動の存在がまるで抜け落ちるということは、女性学がいかに実際の運動と遠い場所にいたか、の反映でもあるかもしれない。実際、私がこの運動について調べていた時、その頃にはすでに存在していた、女性学会などが出した声明文などを探したのだが、見つからなかった。(何かご存知の人がいたら、教えてほしい。)しかし、女性学がはじまって、主流化しつつある過程を描くことが中心の江原史観においては、この運動は無視されているのだ。

その後、この女性学の誕生期で取り残された問題を扱っているのが、83年頃からの「論争の時代」だと江原は解説する。「エコフェミ論争」「総撤退論争」「アグネス論争」に代表される「論争」であり、それをリードしたのが、上野千鶴子、小倉千加子、青木やよひなどの「有名人フェミニスト」だというのだ。(ご自分で言及はしておられないが、この「有名人フェミニスト」には江原氏ご自身もおそらく含まれるのだろう)。とくに、上野千鶴子氏の突出した地位についてが言及されている。

ここで抜け落ちている重大な運動は、当然ながら85年の雇用機会均等法、および労基法改悪に関する攻防であろう。運動現場での激烈な論争もあったという運動だが、このような運動の現場における「論争」は「論争」のうちには含まれないのだろうか。そして、86年以降は、売買春や性暴力に関する運動、そして「性の商品化」関係の運動が盛り上がってくる。だが、それも抜け落ちてしまっているのだ。

「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」の会員でもあった、中島通子は、以下のように述べている。「『フェミニズム論者』にとって均等法とか労基法は、運動課題にはならなかったのか」ということである。・・しかも、「エコ・フェミ論争」と「総撤退論争」は、日本の女性の働き方、生き方を左右する均等法と労基法をめぐる攻防の真っただ中に行われたにもかかわらず、これらの運動とは直接かかわることはなかった。というよりむしろ、間接的には逆風として働いた、というのが正直な感想である」。(『「女が働くこと」をもういちど考える』 労働教育センター 1993:112)

江原自身も、これらの時代区分はあくまで目安だと述べているが、江原氏の論集が女性学において必読の文献とされていった過程で、このような女性運動史観が後の女性学やジェンダー研究の語りに大きな影響を与えているのではないだろうか。江原氏だけではもちろんないが、このような史観が積み重なって、運動といえば常に70年代初期ばかりがクローズアップされ、1970年代後半から1995年に至る運動が、存在しなかったかのように語られてしまっている現状があるのではないかと思うのだ。

リブ関連書の紹介

日本のウーマン・リブ運動に関する書籍をいくつか紹介。抜けているものもあると思うので、このリストにも加筆がはいっていくかもしれません。
(ブログ「ふぇみにすとの論考」2007年10月2日付エントリに若干加筆したもの。)

リブ全体像

  • まずはリブを語るに必須のこの3冊。当時のリブの書き物のコレクション。これだけの資料を選び、各団体や文章の著者に連絡をとり、、と、編集は大変な作業だったという。1〜3巻まで、年代、テーマ、地域と複数の柱のもとに構成されており、リブがいかに一極集中ではなく、さまざまな地域で起きていた多様な動きだったかというのがわかる。資料日本ウーマン・リブ史 (1)、(2)、(3)
    溝口明代、佐伯洋子、三木草子編
    松香堂書店

資料日本ウーマン・リブ史 (1)

資料日本ウーマン・リブ史 (2)

資料 日本ウーマン・リブ史〈3〉

  • そしてこちらも必須の一冊。『銃後史ノート』と『銃後史ノート戦後篇』全冊は、日本の女性運動史を語る上で欠かせない書物だ。他の巻は女性史家たちがまとめた文章が主になって掲載されているが、この最終巻の『全共闘からリブへ』だけは、当事者たちが書いた文章が主になっており、興味深い座談会も掲載されている。全共闘からリブへ 銃後史ノート戦後篇〈8〉1968・1~1975・12 (銃後史ノート戦後篇 (8 68・1~75・12))
    女たちの現在を問う会編
    インパクト出版会

  • 「文学史を読みかえる」シリーズの一冊。リブという“革命” 近代の闇をひらく (文学史を読みかえる)
    加納実紀代編
    インパクト出版会

  • リブに関する本としては最近(2006年)発行の本。女(リブ)たちの共同体(コレクティブ) 七〇年代ウーマンリブを再読する
    西村光子
    社会評論社

  • リブ運動に関わり、「女性学」という言葉をつくりだした研究者、井上輝子さんによる初期の本。リブの思想やミニコミについての論文所載。女性学とその周辺
    井上輝子
    勁草書房

女性学とその周辺

  • 学者によるリブの再評価、という面で影響力がかなりあったと思う本。女性解放という思想
    江原由美子
    勁草書房

女性解放という思想

リブ団体の記録

  • 新宿リブセンター員だった、米津知子さんをはじめとする方々がリブセンター「活動休止」以降もずっと資料を保存し、長年かけて整理し、ご自宅に保存されていたものを編集した、あまりに貴重な運動記録の書籍化。「この道ひとすじ」はリブセンター発行のニュース。イラストもたくさん書かれ、当時の「楽しさ」と運動の勢いのようなものが伝わってくる。もう一冊のほうは、当時のパンフレットやビラなどを集めて掲載。パンフ、ビラ篇のほうは、とにかく値段が高いのがネック(5万円!そして重量も相当なもの)で個人所有には厳しいが、もし比較的お金がありそうな図書館(とくに大学など)があればぜひリクエストしましょう。リブ新宿センター資料集成
    リブニュース この道ひとすじ リブ新宿センター資料集成
    リブ新宿センター資料保存会

  • 山川菊栄さんらの呼びかけにより創立。1962年代から活動をはじめ、2001年に解散。とくに女性学がなかった時代、地道な研究や議論を積み重ね、目立たないが重要な役割を果たした団体だと思う。いわゆる「リブ」といえるかどうか、人によって評価は割れるかもしれないが、リブに大きな影響をうけたり、自らも「リブ」となのる会員は多くいたと聞く。田中寿美子さん(元参議院議員)、樋口恵子さん、駒野陽子さん、中嶋里美さん、井上輝子さん、梶谷典子さんなど、この会を契機として女性運動に関わるようになっていった方々は多い。社会変革をめざした女たち 日本婦人問題懇話会会報アンソロジー
    日本婦人問題懇話会会報アンソロジー編集委員会
    ドメス出版
  • 社会変革をめざした女たち―日本婦人問題懇話会会報アンソロジー
  • 家庭科の男女共修をすすめる会の記録集。この会なくしては、家庭科の共修は達成されなかっただろう。70年代から、女性運動は教育における性別役割分担を批判していたのだ。74年発足、97年解散。一テーマに集中して運動を長年にわたってすすめ、成功し解散した運動体の例でもある。家庭科、男も女も!?こうして拓いた共修への道
    家庭科の男女共修をすすめる会
    ドメス出版
  • 家庭科、男も女も!―こうして拓いた共修への道
  • 私も編集委員会の一員だった、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会』の記録集。本文には75年〜85年までの会の歴史が実際運動に関わった方々の視点から書かれ、巻末年表には86〜96年までの歴史も加わって掲載。(この会が「リブ」かどうかも評価が分かれるところだけれど、この記録集の編集に関わった人たちは自らを「リブ」と呼ぶ人たちが大部分だった。)行動する女たちが拓いた道 メキシコからニューヨークへ
    行動する会記録集編集委員会
    未来社
  • 行動する会が86年、『行動する女たちの会』と名前を変えて以降に力をいれた、メディア関係の運動の記録。ポルノ・ウォッチング メディアの中の女の性
    行動する女たちの会
    学陽書房
  • ポルノ・ウォッチング―メディアの中の女の性

    個人の著作

  • 影響力甚大だった本だし、ある意味リブの古典でもある本。リブ=田中さん、という評価はおかしいと思うが、この本が多くのリブたちに読まれ、影響を広く与えたのは事実だし、今読んでもパワフル。いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論
    田中美津
    パンドラ
  • 「ウルフの会」などに関わっていた秋山洋子さんによる、リブ運動経験に基づいたリブの歴史。リブ私史ノート 女たちの時代から
    秋山洋子
    インパクト出版会
  • リブ私史ノート―女たちの時代から
  • リブに関して勢力的に著作活動をされ続けている、加納実紀代さんの私的なリブ(やその時代)の歴史まだ「フェミニズム」がなかったころ 1970年代女を生きる
    加納実紀代
    インパクト出版会
  • まだ「フェミニズム」がなかったころ―1970年代女を生きる
  • リブ以前からリブをへて、行動する会、戦争への道を許さない女たちの会など、ずっと女性運動、平和運動をリードし続けてきた吉武輝子さんの運動史。おんなたちの運動史 ーわたくしの生きた戦後
    吉武輝子
    ミネルヴァ書房
  • このように出版物もけっこう出ているのだが、やはりリブなど運動を知るには、出版されていないミニコミ類などを見るのもとても重要。

    リブ関連の資料は、『資料ウーマンリブ史』の編者さんたちが、大阪ドーンセンター、横浜女性フォーラムに寄付されており、閲覧することができる。

    行動する会のニュースレターやパンフは、東京ウィメンズプラザ、お茶大ジェンダー研究センターなどで閲覧可能。