『社会運動の戸惑い』読後感想文 (鴨野守)

この本を読みながら思い出した本がある。沢木耕太郎のノンフィクション『テロルの決算』である。

昭和三十五年十月十二日、当時社会党の委員長だった浅沼稲次郎が、日比谷公会堂における三党首演説会での演説の最中に、十七歳の少年山口二矢に襲撃され、腹部を刺されて死亡した事件だ。沢木は、やがて被害者・加害者となる二人の生い立ちから始まり、日比谷公会堂での「接点」までを克明に再現していく。読みながら、その手法の見事さに驚嘆した。

「社会運動の戸惑い」は、学術書でありながら、そのようなフェミニズム推進派と反対派の双方に丹念に取材を重ねて、一人一人の生の言葉を拾いながら、その思想と行動を浮き彫りにしながら、「対立」のストーリーを描きつつ、分析を加えており興味深い。フェミニズムにまつわる動きを報じるもので、このようなアプローチは初めてみた。

ただ、残念な点がある。日本時事評論の山口氏、大阪の北川さん、富山の鴨野などについて、ヒューマンヒストリーが描かれて随分と親しみを抱く部分があるのだが、そのような描写が、登場するフェミニストの紹介に欠落しているのだ。

大沢真理氏、上野千鶴子氏などのヒストリーが読めたら、なぜ、彼女らがフェミニズム運動に身を投じたかが分かれば、随分と深みが加わったのではないのだろうか。

住田弁護士の講演録を読んだことがあるが、学生時代、男性には多くの企業から募集が殺到していたが、女性にはほとんどなくて、いつか男たちを見返してやろう、と思ったという内容の話だった。そのような体験はやがて思想の骨格となる。樋口恵子さんらもそのような体験の持ち主と記憶しているが、大沢真理氏などはどうなのだろう。どちらかと言えば、筆者ら(山口、斉藤、荻上)は思想的立ち位置の近い側の人たちの取材に苦労したのであろうか。それとも、「近い」ゆえの警戒心や反発があったのか、少し気になるところだ。

今一つ、読みながら気になったのは、運動家と非運動家(知識人)との境界線である。

私などは、ジャーナリストとして、男女共同参画問題に関与したという自覚はあるが、この動きを反対する運動をしたという気持ちはない。しかし、私もまた「バックラッシャー」とくくられるのならば、これは「運動家」という理解で見らえているということなのか。フェミの学者たちは、運動家という意識なのか、それとも純粋な学者としての範囲内で行動しているのか。そのあたりも、もう少し踏み込んで書いても面白かったのではないかと感じた。

ただ、こうした細かな注文を付けたからと言って、この本の評価を貶めるものではない。学術的な問題意識を失うことなく、随分と果敢に「怖い」取材対象にぶつかっていき、信頼関係を構築しながら、ひとつの入り乱れたストーリーを散漫にならずに整理してまとめられた筆者の方々の情熱に惜しみない敬意を捧げたい。お疲れ様でした。

鴨野 守

2012年12月18日