タグ: 上野千鶴子

「ジェンダーフリー」vs「男女平等」

キーワード:男女二元論、クィア

「女性とマイノリティと労働者を支援するブラック企業?」をめぐる議論 マサキバージョン

執筆者:マサキチトセ

某ジェンダー・スタディーズ系メーリング・リストにおいて、あるフェミニズム系の企業が頻繁に求人広告を投稿していたのを不審に思っていた人は少なくないと思う。

私自身も以前友人が仕事を探していたときにこの企業からのメールの内容を教えたことがあるのだけれど、その後も何度も求人広告が投稿されるのを見て、「あら、欠員が出るの早くない?もしかして労働条件キツめ?だとしたらあの人(友人)、この仕事に応募しなくてよかったわ〜」と思っていた。

フェミニズム系の団体・企業においての労働条件の問題は、つい1年前あたりからの WAN (ウィメンズ・アクション・ネットワーク)の労働争議に関連して、一部のフェミニストや関連活動に携わっている/関わってきた人々のあいだではここ最近意識せざるを得ないような状況であった。それは、女性の雇用というフェミニズムにおける重要な問題と直接に関わるからであり、それは同時に、資本主義やそれと密接に関わると上野千鶴子氏が論じたところの家父長制とも切り離せない問題であるからだ(『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平』)。不安定な雇用、賃金格差、セクハラなど、女性と雇用の問題には様々な論点があり、フェミニズムにおいてはこれまでも様々な議論が重ねられ、多くの方々が改善に向けて活動してきた。そのひとつとしてユニオンWANの活動は数えられるだろう。

このような例からも分かるとおり、フェミニズムと雇用の問題は常に問題化されてきたし、労働条件の改善に関しては多くのフェミニストが力を注いできた。だから、小山エミさんがメーリング・リストに当該企業の労働条件について質問を載せたのは、そのようなフェミニズムの歴史的流れを鑑みれば当然のことである。その経緯は具体的にはメーリング・リストを参照してもらうしかないが、ログが公開にはなっていないので、以下のブログ記事を参考にしてもらいたい。小山さんが質問を出してからの経緯については、小山さんの3つめの記事に詳しく載っているのでぜひ読んでもらいたい。

その上で、私も遅ればせながらメーリング・リストに投稿をした。団体や個人が特定されないように伏字を入れた状態の内容が、これ。

みなさま

シカゴ大学大学院修士課程に所属しております、****と申します。

いま問題となっているのはこのML上において********・********事務所の労働条件についての書き込みを許容するか否か、というものかと思いますが、それよりも大きな問題としてそもそも、フェミニズムと深い関係にある********・********事務所において実際に被雇用者が劣悪な労働条件のもとで働いていたという事例が小山さんより紹介されているわけで、私はフェミニストとして、まずそこに注意を向けることが重要かと感じております。

といいますのも、このML上においてこのやりとりがなくなったところで、実際の問題は継続するだけです。ですからわたしの「良識」を総動員した結果、ジェンダー・スタディーズをテーマとしたこのMLにおいて今の段階でこの****に関する対話を中止にするのは、実際の被雇用者の現実を無視し、ジェンダー・「スタディーズ」という学問に携わる者として運動体内の権力関係について無関心を実践することになるのではないかと考えます。

また一方で、このMLにおいて、私のような****との直接の関係に無い者がそもそも口を出していること自体がもしかしたら被雇用者の方々の声を封じ込めている可能性はあります。しかし、だからこそ、実際に元雇用者の方と連絡を取ってその方の声をMLに届けた小山さんや、元雇用者として発言をされた投稿者の方以外の人間は、いま、ここで、「良識ある判断」により本ML上での議論を打ち切りにしたりするのではなく、****における問題にきちんと向き合うことが大切かと思います。少なくとも、口を出してしまった私や、ここ数日のあいだにこの問題について意見を投稿した方には、その責任があると思います。

まずは、実際の被雇用者や元被雇用者の方々の声に真摯に耳を傾けませんか?(注) 勇気を持って発言した方々(代弁を依頼した方も含め)の声を「個人情報」だとしてMLから排除しようとすることは、現実の問題から目を逸らすことになってしまいます。もちろん、あるいは、「MLでは語るべきではない」と考える方々が、ML以外の場所で****の労働条件の改善に向けて何か行動を起こすつもりなのであれば、それは素晴らしいことだとは思います。もしそうでなく、単にこの場での対話を中止することだけを主張されるのであれば、それは同じフェミニストとして非常に残念に思いますし、考え方の違いを認識するしかないのかなとは思います。もちろんフェミニスト同士で違いはあって当然で、それはむしろいいことだとは思うのですが、それは、ある意見によって他の意見が排除されないという条件においてのみ「いいこと」であることが出来るものだと思います。

わたしは、フェミニストとしての「良識」を総動員した結果、この対話が継続することを1人のML会員として希望しますし、この対話を通して、私に出来ることを模索したいと思っております。

****
シカゴ大学大学院社会科学学科修士課程
chicomasak@gmail.com
******@uchicago.edu
+1-312-****-****
http://start.io/castrated

注:「雇用者や元雇用者」と間違えて表記していたものを、「被雇用者や元被雇用者」と書き直しました。

『季刊・ピープルズ・プラン』51号(2010)「ジェンダー平等」特集を読む 

執筆者:斉藤正美

「ジェンダー平等は日本でなぜ進まないのか」を読んだ。twitterなどでちらほら言及されたり、発売元のPP研サイトでもよく売れて在庫がなくなりそうと書いてあったりと大人気の特集号らしい。だが、私が住む富山では大型書店にも大学生協にも電話で問い合わせたが、どこにも入ってないことがわかった。仕方なく、わざわざ発行元から取り寄せた。いったいどういう人達が手に入れているのだろうと思いつつ手にとった。そして、一通り読んでみて、いくつかの現実的な議論を展開する論者を除き、この書き手たちが進めておられるのであれば、「ジェンダー平等」はうまく進むはずがないわ、と思ってしまった。

「ジェンダー平等は日本でなぜ進まないのか」という問いを投げかけられたら、まず自らがどのように関与してきたか、それをどう評価するか、を真っ先に考えるのではないか。しかし、本特集を読んで一番疑問に感じたのは、政策にも関わってきた船橋邦子らフェミニスト学者が自らの責任や課題に言及しないで、遅れている責任を「市民の意識の遅れ」や、法律や制度といった外部のみに押しつけていることであった。これまで深く関与してきた自分を棚に上げて「責任逃れ」をしているのだ。法律や制度を問題視すること自体はいいと思うのだが、この号に欠けているのは、運動への評価という視点だ。自らどう関わってきたのか、それを現在どう評価するのか、にはまったく触れないのだ。

結果、特集で書かれているテーマや内容がどっかで読んだことがある「ワンパターン」であり、「リブ」の過去がたりという「ノスタルジック」なものになっている。つまり、今起きている現実と向き合わずに、過去のリブを懐かしむ、自分とは無関係に理念や政策を批判するなど、現実感に乏しい特集企画であった。さらに、「ジェンダー平等」が何を指すか、わたしには最後までクリアにならなかった。これらの点は、「ジェンダー平等」特集を組んだ青山薫・千田有紀両編集委員のスタンスが大きく影響していると思われ、疑問に思うところである。

特集の目次が参照できます。

青山薫「特集のねらいと概要」は全文が読めます。

この特集のトップページに1660年頃のオランダの絵画があがっているのも、浮世離れした特集を象徴している気がした。17世紀の絵画が、それ以前の宗教画から脱皮し、「人びとの日常を描く」ものになり、「女の家事と、男性の仕事の違い」を描いているというのだが、本特集は、「ジェンダー平等」をはじめ、「オールタナティブ社会」「アクティビィスト」などバタ臭さのする言葉の蔭に、市井で条件の悪い中で必死に生きる女性たちが顔を出す機会を失っているような感じをもった。

生活実態がみえないことがこの領域が遅れをとる一番の理由だと言うことをこの特集は逆説的に教えてくれた。それに関してだが、「ジェンダー平等」の現状がどうなっているかについて、「ワンパターン」が炸裂している。この特集で編集の青山が特集の概要を示す中で、ならびに男女共同参画政策を論じる際に船橋が、揃って上げているのは、毎度おなじみの国連のジェンダーエンパワメント尺度(GEM)だ。貧困・格差社会になった日本の格差・性差別を計ろうとする際に、いつも「上級公務員、衆議院議員、会社経営者」(青山の記述。p.24)というエリートたちを指標にすることに疑問を感じないというのはあまりに現実離れした目線ではないかと思う。

そもそもジェンダーエンパワメント指数(GEM)は、統計上問題があるという批判が複数の統計学者からなされている曰く付きのデータである。ジェンダーエンパワメント指数とは、a.国会の女性議員割合、b.<行政職・管理職>と<専門職・技術的職業>における女性割合の単純平均価、c.推定勤労所得の3分野の4指標をとりあげ、0-1の数値に換算して、3つの価をそれぞ?のウエイトで単純平均したものである(伊藤2009)。統計学の伊藤が上述したように、異なる3つの分野を取りあげ、単純に3つに割って平均値を出すといった乱暴な評価づけについて、「このような見当外れの議論を引き起こすようなUNDPの指数・尺度は罪つくりだ」「時間をロスしあるいはミスリードすることは許されない」と早くから厳しい批判をしているのがまったく斟酌されていないのはどうしたことか。さらに、ジェンダー研究で多くの論考もある杉橋やよいも、かねてより異質な指標を総合し単純に平均するという測定指数構成要因がこの3つという選択が適正か、また単純に平均を出すという計算方式でいいのか、などウエイトづけならびに計算根拠の妥当性に対する批判を行っているところである(杉橋2008、2009,)。こんな指標が性差別の実態を言い表しているとはとても言えない。

「ジェンダー平等は日本でなぜ進まないのか」特集号は、上述した「どれほど進まないのか」という現状認識でも問題があったが、どういう解決方法を示したらいいか、という解決策でも、「ワンパターン」である。現在のように、貧困と格差の問題が深刻になっても相変わらず毎度おなじみの「世帯単位からシングル単位」論が繰り返される。これにたいし、「大量のフリーター女性が出現している」こと、「女性の収入が低下している」ことをあげ、「政策単位の個人化だけではうまくいかない」と山田昌弘から批判も出ている(山田2005:252-253)。

シングル単位論は、WLB、女性のエンパワーメントなどを掲げ、女性の社会進出、共働きを推進することによって男女共同参画が進むといった政策と共に語られている。しかしながら、鈴木ふみが論考で書くように、日本では正社員、特に子どもをもった女性がフルタイムで働くのが一般化する前にニューエコノミーによる労働の二極化が始まり、パート、アルバイトー、契約社員、派遣社員などの非正規雇用の拡大が始まった。90年代半ば以降、企業が非正規雇用を「柔軟型」労働と呼んで人件費を削減していった結果、社会保険などのセイフティネットに守られることがない非正規就労者の割合が若年、女性など50%前後の割合を占めるまでになっている。シングルマザーは平均所得243万であり非正規就労が過半数とされる(2007年国勢調査)。このような「労働の主婦化」が進行した現状のまま、ほかの問題をみずにシングル単位のみを優先していても、非正規就労者は「働けど働けど貧乏のまま」となる可能性が高い。非正規雇用が浸透する中で、片働き夫婦のみを優遇する制度、性分業システムを是正しようというシングル単位論のみを強調するのは現実を見損なっているのではないか。その点で、鈴木ふみの論考は、経済や雇用の現状認識では共感するところが多いが、運動については、海外の運動の歴史に目が向きがちで日本の運動史が見過ごされている点、運動の担い手を「育てていく」という発想には疑問も感じた。女性に多い非正規就労者のことを考えるならば、解決策として出されている「失業給付や就労支援」「ベーシック・インカムの保障」などについてもっと活発な議論をしていきたい。

また、「ジェンダー平等」をめざすレトリックとして、しばしば用いられたものに「男らしく、女らしくではなく、自分らしく生きる」というものがある。「ジェンダーフリー」や男女共同参画政策における条例や行動計画などでよく取りあげられる文言である。しかしながら、いやが応でも「自分らしさ」イデオロギーが広まっている中で、「自分らしさ」をこれ以上強調するのはどうか、「自分らしさ」を免罪符にすることになりかねないという指摘もある(山田2005:232-233)。若者の状況と「自分らしさ」の関係はどうかわからないが、「自分らしさ」イデオロギーが自己責任論を助長させるリスクがあることについては「ジェンダー平等」を主張したフェミニスト学者も十分認識する必要があると思う。これまでの「ジェンダー平等」を主張してきた中にどんな課題があったのかを検証することも重要だと思う。現在の貧困格差問題とのからみでも、こうした批判と向き合う議論が期待されていると思うので、特集に自らの行動や主張への振り返りが見られない点を残念に思う。

さらに、運動についての「ワンパターン」がある。特集では、運動といえばいつもの「ウーマンリブ」ネタが持ち出されている。「ジェンダー平等がなぜ進まないのか」という特集に、なぜいつも1970年代前半に勢いを持った「初期リブ」にスポットがあたるのか、わたしには初期リブでなければならない必然性やその関連性が理解できない。青山は、「フェミニスト/リブを自称してはばからない」編者二人が「先達の運動を、建設的に批判・検証することにした」という。だが、建設的に批判・検証するにふさわしいのは、40年前のリブ運動であろうか。

しかも、田中美津インタビューに延々20頁も割いている。リブ運動を運動として検証するという時に現在は運動を下りている「田中美津」を取りあげても説得力に欠ける。それまで「リブとは一線」を引いてリブを置き去りにして女性学を立ち上げてきた女性学者が多い中、女性学者である上野千鶴子が1987年に『美津と千鶴子のこんとんとんからり』を出版し、田中美津をほめちぎって以来、女性学は田中美津をリブの教組といった「ワンパターン」な存在として扱うようになった。今回の特集もその「ワンパターン」を繰り返している。インタビューアーは千田有紀。しかも千田によるインタビューは、田中に「美津さんからするとわたしなんかは頭でっかちに見えるのかな」などとリブ運動を批判的に検証するといいつつ、一向に批判に向かないのである。最後には「心強い先達がいると、生きていくのが楽になりますねえ」という感想で締めくくっている。ノスタルジックな語りとしてしか読めない。「ジェンダー平等」の現在を語るのにふさわしい運動家は他にいなかったのだろうか。

さらに、秋山洋子は、この特集号で、リブの闘士だった北村三津子の死と樺美智子について書いている。保母から介護福祉士へとケアの現場で働き続けた北村三津子。六〇年安保のデモで亡くなった樺美智子のことをノスタルジックに語られることを批判する文脈で秋山は書いているのだが、この特集全体のモチーフがフェミニズムの歴史の中で「過去の栄光」である「ウーマンリブ」を取りあげるのだから、ノスタルジーに陥っているのである。亡くなって語られる北村三津子、運動者でないからお呼びがかかる田中美津、いずれも運動現場において実際に活動していないという意味でノスタルジックなのである。書き手やインタビュアーがどれほど大きくすばらしい存在として描こうと、過去語りでしかないために、書き手やインタビュアーらの現在の地位やスタンスが脅かされることはない。

リブ運動、左翼運動検証、政策に関しての議論をした後に、シングルマザーについて漢人朋子、レズビアン運動について尾辻かな子、「若い世代」について栗田隆子に、それぞれ4頁、5頁、6頁のスペースを割り当てられるという構成も「ワンパターン」だ。周縁として補完されるのは、相も変わらずシングルマザー、レズビアン、若い女である。わたしはむしろこの方たちの議論をもっと詳しく聞きたいと思った。例えば、栗田が言うように、「フェミニストであろうとなかろうと(中略)きちんと敵対するべきところは敵対する」というスタンスは重要と思う。グローバル経済により、日本に就職口自体がなくなっている現在、大沢真理らがこの貧困状況に対してミスマッチな「キャリア教育の充実」を語っていること自体が「ジェンダー平等」を推進した大沢ら女性学者の行ってきた政策を批判的に検証する必要性を強く示していると思う。また、尾辻が提唱する「同性パートナー制度」を導入するにはこれまでの「男女共同参画政策」をどのように改正する必要があるのだろうか、あるいはそもそも「同性パートナー制度」は結婚制度とどこが違うのか、といった論議こそ今やるべきことなのではないだろうか。漢人が述べるように、保育所を単に増やすだけでは十分ではなく、保育士が働き続けられるように労働条件を上げていくこと、児童虐待が増加しているが子どもたちをどうしたら救い出せるかといったことも「ジェンダー平等」と不可分なことである。もっとこうした議論を深めてほしかったと思う。

海妻径子の論考では、小倉ら男性アクティビストや男性研究者が日頃、「文字の上」においてしか女性運動に「敬意」を払わず、実際に目の前にいる女性運動が眼中にないという批判をしているが、わたしは本特集では文字の上でも現在の「女性運動」に敬意を払っていないと感じられた。海妻があげる、やれ「リブはすごかった」という過去の運動に対する評価しか存在しないという批判は、そっくり本特集にあてはまるのではないか。「すでに失われてしまった闘いの名残りほどラディカルなものはない」(p.90-91)という海妻のことばは、いつまでも「リブ」にこだわる本特集にそっくりはねかえってくる。

さらに、海妻のみならず、本特集全編を通じてのメッセージとしてフェミニズムが「コンシューマリズム」あるいは、「化粧とハイヒール」に「負けた」という見方をしていることに違和感をもつ。また、海妻は「コンシューマリズム的主張を批判しきれ」なくなるという批判をしているが、消費主義は、完全にわたしたちの外部にあるもので、フェミニズムはそれに「勝ったり」「負け」たりするような存在なのだろうか。コンシューマリズムとは、より多く商品を購入させるように消費をあおり立てる社会のしくみを指すと思うが、わたしたちは、フェミニズムも含めてそうした社会体制の中に絡め取られているのではないか。「負ける」とか「勝つ」とか「批判しきれる」とかそんなにすっきりと自分の外にある存在として切り取れるやわな装置ではないと思う。「化粧とハイヒール」「コンシューマリズム」ということばで言い表されている消費社会や消費主義のとらえ方にも疑問を抱いた。

最後に、本特集を読んで一番疑問に感じたのは、そしてこれが一番深刻な問題であるが、自分を棚に上げて「責任逃れ」をしている書き手のスタンスであった。この「責任逃れ」がもっともひどいのは船橋邦子だ。これまでの男女共同参画政策は「心がけ論」でしかなかったからダメだというが、船橋は、佐賀県立男女共同参画センター館長職に自ら応募して、「男女共同参画社会とは、伝統的な性別役割や、女らしさ、男らしさに縛られず、自分らしく生きることのできる社会」と定義し、「男らしさ」「女らしさ」から「自分らしさ」へというかけ声を繰り返しかけまくった。船橋が、『ジェンダーがやってきた』(木犀社、1997)という本の中で繰り返し書いているのは、その意識改革であった。自ら行政に飛び込み、その組織のトップとして「女らしさ」ではなく「自分らしさ」へと意識改革を迫る男女共同参画政策を推進してきたのが、船橋その人であった。しかしながら、船橋は自分がまったく関わってこなかったかのように、自分の責任を棚にあげて、女性センターにおいて予算の大半が単にイベントに費やされていた、女性のためにならないやり方だったと批判している。自分がどう関わって、どううまくいかなかったなどという実例を一切出さないので、問題の所在が見えてこない。そして、問題を深めないままに、さて今度は、男女共同参画社会基本法が性差別禁止法ではなかったのがまずかったと、とんでもない主張を繰り出し、責任を自分とは関わりのない外部に押しつけようとしている。

船橋の記事の最後は、「既存の政策に対する批判力をつけ、主体的に政策づくりにコミットしていく活動が求められている。国や自治体が呼びかける協働やパートナーシップという美名のもとで、気がつけば政策に動員されていたという過去の過ちを繰り返さないために」というものだが、市民よ批判力を養え、といったいわゆる女性のエンパワーメント、言ってみれば「心がけ論」に回帰している。船橋自身が真っ先に自治体の呼びかけに応えてトップセールスを担ってきたこと、そのことにはまったく触れずに、「過去の過ちを繰り返さないために」といっても説得力なさすぎだ。いつも自分のよって立つ位置や関わりを明らかにすることなく安全な位置から、一般市民や政策・制度など他者を批判する。自分が関わったこと、してきたことの責任を問うことのないその批判のあり方こそ、90年代以降国や自治体の男女共同参画政策に深く関与してきた女性学者がもっとも問われなければならない課題だと思う。フェミニスト学者、運動者らがこの問いを投げかけられたら、まず自らがどのように関与してきたか、それをどう評価するか、を真っ先に考えるのではないか。

この特集において、フェミニストが過去の運動語りにどっぷりと浸かったまま、現実の運動の評価と向き合うことを避けている。そしてそのこと疑問を感じていない。これは、フェミニズム研究の中で「運動」や「アクティビズム」を売りにする人が出てきてそれがそれら一部の人達の一種の専売特許となっていること、そしてそれ以外の大勢の女性学者が運動から遠ざかっており、運動についての議論が成立しなくなっていることが影響しているのではないかと思った。運動や政策をめぐって、目の前のもっとも厳しい局面を避けたり、自らの責任逃れの主張がなされている特集を読んで、「フェミニズムって一体何のために書いたり、議論したりしていたんだっけ」と改めて突きつけられたような気がした。

参考文献:

伊藤陽一2009「ジェンダー統計研究(10)ー性別格差の総合指数について1ーGEMとGender Gap Indexを材料に」『経済統計学会ジェンダー統計研究部会ニュースレター』(10-15号筆者はインターネットからダウンロードしたが、2010年9月15日現在同じ文書を確認できなかった。しかし、伊藤のGEM批判論考は他にもネット上に多くあげられており読むことが可能。

杉橋やよい2008「ジェンダーに関する統合指数の検討?ジェンダー・ギャップ指数を中心に」戒能民江編著『ジェンダー研究のフロンティア1巻 国家/ファミリーの再構築?人権・わたし的領域・政策』作品社:230-249

杉橋やよい2009「第7章 ジェンダー統計の現状と課題-日本を中心に」杉森滉一・木村和範・金子治平・上藤一郎編著『現代社会と統計1社会の変化と統計情報』北海道大学出版会:151-170

船橋邦子1997『ジェンダーがやってきた』木犀社

山田昌弘2005『迷走する家族-戦後家族モデルの形成と解体』有斐閣238

無邪気で戦略的なジェンダーコロキアムという場ー上野・澁谷の爆笑トーク

執筆者:斉藤正美

東大ジェンダーコロキアムがWANと共催で2010年1月13日に開催した「新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美「男(の子)に生きる道はあるか?」」を動画で視聴し、無邪気で戦略的なジェンダーコロキアムという場ー上野・澁谷の爆笑トークというエントリーを書きました。

本サイトにアップしている「『ジェンダー・フリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」という集会は、2006年12月16日にこのジェンダーコロキアムで行われたものです。山口智美さんとともに、上野さんに企画提案したものです。実施後、テープ起こしした内容や配布資料などをこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにアップしたものです。

今回のエントリーは、現時点でわたしがジェンダーコロキアムという場のイベントをみての感想を付け加えたものです。

なお、「『ジェンダー・フリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」という集会をジェンダーコロキアムで行うことになった詳しいいきさつについては、山口智美さんの主流フェミの連帯誇示と権威発動の場としての「ジェンコロ」に書かれているので、そちらを参照していただきたいと思います。

WAN 掲載記事の紹介&書くことになった経緯

執筆者:マサキチトセ

先日 WAN (Women’s Action Network) の「よみもの」欄に寄稿したところ、早速受理され、今日既に掲載してもらっているようだ(すんげー早い!)。タイトルは「わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」(2011年5月16日追記:URLが変更されていたので新しいものと差し替えました)というもので、 1/13 に行われたジェンダーコロキアムと WAN の共催イベント『男(の子)に生きる道はあるか : 新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美』の映像を観ての感想を書いた文章。ちなみにその映像はこちら:

http://www.ustream.tv/flash/video/3946597

よろしかったら他の方が書いている感想もどうぞ。(順番はアップされた順、たぶん)

書くことになった経緯

そもそもボクは WAN の問題については積極的にネット上で何か言うつもりはなく、個人的なブログにしろこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにしろ、一切文章をアップするつもりはなかった。それは、そもそも動画の内容が脳天を突き破るような、あるいはじっくりと時間をかけて肉を溶かす猛毒のような、さもなくばその両方であり、書く気力も出ない状態だったから。 tummygirl さんが先陣を切ってブログ記事にしているのを横目に、「あぁ偉いなあ。そしていい文章だなあ」と涙ぐむだけのあたし。

そんなときに山口智美さんに「っていうかマサキくんって WAN の呼びかけ人? 賛同者? だったよねー」と言われて、固まる。「えー!? あーーー、そうだったかもー!」くらいの記憶力(<研究者志望として、あるいはそれ以前に運動に携わるものとしてダメ)で、見事に忘れていた。ネット上を検索しても当時の呼びかけ人のリストが見つからず、でも確かに智美さんはリストにボクの名前を見たと言うし、呼びかけ人にだけ配信されて来たはずの準備会MLというものも、しっかりメールボックスに届いていた・・・。

「全くもう、バカだなぁ WAN は(笑)」くらいで、後はもうスルーしようと思っていたのに、何と自分が呼びかけ人として参加している団体だったなんて! という驚き、というかもはやショックで、これはもう、呼びかけ人として賛同した者の責任として何かしないわけにはいかないだろうと思った。

今でもボクは WAN はつぶれればいいとか破綻しちゃえばいいとか、あるいは存在を忘れられてしまえばいい(プレゼンスが下がればいい)とか、そういう風には思っていない。使い方次第でいかようにも使えると思うし、リソースが集まっているのはある意味では有益なこともあるだろう。その分例えば、アマゾンのアフィリエイトを使っている B-WAN のように、リソースをこぎれいにスマートにまとめられるシステムを利用しているからこそ、そこからこぼれ落ちる情報(アマゾンに無い本とか、自費出版の冊子とか)が更に周縁化されて行き、作り手も減るという問題はあるけれど。

とにかく当時呼びかけ人になった時のスタンスと、今のそれは、大して変わらない。 WAN に日本のフェミニズム、あるいは日本語話者による/対象のフェミニズムを代表させてはならないし、そういう意味で WAN が大きくなって影響力を持つようになることは避けたい。けれどネットを検索すればとりあえず WAN くらいはひっかかるよ、という程度に、つまりとりあえずのきっかけとして、とっかかりとして WAN に出会う、という程度になって欲しいという希望はあるし、同時に、昔からフェミニズムに関わって来た人たちにとっても、より「使える」リソースになって欲しいとも思っている。ボク自身が今回 WAN に投稿したのは、 WAN におけるそういうリソース作りへの関与を怠って来た自分に対する反省の意味も強い。

もちろん何が「使える」リソースで何が「使えない」リソースなのかというのは議論の余地があるけれど、それはボクが信じる限りのところを、口を挟んで行く(投稿したり、意見したり?というところで)という方法しかないかなと思っている。だからこそ今回は、例えば「 WAN のやったイベントは、異性愛中心主義的だった!」と思っても、呼びかけ人であるボクは外部のブログからそれを批判することは出来ないと感じた。やるなら内部で、つまり WAN のウェブサイト上でやるべきなのだし、恐らくこれまでもやるべきだったのだ。

上野千鶴子さんからの応答–「ジェンダーチェック」批判について

執筆者:斉藤正美

6月30日のエントリー「草の根フェミ」による「ジェンダー・チェック」批判とは?において、『バックラッシュ!』本における上野千鶴子氏の言及に疑問を呈しました。ブログに書いても上野さんはご覧にならないかもしれないと思い、直接上野さんにメールでお知らせしました。そして、上野さんからは誠実に疑問に答えるお返事をメールでいただきました。ブログで発表することについてもご了承いただきましたので、ここで上野さんのお返事を掲載します。

「6月30日のジェンダーとメディア・ブログ・エントリー「草の根フェミ」による「ジェンダー・チェック」批判とは?」への上野千鶴子氏からの応答(オリジナルはメール)

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こういう貴重な歴史的事実は、もっと早くに公開なさってもよかったのではありませんか。「当時ジェンダー・チェックに批判がなかった」ということへの反証になりますから。もしそれを今になって批判なさるなら、こういう情報公開を今日に至るまでなさらなかったことも、自己批判の対象になるのではありませんか?

わたしの情報は伝聞情報です。わたしは政府からも都からも審議会等のお呼びがかかりませんので、内部情報はまったく知りません。ジェンダーチェックが出てから、フェミ系の民間のアクティビストから評判が悪いことを耳にしていました。それからあるとき都内の行政関係のイベントに出たときに、問題のジェンダーチェックが目の前に登場し、不快な思いをし、それを口頭でその場にいた担当者に伝えました。メディアや文書による批判があったかどうかは知りません。複数の人たちから聞いており、そのうちのひとりは記憶にありますが、他は記憶にありません。口頭の批判は批判にはあたりませんか。

フェミ内部では、さまざまな批判は口コミで行われていたと思います。たとえばバックラッシュ派の最初の標的となった『新子育て支援 未来を育てる基本のき』(でしたっけ、ひな祭りもいかんのか、と反動派から揚げ足取りを受けた啓蒙書です)も、フェミ内部では「あれは行き過ぎ」と批判の声がありましたが、メディア等のおもてには出ませんでした。だれが言っているかは知っていますが、その方たちも、外部への配慮から表立っては批判はなさらなかったようです。

ついでに山口さんの「なぜその当時批判しなかったのか」というご批判について、再び。「ジェンダーフリー」とほぼ同時期に、「男女共同参画」が登場しましたが、これも草の根フェミ(これがおいやなら「民間フェミ」でもいいです)には反発がありました。私のスタンスは、「ジェンダーフリー」と同じく、「男女共同参画」は自分では使わない、が、他の人が使うことは妨げない、というものです。ですから「男女共同参画」を掲げたイベント等にも参加しました自分の原則は通すが、ゆるやかな連帯のうちで多様な展開があってよい、という立場です。ですが、各地の女性センターが次々に「男女共同参画センター」と名称変更していくことには不快感を持っていましたし、それを合理化する学者を「御用学者」として講演等で公然と批判したことはあります。

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最後の段落は、山口智美さんの「『ジェンダー・フリー』論争とフェミニズム運動の失われた一〇年」『バックラッシュ!』(pp.244−282)での上野さんについての言及への応答です。上野さんからここの部分もいっしょに掲載してほしいという要望がありましたのでここに掲載しました。

以下は、上野さんの応答を受けて、斉藤がメールで上野さんにお返事したものです。(ブログアップのために、2つの論点にわけました)

こういう貴重な歴史的事実は、もっと早くに公開なさってもよかったのではありませんか。「当時ジェンダー・チェックに批判がなかった」ということへの反証になるのではありませんか?

(1)実際に「ジェンダーチェック」批判に関わっていたのなら、もっと早く公開すべきではなかったか?

そうですね、そういわれるとまったくその通りです。今回上野さんに指摘されて、なぜ今までこのことを書かなかったのだろう、書きたいという強い意志が働かなかったのだろうと、初めて考えてみました。これまでこの経験についてはだれかれとなく話していたとは思いますが、はっきりと書いた方がいいと指摘されたのは山口さんだけでした。さらに、これまでなぜ書かなかったのか、と指摘されたのは上野さんが初めてでした。

わたしが書こうという強い動機づけができなかったのは、ジェンダー・チェックが東京の問題だと受けとめていたことが大きかったと思います。もし富山の女性センターサンフォルテがこのようなことをやっていれば即行動したと思います。実際、サンフォルテが「県民共生センター」というヘンな名前になるというときには、いろいろ行動もしました。

しかし、東京のウイメンズプラザのことであれば、たくさん専門家や関心ある運動家のかたがおられるので何もわたしが出る幕でもなかろうという気持ちが根本にあったように思います。それと、関係者にちょっと気兼ねをする気持ちもありましたね、あの時は委員を下りる、下りないと相当激しくやりあったことを表に出すことになるからと、、気を遣って書くほどの必然性を感じてなかったということかもしれません。

それともう一つは実際に、このことが公に議論されている場面に遭遇しなかったことがあります(わたしの記憶では、、)。上で上野さんも書かれているように、上野さん以外の有名女性学者は政府や都道府県の審議会に入っておられるのでほとんど「ジェンダーチェック」批判を公にされていなかったために、内部でクチコミでなされていたようでわたしにはそれに接する機会がなく、これが「貴重な歴史的事実」、公表したほうがフェミニズムにとってもいいことだという認識につながりませんでした。言い訳めいてきこえるかもしれませんが、それがわたしの正直なところです。上野さんに指摘されてからずっと考えてそう思いました。

今度の上野さんのインタビューでは、その問題が取り上げられていました。しかも、フェミニズム側の対応としてでした。これを書いた方がいいという認識がわたしの中でも高まっていたので、即反応したのでした。上野さん憎しと思ってしたのではありません(笑)。上野さんのご発言は影響力が大きいから見過ごせないというのは、確かにあったとおもいますが、、。

ですから。もしそれを今になって批判なさるなら、こういう情報公開を今日に至るまでなさらなかったことも、自己批判の対象になるのではありませんか?

(2)情報公開しなかったことは、自己批判の対象ではないか?

この体験のもつ重要性を軽く見てきたという認識については、「自己批判」、すなわち自らの状況認識の甘さを反省したいと思います。

いずれにしても上野さんから真摯なご回答をいただけたことを感謝します。それによりわたしはいろいろ気づくことができました。女性学内部ではなかなかできない、こういう議論を公に積み上げていくのが、問題をよりよく考えよりよい方向を考えるのに必要なことではなかろうかと思います。

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これが上野千鶴子氏とのメールでのやりとりでした。他の領域に比べ、女性学はネット議論への参加がとても遅れているように思うので、女性学者もネットを議論の場として使っていくことが重要と考えているからです。今後は、コメント欄に気軽に書いていただけるとなおさらうれしいかなと思いますが、今回、このような形で上野さんと議論のやりとりをブログという形で公開できたことは、よかったと思っています。

なお、『バックラッシュ!』キャンペーンサイトで、前エントリーを貴重な情報を提供したとほめていただき、うれしいドギを頂戴しました。女性学領域でも、ネットで継続して議論を積み上げていく例となればいいなあと思っています。みなさまコメント欄などで積極的な議論をつづけていけたらと思っておりますのでよろしくお願いします。

上野千鶴子さんの位置取り (「『女の品格』『おひとりさまの老後』から思うフェミニズムの行方」改題)

執筆者:斉藤正美

坂東眞理子さんの『女性の品格』、『親の品格』、それに上野千鶴子さんの『おひとりさまの老後』などフェミニストにより執筆された本がベストセラーの上位に食い込んでいる。お二人は自他共に認めるフェミニストである。そのお二人の本がベストセラーになっている。ウーマンリブの頃とは違い、フェミニズムが日本社会に受け入れられるようになったんだなあと思う今日この頃だ。ついでに言うなら二人とも富山県出身だこと!(その考察はまた改めて・・)

紀伊國屋書店単行本本週間ランキング(12月31日-1月6日)では、『おひとりさま』が3位、同新書ランキングで『女性の品格』が1位、『親の品格』が2位といずれもトップを占めている。文教堂(10分おき更新)では、総合で『女性の品格』が2位、『おひとりさま』が10位に入っている。

「品格」を説く書は啓発本である。『おひとりさま』は読んでいないのでよくわからないが、読者からは「老後の心構え」本と受け止められているのではないか。意識啓発で押してきた主流フェミニズムの面目躍如だなと思う。同じく現在何冊もベストセラー入りしている、坂東さん、上野さんより2周りほど若い勝間和代さんの本は、『効率が10倍アップする新・知的生産術–自分をグーグル化する方法 』などキャリアアップのための「サバイバル本」である。シニア世代は、「品格」という心構えを説き、若い世代は「サバイバル」のための仕事術を伝授する・・・。なんと好対照であることか。なんと世代格差を感じさせることよ。

フェミニズムが日本社会に浸透した今だからこそ、言っておきたいことがある。それは、社会で主流になりつつあるフェミニズムだからこそ、女性の中の多様性を積極的に肯定する動きが必要となっているということだ。要するに、女性の間での違いや批判を積極的に受け止めようということであり、自らを批判的に見ることができなければいけないということだ。新たに求められるフェミニズム像については、macskaさんによって「第三次フェミニズム」 (第三波フェミニズムともよぶ)として1998年にまとめられている。

しかしながら、実際はそうではない方向に進んでいるように思う。例えば、日本女性学会研究会レポ:守旧化するフェミニズム?マッチポンプ、あるいは、対立の禁止が対立をつくりだすで書かれているように、「フェミニズムにとって今闘うべきはバックラッシュである」という大義名分を掲げ、「対立をあおらず共闘、連帯しよう」と叫ばれ、学会運営などでフェミニズム批判がおさえこまれたものになっている。わたしもいろいろ声を上げているが、真剣に取り上げられ改善されたとはなかなか思えない。「バックラッシュ」が名目として便利に使われているのではないかという疑いさえ生じる。

2004年12月、上野さんが主宰されている東京大学ジェンダーコロキアムで「ジェンダーフリー概念」から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」という企画を山口智美さんとわたしで提案した。(報告を参照ください。)しかし、その頃から現在までの3年の間に、女性学をめぐる地図はだいぶ変わってしまった。残念なことに、よりいっそう閉塞的で多様な声が出ずらい状況になっているというのがわたしの見方だ。フェミニズム運動がよりいっそうおだんご状にまとまった気がする。相互批判がなくなり、多様な意見が上がってこない。

それに関連したエピソードとして、上野さんのフェミニズム運動における位置取りが変化したことがある。3年前東大ジェンダーコロキアムでの「ジェンダーフリー概念」企画の時は、東京中心の行政一体型フェミニズムを批判した山口智美さんや私に上野さんは、「私がこういう場に出られる理由は、私は行政と結託していないほうですので、ジェンダーフリーがバッシングを受けても、私自身がその対象にならなかったために、痛くもかゆくもない」と見得を切っておられた。そして、自ら行政とは一線を画していた「非主流派(?)」を主張されていた。ただし、『上野千鶴子対談集・ラディカルに語れば・・・』(平凡社)での大澤真理さんとの対談を見る限りでは、上野さんが「行政と一線を画していた」とは必ずしも言えないと思うが、上野さんが「ジェンダーフリーを死守せねば」というフェミニズムの主流派と意見を異にしていたことは確かだった。

しかし、その後、主流フェミニズムに対して批判的なわたしたちのスタンスはウェブで示しているように変わっていない一方、上野さんはその後メーリングリストを開設し、かつて「行政と結託している方の人たち」と呼んでいた方たちと共に集会を開いたり、それをまとめた『「ジェンダー」の危機を超える!』(青弓社)を共に刊行するなど行動を共にするようになっておられる。ジェンダーコロキアムに企画を出したことから、上野さんと同じ考えだと誤解される方もないとは思うが、明確にしておきたい。傍目には、上野さんは今や行政と連結した主流フェミニズムのリーダーとすら目されている状況にある。

しかし、今やフェミニズムは孤高の人ではなく、行政とも連動してやっていけるし、その考え方がベストセラーにもなるほど受け入れられている。この現状を真っ当に認識する必要があるのではないか。いつまでも自分たちを「少数派」や「弱者」の位置において安住しようとするのは、現状を読み違えている。もちろん、行政との連携ゆえに今の男女共同参画政策が意識啓発に偏ることも受け止め、本筋の性差別是正へと軌道修正すべきである。今の男女共同参画政策が意識啓発に偏るから右派の道徳重視派から反発を受けている部分が大きいのである。それをせずに、「バックラッシュ」を大義名分として持ち出し、内部批判を封じたり、スルーしたりするのでは、フェミニズムは先細りになるだけだ。いくら覇権を握っているのがシニア世代だからといって長生きできなくてもいいということにはならない。

私からの提案としては、批判を含めて内部の議論を活発にすること、メーリングリストや更新の少ないHPにとどまることなく、議論をウェブ時代に適応して拓いていくことをあげておきたい。あー、『女性の品格』には、インターネットは危険なので近寄らないのが女性の品格だといった趣旨のことが書いてあったんだ・・・。(2008-01-13 ジェンダーとメディア・ブログ・エントリー)

主流フェミの連帯誇示と権威発動の場としての「ジェンコロ」

執筆者: 山口智美

先日行われたジェンダーコロキアム(ジェンコロ)とWANの共催企画『新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美「男(の子)に生きる道はあるか?」』の一部だけを見た。ネット生中継時間帯は私が住むモンタナでは深夜だったし、後日アップロードされた動画を見ようとしてみたが、家の回線速度が遅いためか、5秒に一度のペースで画像が止まったりした。何とか頑張ってみたが、結局90分以上ある動画の43分時点まで見たところであきらめた。その段階ですでに「こんなに苦労してまで見るべきものではないのでは」という疑問がむくむくと頭をもたげていたのもある。

その43分間、ずっと気味が悪かったのが、妙な「内輪的なれ合い」の空気と、会場から聞こえる「笑い」だった。会場の聴衆が見えないため、その「笑い」の状況が見えないのが、余計に何ともいえず気持ちが悪い。だって、動画をみていて何一つとして「笑える」ところがないのだから。

43分しか見てないし、すでに内容については実際その場に行かれたtummygirlさんによる秀逸なエントリがでているので、この稿ではつっこんでは言及しない。ここでは、ジェンコロと私との関わりを振り返りつつ、今回のジェンコロでとくに顕著に見えてきたその権威性と問題点について考えてみようと思う。とくに、1)ジェンコロが内輪のネットワークの誇示の場になってしまっており、そのこと自体が権威となっていること、その中では多様性や異論といったものは排除されるだろうこと、2)「最先端」を代表しつつ、しかも同時に「一般」にも届くことをしているかのように装うことで、さらなる権威の発動をしようとしていること、3)そんな中、とくに今回の企画では、「男女共同参画」の世界でも主流になったような、「意識偏重」言説が垂れ流され、構造的な権力問題などが不問にされる場となっていること、といった問題点を感じた。そのことについて以下、ちょっと長くなるが、述べてみたい。

ジェンコロは、たしか上野さんがドイツの在外研究から帰ってきた後、97年くらいに始めたのではなかったかと思う。私は97年4月から98年3月まで、アメリカの院所属の学生として、上野ゼミに参加していたことがある。たしかこの時に、ジェンコロというのを始めるという話しを聞き、それが始まって私も何度か参加したのだったと覚えている。その頃のジェンコロは、夜の開催ということもあり、ゼミとは若干違う「開かれた場」ではあったが、いつ何のイベントがあるといった情報は私はゼミで仕入れていた気がする。基本的には、書評セッションであるとか、研究についてのトークであるとか、そんなイベントが多かった。 そのうちジェンコロの連絡MLができ、いまだにそのMLにははいりっぱなしの状態になっているので、だいたいどんなイベントが開かれてきたのかという感じはわかる。実際のジェンコロについては、97年〜99年に日本に調査のため滞在していた期間は時々行っていたが、その後アメリカに帰ってきて以来、この10年の間でせいぜい2−3回しか行っていないと思う。

そんな背景から、ジェンコロは 上野さんが主催している、MLでアナウンスがやってくる会、程度に認識していた。だが、最近「ジェンコロって何だ」的なつぶやきをtwitterなどで見かけるようになり、MLはあってもネットからは申し込みもできない状態であり、案内なども公的には出ない場合がほとんどであるということを知った。そして、おそらくその秘密主義っぽい状況のため、「ジェンコロなるものがあるらしい」「そこで何かアカデミックフェミニズムやジェンダー研究の世界で影響力があることが行われているようだ」的な「噂」になっているようだ、ということも。そして、ジェンコロというものが、一種の「権威」になっているのかも、ということにも改めて気づかされた。

思い出してみれば、ジェンコロによく来ていたのが、編集者だった。どうやらジェンコロが、本を出せるような研究プロジェクトを抱えている「若手」の研究者を発掘する場、として機能していたような節は当初からあった。比較的内輪のゼミ生が主に参加する研究発表の場、というだけの位置付けでは、当初からなくなっていたのだとは思う。 そして、「東大」という場の力もあり、上野さんの権威発動の場としても機能していった側面は否定できないだろう。ジェンコロで、スピーカーになるだけではなく、とりあえず参加しておかないと、主流アカデミックフェミニズムの流れから置いていかれるかもというように(少なくとも一部 では)捉えられるような場になっていったのかもしれない。実際、今回の「爆笑」セッションで明らかになったのは、最先端の情報を得るどころか、フェミニズムの本来流れから隔絶されかねない、ということだった気がするが、、

今回のジェンコロは、WANとの共催ということもあり、ジェンコロのMLのみならず、WANサイトでも、某秘密主義ジェンダー関係MLでも盛大に宣伝が流れていた。これほどまでに、大きく宣伝をうってでたジェンコロイベントは初めてだったのではないか。そして、ネット上で中継までし、録画配信までしている。「一般むけ」を狙った、興行的な企画だったといえる。

そこでふと考えてしまった。当初は、研究発表や書評セッションが主であり、興行的な企画をやってきたわけではなかったジェンコロだが、こういう企画をやっても成り立つ、動員もできるという認識ができたのは、もしや斉藤正美さんと私がもちこんだ企画の、 2004年12月の「ジェンダーフリー概念からみえる女性学・行政・女性運動の関係」の回がきっかけとなってしまったのか?と。もしかしたらマズい先例を作ってしまったのかと。

あの企画をジェンコロに持ち込んだ理由としては、二点ある。1)急に思いついた企画だったので、場所とりなどを考えるのが面倒だった。そこで、ジェンコロなら場所タダだし、なんとかなるだろうと思った。 2)当時の上野さんは、「ジェンダーフリー」概念を批判的にとらえていると思われる発言をしていたので(We誌2004年11月号における「ジェンダーフリーバッシングなんてこわくない」インタビュー記事が出て間もない時期だった)一度同じ場で、議論に巻き込んでみたかった。だが、今自省的に考えてみれば、上野さんのところで会を開くことで、自分たちの声が届きやすくなるのではないかと当時思ってしまったことは否定はできない。考えが足りなかったと自分でも思う。

この会については、Fem-netあたりのMLで宣伝が流れたかもしれないが(よく覚えていないが)それだけであり、積極的に宣伝もしなかった。斉藤さんと私も、来るのは上野ゼミの学生さんが主だろうと思い、少人数の勉強会的なものを想定していた。パネリストの中に富山の方がお二人いらしたことから、富山の運動関係者や上野さんのご友人が数名来るらしい、ということはわかっていたが、その程度だと思っていた。(正直いえば、富山からわざわざ聞くためだけに何人かがいらしたことにも驚いた。それも、東大や「上野千鶴子」の権威の影響があったのかと思わざるを得ない。)

話題がその頃にしてはタイムリーだったこともあるのだろう。ふたをあけてみたら、100人を超えるような人数が来てしまい、女性学者や女性運動のいわゆる「有名人」の姿もちらほら。もちろん編集者も数名来ていた。会場が狭く、椅子が足りなくなったりした。そこで初めて「東大」や「上野千鶴子」の名前の威力を感じ、怖いものを感じたのだった。もし、女性センターあたりで、上野さんなしで同じ会を開いていたなら、あんなに人は来なかったはずだ。

会の様子は当サイトにアップしてあるので、そちらをご参照いただきたい。考えてみれば、ジェンコロの様子がネットに詳細にレポートされた、という点では、この回が初めてだったのかもしれない。そもそもなぜネットにテープを起こしたものをアップすることになったか、といえば、かなり複雑な事情が絡んでいる。もともとあの会は、録音はとらない予定だったのだ。会場に対しても、録音はとらないでくださいということをアナウンスし、共催側であった斉藤さんと私もその取り決めに従い、録音はとらなかった。だが、後からなぜか『We』誌の編集者が、上野さんだけに了解をとったといって、録音をとっていたことが発覚。それに基づいてレポート記事を掲載するのだという。その原稿というのが送られてきたが、もちろんテープ起こしそのものではなく、上野さんのご発言と、『We』編集長氏のスタンスと近いと思われる発表者の発言ばかりが長大に引用されている、あまりに偏ったレポートになっていた。このイベントに参加しての、個人的な感想レポートならいい、でも、「録音しない」という取り決めがあったはずなのに、共催者の斉藤さんと私が知らない中で録音したというのがそもそもおかしいし、それに基づいたものを出版しようというのがますますおかしい。その録音テープ、企画者および共催者である私たちに渡してください、ということを主張し、結果としてテープはかえってきた。

録音テープがやってきて、『We』にはテープ起こしに基づいた原稿が載らないとなった時点で、偏った起こしではなく、事実どおりにそのまま起こしたものを、ウェブサイトに載せます、ということになったのだった。もともとネット上で盛大に詳細レポートを掲載する予定でもなかったが、成り行き上そういうことになってしまった、というのが実際の経緯だ。

だが、そのネットへのレポート掲載が、もしかしたら「ジェンコロ」というものが「権威」をもちうるイベントであり、ゼミ発表を超えた、興行的な企画をも行うことがある場、みたいなイメージをネットを介して高める一つの要素になってしまったのかも、と今になって思う。そして、今だったら、あの会をジェンコロでやろう、とは思わなかっただろうと。もちろん、あの時すぐに場所をご提供いただき、会を開かせていただいたことに関しては、上野さんに感謝はしている。だが、ジェンコロという場の「権威」性について、企画を持ち込んだときにはあまりにナイーブにも考えが足りていなかったと今は思う。それに加え、当時からくらべて、上野さんのスタンスが、明らかに変わった面があると思うこともある。

あの頃は、上野さんはアカデミックフェミニズムの世界では明らかに「主流」であり、大澤真理さんとの対談本などで行政の「男女共同参画」やら「ジェンダーフリー」にお墨付きを与えたりもしてきたが、それでもたまには「主流」的なものに異議を唱えることもある、という印象があった。だが、国分寺で2005年、上野さんの講演がバックラッシュのために断られたという事件以降は、上野さんはもはや完全な「主流派フェミ」としか思えなくなった。あれを機に運動の世界でも「主流」にはいってきて、「男女共同参画」や「ジェンダーフリー」への検証であるとか、フェミニズム運動の方向性の問題だとか、行政との関係であるとか、そういうあのときジェンコロで議論したはずの問題意識は、どこかに置いてきてしまったのかなという印象だ。WANのオープニング集会では、バックラッシュに対抗するためにつくったWANであり、「女の連帯」が重要だといった話しをしていた。「バックラッシュ」対抗のための「連帯」という概念の中で、異論がつぶされようとしている問題、「連帯」を唱える中で、権力が発動するやもという問題など、考えておられるようには聞こえなかった。そして、いまや「おひとりさま」でベストセラー作家状態である。ジェンコロ動画の冒頭から「売れる、売れない」にやたらこだわっていたことから、今度は資本主義的側面で本が売れるか売れないかということこそが大事、というような「主流」的な考えにになったのかなあと思った。

先日のジェンコロの、見えない聴衆の「笑い」から見えてくる内輪ノリかつ、その「内輪」ネットワークの誇示。 「シスターフッド」「女どうしの相互扶助」なるものへのノスタルジアをあえて打ち出し、「一般に通じる」ことこそが重要というメッセージを打ち出し、「オトコ」への慈愛に満ちた眼差しなるものも加えたわけだ。結果として「多様性」を排除し、かつ厳然として存在する権力関係や権威といったものを、一方では思い切り利用しつつ、もう一方ではうまく隠蔽しようとする、そういった場として機能しているのではないか。

トークの中で、澁谷さんは、東京経済大学で働くことで「男子」に届く言説を開発する必要性を感じ、それを実践したと述べられていたが、東京経済大学の学生さんたち=一般的な「男子」なのか?東京経済大学の学生さんたちの中の多様性はどこへいってしまったのか?そもそも、(どの授業でもいえることだが、とくに)あえてジェンダー論のクラスをとろうという学生さんたちは、「ヘテロ男子」ばかりではない可能性がかなり高いだろうに。このトークの中で、唯一「多様性」の要素として提示されたのは「世代」であり、ほかの多様性はないがごとくの扱いだった。そもそも、「一般」って何なんだろう?

アメリカで私がつとめている大学でも、卒業しても、 仕事をとるのは本当に厳しい状況に学生たちは遭遇している。そんな中、一介の大学教員である私が、「あなたたちを救う」なんて、私はおこがましくて言えない。個々に様々な事情を抱えているであろう「男子」学生らに対して、あなたたちの状況は何やっても変わらないんだから、「男らしさ」からおりれば楽になるよ、なんて、上から目線の単純なこと、しかも世の中の不均衡そのものを肯定するようなこと、とてもじゃないけど言えない。

そして、こういった「男らしさ」という「ジェンダー意識」への呪縛が最大の問題、といった言説は、「男女共同参画」がおしすすめてきた「意識偏重」の傾向ともあまりに重なる。その「意識偏重」の先には、「個々の意識のせいにすることで、社会そのものの権力関係や構造の問題を軽視し、隠蔽する」という大問題が見えてくる。そもそも、フェミニズムって「ジェンダー規範にとらわれる意識」だけを問題にするものではないだろうに。それより、社会構造、権力構造こそ問うてきたのではなかったのか。しかし、なんと行政による男女共同参画講座のみならず、主流アカデミックフェミニズムの「最先端」であると思われているらしいジェンコロでも、こうした言説が垂れ流されていたとは!

上野さんは、「蓋然性」なる言葉を連発し、「社会学者は滅多に無い事例をみても仕方ない、実証研究で一般性をみる」と繰り返していた。しかし、話しの中からでてきたことは、若干の取材もしたのかもしれないが、「経験則」という言葉を使いながら、ほとんどが自分の身の回りの世界での経験に基づいた印象論レベルのことだと思われた。これは、「実証研究」の意味を取り違えているとしか思えない。自分のまわりの世界がすべてなんだろうか?そもそも、大学教員が日常でみる世界って、ものすごく限定されているはずだ。私は社会学者ではないが、似たような「実証研究」的なことをする文化人類学者だ。「経験則」そのものを否定はしないが、調査にも基づかずに「経験則」だけで「一般的」にものが言えるみたいな発言もあまりにヘンだと思うし、「蓋然性」をみるからそのパターンにはまらないものは見る必要がない、といったような発言になると、もう根本から方向性が違うと思わざるを得ない。 そして、「一般むけ」「爆笑」企画と銘打ったイベントで「蓋然性」「経験則」などといったジャーゴン的な言葉をちらちらまぶし粉飾することで「専門家」としての権威を高め、煙に巻こう、説得力(?)を高めようという狙いも見え隠れする。しかし、普通に考えてみたら、説得力ゼロだ。パーソンズの時代じゃあるまいし、社会学って「蓋然性」や「一般化」をそんなに過剰に重要視する学問ではないと思っていたのだが。むしろ、マイノリティの声や抵抗、変化の兆しを掬いあげるのが社会学であり、フェミニズムの重要な側面ではなかったのか。

そんな議論がなされる中で、「ヘテロ中流階級都市部住民」などの、「一般」と定義されているらしい人たち以外で、おそらくその場の会話に「笑えない」であろう人たちは排除される。また、「女の相互扶助」をノスタルジックに語り、理想化するあまり、「女性」間で存在している権力関係は「ないもの」かのように語られる。そして、WANで現在進行形で起きている労働争議だって「ないもの」として扱われるということになる。 (ミヤマアキラさんのエントリ中で、WAN争議に関して見事に書かれています。)この現実離れぶりはどうしたことだろう。

ジェンコロは「主流派フェミ」の「連帯」を誇示する場として権威をもってしまったように思う。そして、それがアカデミックフェミニズムだけではなく、「一般」へも、東大で、またネットでも今回、誇示されたということだ 。「連帯」の誇示の裏には、「多様性」の拒絶がある。そして、「個々人の意識」ばかりに焦点を当てることで、構造的な権力問題を隠蔽する。そういったことが、ジェンコロという「権威」をもった場で行われ、いかにもアカデミックフェミニズムの最先端であるかように提示されたのは、衝撃としかいいようがない。

もし、斉藤さんや私が企画したセッションが、今回のジェンコロ企画のきっかけづくりを行ってしまったとしたら、と思うと、正直いって忸怩たる思いだ。もちろん、それだけがこの権威主義的なありかたの原因ではないだろうが、、、それにしても、あの「ジェンダーフリー」をめぐる企画のためにジェンコロを選んだことは、今となっては自己批判すべきだと思っている。そんな思いがあり、「ジェンダーフリー概念からみえてくる女性学・行政・女性運動の関係」レポートを掲載している当サイトに、この文を書いた。