執筆者:マサキチトセ
前回「『ジェンダーフリー』ではなく『男女平等』だ」と言うことの危険性」に書いたように、「ジェンダーフリー」概念を擁護する言説と「ジェンダーフリー」は有効ではないからきちんとフェミニズムの根本的問題に戻るべきだとする言説が、両方ともある種の罠にはまってしまってきたのが現状だ。というのも、「罠」はもちろんジェンダーフリー・バッシングが問題設定を「男女平等」「LGBTの権利獲得」「性の二元的慣習からの脱却」「教育におけるマイノリティに関する試み」など全ての論点をひっくるめて「ジェンダーフリー」として、そのうち特にクィアなもの、すなわち「同性愛・両性愛」に関する部分や「トランス」的な部分というものを攻撃することで同時に、「男女平等」という現代では反対する声を挙げづらいところにまで範囲を広げてバッシング可能にするような言説を作って来たことを意味する。そして少なからぬフェミニストがそれに対して反論を試みて来たが、それは前述の通り「ジェンダーフリーはこれこれこういうものなんだ」という形で「誤解を解く」ことでジェンダーフリー概念を擁護しようとする動き、そして逆に「ジェンダーフリーというのは結局のところ『男女平等』の言い換えに過ぎないのだから、『男女平等』に戻せばいい」という言説を作ろうとする動きの両方のパターンに陥って来た。
バックラッシュ言説が(恐らく意図的にではなく)かけたこの「罠」に同性愛嫌悪やトランス嫌悪をはじめとする「クィア蔑視」が強烈に入り込んでいたことは一目瞭然だ。しかしそれに対する一部のフェミニストからの応答は、そのクィア蔑視的な土俵の罠にまんまとはまることで、実質クィア(クィアな人であり、同時に、クィア的なもの)を排除するものだった(例えば『バックラッシュ!』所収インタビューでの上野千鶴子さんの意見)。バックラッシュ言説からの攻撃に対して、無難な「男女平等」論(あるいは無難な「ジェンダーフリー」)以外をフェミニズムから取り外し「それはフェミニズムではなく、あちらのクィアな人たちに向かってやってください」と土俵の外を指差し続けることによって、バックラッシュによる攻撃の大部分を避けてしまったのだ。言うなれば、これは「おいジェンダーフリー(同性愛奨励、男女同室着替え推進、男女平等推進、 etc.)、かかってこいよ」という怒号に対してフェミニズムが果敢に立ち向かった土俵ではなく、クィアを蔑視する人たちが一緒になって「あれって嫌よね」「そうよね、クィアって言うんですって」「理解できないわ」とクスクス言い合いながら、無難な「男女平等」論(あるいは無難な「ジェンダーフリー」)についてのみたまに言い争いになる(そのときもまた、「だってお前らは同性愛を奨励してるじゃないか」「してないわよ!」みたいなやり取り)だけの土俵になってしまったのだ。
そうして罠にはまったフェミニストは、「誤解を解く」アプローチと「男女平等に戻す」アプローチのどちらを採用した場合も、「フェミニズム」の射程を狭めることになってしまった。それは、意図的ではないにしても少なくとも効果的には、「クィア外し」というかたちを取って行われたのだ。
このような状況について具体的に問題提起をしているブロガーとして tummygirl さんを前回取り上げたが、「取り上げるならそのエントリよりもこっちのエントリでしょ」という突っ込みを頂き、実際に読んでみたら確かに素晴らしいエントリだったので、良エントリ紹介としてここに載せる。また、この文章での tummygirl さんの批判の一部は当サイトにも当てはまる。だからボクたち『歴史と理論』サイトの関係者は tummygirl さんの批判についてどのように応答出来るのかを考えなければいけないし、きちんと応答出来ないのならばボクたち1 もまた「罠」にはまっているということだろう。
以下、例のごとく抜粋する。 tummygirl さんの他のエントリや、他の人のエントリも少しだけ下の方に紹介している。ちなみに見出しには、 tummygirl さんのエントリのタイトルをそのまま使っている。
「ジェンダーフリーは性差の否定を否定するべきか。」
わたくしは今でも自分ではジェンダーフリーという言葉は使わない。けれども、狭い意味での「男女平等」の達成に加えて、「男らしさ、女らしさ」の概念や男女を自明の前提とする「性別」の概念の問い直しをもその射程に入れるような一連の試みに名前を与え、しかもその全体にタテマエ上であれいわば公的な承認をとりつけるという目的で、一つの用語を採用・使用しようという戦略があったとすれば、それは理解できる。もっとも政府に近い立場で「ジェンダーフリー」という用語を採用した大澤真理氏も、この用語にそのような役割を期待していたように思える。そして、実際にそういう方向で「ジェンダーフリー」が使われてきたのであれば、それはこの用語がその目的の一端を果たしてきたということだ。学術的にこの用語が曖昧であろうと、それが和製英語であろうとそうでなかろうと、「もともとの」意味がどういうものであろうと、「ジェンダーフリー」という用語が役に立つならばどんどん使えば良い。
もちろん、多くの人々が指摘しているように、女性差別的な制度や構造の解体あるいは改善(狭い意味での男女平等)に向けた努力も、「らしさの押し付け」への批判も、「男/女らしさとは何か」という問題提起も、「ジェンダーフリー」導入以前から、この用語とは無関係に行われ、一定の成果をあげてきた。それに加えて、ジェンダー/クィア研究に従事する研究者から、あるいはLGBTのアクティビストから、<男>と<女>とを自明の前提とする性別のあり方それ自体の問い直しの試みも、確実に進められてきていた。これらの多様な試みは「ジェンダーフリー」という用語によって可能になったり開始されたりしたものではなく、むしろこれらの試みを幅広く指し示しうる用語として、そしてさらにそれらの試みが社会的・制度的な後押しを得るための手段の一つとして、「ジェンダーフリー」という用語が使用されたという方が、正しいだろうと思う。
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「ジェンダーフリー」が狭い意味での「男女平等」を超える射程を持っているというまさにその点が、非規範的なジェンダーやセクシュアリティへのフォビアを煽る形で(「ジェンダーフリーは人間を中性化する/性同一性障害を生み出す/同性愛者・バイセクシュアルを生み出す」)、「ジェンダーフリー」総体に対する攻撃を容易にしてきた。
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重要なのは、「男女平等への反対を表明する」ことが少なくともタテマエとしては駄目なことになっていたのに対して、非規範的なジェンダーやセクシュアリティへのフォビアはより強固に存在していたし表明しても良いものだと考えられており、したがってそれがもっとも攻撃しやすい、もっとも容易なターゲットになったということだ。そして、「ジェンダーフリー」が多様な試みを包括的に示しうるある種必然的にあいまいな用語であったことで、もっとも感情的な拒否反応を引き起こしやすい試みを通じて、既により広範に受け入れられていたはずの試みをもまとめて攻撃することが、可能になってしまった。
このような状況のもとで組み立てられようとしている「ジェンダーフリー・バッシング」への対抗言説の一つ一つにおいて、それが「ジェンダーフリー」の歴史的役割を肯定しているにせよ批判しているにせよ、「ジェンダーフリー」の概念なり用法なりをどのように規定しなおしているのか、望ましいフェミニズムの(あるいは場合によっては「ジェンダーフリー」の)あり方をどう表現しているのかを見ることはできるし、そしてそれらの規定や表現がどのような効果を持ちうるのかを考えることはできる
[…]
ネットやML上でよく見かける「ジェンダーフリー・バッシング」への対抗言説は、大きく二種類に分かれる。
一つは、「ジェンダーフリー」という用語の使用それ自体に誤りがあったのではないかとして、「ジェンダーフリー」ではなく「男女平等」「性差別撤廃」をこそ、フェミニズムの目標として確認しなおそうとするもの。ジェンダーコロキアム報告での基本的論調はこれにあたる。
もう一つは、「ジェンダーフリー」と言う用語とその使用をめぐって、都市伝説的な無根拠の噂が飛び交っている現状に対して極力正確な情報を示すことで、とりあえずこの用語に対する感情的なバッシングを沈静化させようとするもの。成城トランスカレッジ!さんの「ジェンダーフリーとは」はその代表的な一つにあたるだろう。
「ジェンダーフリーが何を意味しているのか、とりあえずそのくらいちゃんと理解してから話をしよう」という系統の議論については、意図はよく分かるし重要な作業だとも思うから、その作業自体には全く異論はない。けれどもその過程で、バッシングを沈静化しやすい方向で「ジェンダーフリーが何を意味しているのか」の定義が少しずつ狭められてしまう傾向があるような気がしている。
ジェンダーフリーは男・女が「こうあるべき」と決め付ける規範を押し付けないことを意味するという部分は、そのまま上述した「<男らしさ><女らしさ>に反対するのではなく、その押し付けに反対する」という言い方につながる。規範を押し付けないことを目指す、それ自体はまったくもって結構なことに聞こえる。けれどもよく考えれば、「規範」というのはその定義からして「押し付け」られるものではないのだろうか。規範とは、法律あるいは学校や会社という組織の規則による強要を指すわけではない。「これこれの性質が男にふさわしく、男においてより望ましい、従って翻ってこれこれの性質を持たない場合には、本当の意味での男にふさわしくない、男としては十分ではない」というところまでを含意するのが「らしさ」という言葉であり、そのメッセージをたえず投げかけ続けることによって、やんわりと、しかし確実に、特定のジェンダーのあり方を承認し、別のあり方を否定する、それが「男らしさ/女らしさ」の「らしさ」という規範ではないのか。したがって、規範それ自体に疑いと批判を向け、規範の規範としての地位を突き崩していかない限り、「男はこうあるべき・・・女はこうあるべき・・・と決め付ける規範」は、押し付けられ続けるはずではないのだろうか。
だいたい、「らしさを否定する」という表現が非常に曖昧だ。「男らしさ/女らしさ」という区分法、あるいは「男らしい性質・女らしい性質」というカテゴリーが、現在の日本の社会や文化において存在するとは考えない、ということであれば、そもそもそのような区分法やカテゴリーが存在すると考えるからこそフェミニズムはそれを「批判」してきたのであって、「ジェンダーフリーは男らしさ/女らしさを否定する」というのは正しくない。ある特定の人が「あれは男らしい性質、これは男らしい性質」と考えることに関しても同様で、フェミニズムはそのような考え方を「批判」するかもしれないが、その人がそう考えているという事実を「否定」はできない。けれども他方で、「男らしさ/女らしさという区分、あるいは男らしい性質/女らしい性質が、人間の主観や社会的・文化的影響あるいはバイアスとは無関係に厳然として客観的に存在するとは考えない」ということを「らしさを否定する」と呼ぶのであれば、フェミニズムの多様な試みを包括的に指し示す用語としてのジェンダーフリーが、「男らしさ/女らしさを否定する(あるいはそのような発想を内包する)」というのは、正しい。
だとすれば、ジェンダーフリーを正確に定義しようとして「ジェンダーフリーはらしさを否定しない」と強調することは、この用語に託されたそもそもの使命(フェミニズムの多様な試みを包括的に指し示す)を裏切ることにならないだろうか。ましてや、「ジェンダーフリー」をフェミニズムの試みの一環として擁護しようというのであれば、「らしさを全否定する」という批判に対しては、否定するともしないとも言わないのでも、否定を否定することによってあたかも肯定しているかのような印象をつくりだすのでもなく、「男らしさ/女らしさ」という言葉が「男にふさわしい/女にふさわしい」という意味を持つ限りそれを批判すると、明確に言うべきではないのか。
同様のことが、「ジェンダーフリーは性差を否定しない」という表現にも当てはまる。勿論、ジェンダーフリーは「性差」の概念の存在を否定することはないだろうし、現在の社会において「男性」と「女性」というカテゴリーが存在し、その両者の間に厳然として差異なり権力的不均衡なりが存在することも、否定しないだろう。しかし同時にたとえば、男性と女性とがどのように違うかはあらかじめ決まっているとか、「誰が女性で誰が男性なのか」というカテゴリーの境界線が変えようのないものであるとか、あるいは男性と女性という二つ以外には「性」は存在し得ないとか、そういった考え方を「否定する」あるいは「批判する」フェミニズムは確かに存在してきた。「性差を否定しない」という表現は、少なくともあらかじめそのような試みを排除したものとしてジェンダーフリーを定義しなおすことになるだろう。
「ジェンダーフリー」という用語に対するバッシングを回避し、この用語をとりあえず保持する方向で再定義が行われる場合、それは逆に、新たな定義(たとえば「性差を否定しない」「らしさを否定しない」)によって排除された領域を、とりあえずは保持する必要がなく感情的な攻撃にあっても仕方がない、それほど重要でも真っ当でもないことがらとして、定義することになる。
逆に、「ジェンダーフリー」という用語およびその果たしてきた役割を批判し、フェミニズムの目標をジェンダーフリーとは別に確認しなおそうという方向で再定義が行われるとしたら、その場合には「フェミニズムの目標」の定義が問題になる。たとえば、「ジェンダーフリーはフェミニズムの試みを包括的に指し示しうる用語ではなく、フェミニズムには他の射程がありうる」という方向をとるとしよう。この場合には「ジェンダーフリー」という用語が持ちえた可能性を(つまり、漠然と全体を指し示す用語を利用することで、フェミニズムの幅広い試みに対して社会的・制度的な後押しを得やすくすること)完全に捨て去るということになるけれど、まあ、捨て去るまでもなく既にその可能性がなくなっているという気はするし、わたくしはそのような「フェミニズム」の捉え方自体には異論はない。けれども、「ジェンダーフリーはフェミニズムの試みを包括的に指し示しうる用語ではなく、そもそもフェミニズムにはもっと重要な目標がある」という方向で再定義が行われ、そしてその「もっと重要な目標」が「男女平等」「性差別撤廃」と言い換えられてしまう場合、あるいは「ジェンダーフリーとは要するに男女平等、性差別撤廃を目指すものだ」と定義されてしまう場合には、わたくしはそれに賛成することはできない。
気になるのは、ここでもまた上野氏が「ジェンダーということばを使って話すこと」として「女性差別と男女平等」のみを念頭においているかのように聞こえる点なのだ。けれども上で述べたように、そもそも「ジェンダーフリー」は、男女平等に限らずフェミニズムの幅広い試みを包括的に指し示しうる用語としてこそ戦略的な意味もあったし、実際にそのような方向で使われてきたという過程もある。それをいまさら「男女平等」と言い換えてどうしようというのだろうか。もちろん、「男女平等」は当然に達成されるべきフェミニズムの重要な課題の一つではあり、「ジェンダーフリー・バッシング」を通じてそもそも「男女平等」の軸においてフェミニズムが達成してきた成果すらもあらためて攻撃の対象になっていることに対しては、真剣に対処策を考えるべきだろう。しかし、その対処策が「男女平等の原点に立ち返れ」で良いのだろうか。「男女平等」にはおさまらない視線の広がりは、「ジェンダーフリー」という不可解な用語がもたらし、あるいは後押ししてきたものの中でも、将来に確かにつなげるべき重要なポイントであったはずだ。その広がりを期待させておいて、いまさら「男女平等」こそが重要だというところに回収させ、もっともバッシングを受けやすい部分、ホモフォビアやトランスフォビアに直結する部分を不可視化させて、「男女平等」なり「フェミニズム」なりを守るのでは、羊頭狗肉も良いところだし、詐欺みたいなものだ。
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別にジェンダーフリーという用語を守れと言っているわけではないし、男女平等という目標が過去のものだと言っているのでもない。その用語を使うのが嫌なら使わなければ良い。男女平等、あるいは女性差別撤廃に焦点を絞りって話をしたり活動をしたりしたければ、そうすれば良い。ジェンダーフリーという造語が曖昧で日常言語ではないと思うのならば、「性差別反対」と言っても良い。けれども、ジェンダーフリーという用語を使わない理由、使わないでも良い理由を述べる過程で、あるいは「男女平等」の目標を再確認する過程で、フェミニズムが語るべきこと、対処すべきことの射程をわざわざ縮小する必要はないはずだ。「性差別」について語るべきだというときに、セクシュアリティにかかわる差別やトランスフォビアの問題を切り捨てて、わざわざそれを「女性差別」や「男女平等」の問題として言い換える必用もないはずだ。それでは、バッシングに対抗しようとするあまり、フェミニズムがもともと取り組みうる、そして実際に取り組もうとしていた多様な試みの一環を、こちらからすすんで「より擁護の必要に値しないもの」として切り捨てるのと同じことだ。
バッシングに抵抗する目的で、より攻撃や「誤解」を受けやすい領域をあたかも「男女平等」の達成後にゆっくり取り組めば良い二次的な問題であるかのようにとりあえず棚上げして、「ジェンダーフリー」なり「フェミニズム」なりの定義から消し去ってしまうことがあってはならない。わたくしはフェミニズムがアカデミアに限られるとは全く考えないけれども、少なくとも、女性学なりフェミニズムなりジェンダー論なりの研究者がバッシングへの対応に追われてそのような消し去りに加担するとしたら、それはアカデミックなフェミニズム、あるいはジェンダー論に対する裏切りだと思うし、それより何より、アカデミックなフェミニズムやジェンダー論の側における、フェミニズムに対する、あるいはフェミニズムと共存しようとしてきたLGBTの活動に対する、裏切りだと思う。その点で、たとえば女性学会の『Q&A』、あるいはジェンダーコロキアムの上野氏の発言には、それが日本のアカデミアにおいてはそれなりの権威と影響力を持ちうるだけに、この業界で生きていこうとしている人間として強い違和感を覚える。
「「女性学」の議論と実感」
たとえば、わたくしにとって現在もっとも関心もあり利害関係もあるテーマは、ジェンダー規範の下で非規範的な身体や性がどう生き延びるかということであり、それは具体的・日常的レベルでは、ジェンダー・セクシュアルマイノリティが直面させられている諸問題をどう考え、それにどう対処するかということに、かかわっています。
このようなわたくしの立場から見ると、「ジェンダーフリーは要するに男女平等だ。女性差別撤廃だ。」という論調は、ちょっと困ります。「ジェンダーフリー」には問題もあるでしょうし、これまでのところ、実際にプラスよりもマイナスの機能の方が大きかったかもしれないけれども、少なくとも理念上は、ジェンダーマイノリティ、セクシュアルマイノリティの直面する問題をすくいとる可能性を持った部分を、持っていました。「ジェンダーフリー」を「男女平等、女性差別反対」に戻してしまう論調を上野さんのようないわゆる「大御所」が引っ張るという構図は、そのような部分を切り捨て、とりあえずより分かりやすい「女性」の問題だけにターゲットを絞ってしまうという点で、悪い意味で「主流女性学的」だとわたくしには思えます。discourさんも参加なさっているジェンダー・コロキアムが「わたくしの立場からは主流女性学に見える」と申し上げたのは、そういう意味です。
繰り返しになりますが、わたくしがこういう例を挙げるのは、「こっちの方がもっと傍流、もっとマイノリティ」という「傍流あらそい」をしたいからではありません。discourさんやyamtomさんの御立場から見て、「ジェンダーとかジェンダーフリーだとかの小難しい定義に時間を費やして」、より火急の問題に取り組めなくなることをご批判なさるのは、良くわかります。けれども同時に、わたくしの立場から見ると、「ジェンダーフリー」をめぐる定義の問題(要するにそれを「男女平等で置き換えられる」と言うか言わないか、といったことですけれども)というのは、現実に望ましくない効果をもたらす可能性をはらむ事柄であり、日常レベルでの実感や運動にかかわることであって、どうしてそこを「主流女性学」がちゃんと考えてくれないのかなあ、と感じるわけです。
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注:ここで「主流女性学」と呼ばれているものについては、斉藤さん (discour) と tummygirl さんによる議論の中で出て来ている言葉です。文脈がありますので、お二人のやり取りをご覧になった上で「主流女性学」という言葉の意味を解釈してください。
「性別にとらわれずに自分らしく」というのは、それが「誕生時に法的に割り当てられた性別にとらわれることなく」ということであれば、ジェンダー・マイノリティの一部の人にとっては、「寝ぼけたこと」どころか就職から日常生活の細部にまで及ぶ重要事であり、そういう「寝ぼけたこと」を言わないような女性学は、それこそ実感と乖離した「寝ぼけた」ものだと感じられるかもしれないわけです。
「ジェンダーフリーの定義」の問題は、「女性学」がたとえばそのような非婚カップルの「実感」にどう対応するつもりなのか、ということを指し示す、それなりに重要な問題なのです。
id:discourさんへのお返事
ごめんなさい、これはほぼ全文転載です。全て重要な指摘ですので。
「男女平等」を唱える方たちに必ずしもセクシュアル/ジェンダーマイノリティを排除する意図がないのは、了解しています。場合によっては、「男女平等」の名目を立て、その範疇での具体的な行動において、セクシュアル/ジェンダーマイノリティへの差別に対応していく、という方法が有効だろうということも、理解できます。
ただ、それでも今の時点で「ジェンダーフリーを男女平等と言い換える」ことについては、わたくしはやはり原則的には賛成できません。「女性差別撤廃」についてはなおさらのこと、「性差別撤廃」というべきではないかと思っています。日本語の「性」という言葉のある種の曖昧さは、「ジェンダー」「セクシュアリティ」などのそれなりに学問的に意味が定まりつつある用語よりも、時と場合によっては使い勝手がいいな、と、こういう時には思うわけですが<話がそれまくり。
理由としては、第一に、いわゆる「バックラッシュ派」なり「アンチ・ジェンダーフリー派」が、一番叩きやすいと感じているらしい、そして事実何かにつけて「ジェンダーフリーの恐怖」として持ち出してきているポイントが、セクシュアル/ジェンダーマイノリティに関係する部分だからです。ジェンダーフリーが「同性愛を認める」「同性愛/両性愛を作り出す・推奨する」「男女別のトイレや更衣室に反対する」などなど。
もちろん、これらの主張のうち、最初のものは「それのどこがいけないの?」であり、二番目のものは全く根拠がなく(同時に「どこがいけないの?」でもありますが)、最後のものについては、わたくしは個人的には「男女別のトイレや更衣室が<当たり前>であるようなあり方は考え直すべき」とは思いますけれども、それは一般にジェンダーフリーの名の下に主張されていることではないし、そもそも「反対する」というのは余りに大雑把です(「男女別のトイレや更衣室を考え直すべき」ということと、「男女別のものを全部廃止すべき」ということとは、全く違いますから)。
けれども、そのような言い方が現状において一定の「脅し効果」を持っているらしいことは事実であり、それに対して、「叩きにくい」部分である「男女平等」を持ち出すことは、確かに例えば個々の女性センターの運営や行政との折衝の内部において有効な場合はあるかもしれませんが、少なくとも「女性学」、あるいはフェミニズムという「学問」としては、卑怯だと、わたくしは思います。
もう一つの理由としては、「男女平等」が実質的に「ジェンダーマイノリティ」の問題への取り組みを排除するものではない、というのは確かだとしても、あくまでも名目的には「オトコ」と「オンナ」との平等について語っているわけで、実質的に排除するわけではないのだからそれでよしとしろというのは、マジョリティの傲慢ではないか、ということがあります。伝統的なフェミの例で言えば、「彼ら」という日本語は男女ともに含むことになっているけれども、あえて「彼ら/彼女ら」と書こうとか、英語で言えば一般人称のone 受ける代名詞は伝統的にはheであり、それは必ずしもそのpersonが女性であることを排除はしなかったけれども、やはりそこはhe/sheとかtheyで受けようよ、と変わって行ったとか、そういうことと同じだと思うのです。
勿論、そういう「呼称」が変わったからといって実質が変わるわけではないし、時には呼称よりも実質が重要であって「とりあえずは」呼称なんて二の次でいいや、という判断は、ありえます。ただその判断はあくまでもマイノリティ側がするものであって、マジョリティ側が「実質は排除していないのだから文句は言うな」というのは、ちょっと違うように思います。
ただし、これは「男女平等を使うな」とか、「ジェンダーフリーを使え」とか言うことではありません。「男女平等」こそが問題になる場合というのは、具体的な事例においては勿論あります。セクシュアル・マイノリティーの内部だって「男女平等」は達成されていないわけだし、そういう場合には「男女平等こそ」主張すべきだということさえあるでしょう。「ジェンダーフリー」にしても、discourさんが従来主張していらっしゃるような、行政との関わり方の問題というのは非常に説得力のある、重要なテーマだと思いますし、「今あるからそのまま必ずこれを使え」ということでは勿論ありません。実際にわたくしは行政が「ジェンダーフリー」に「乗った」のは、「男女平等」が怖かったからではないかという疑いを捨て切れませんし。ただ、それでも「ジェンダーフリー」が「男女平等」では前面に出しにくかった一連の主張を容易にする可能性を持っている以上、「ジェンダーフリーは男女平等で言い換えられます」と、一般論として「女性学」が主張するのは、納得がいかない、ということです。
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ひびのまことさんのエントリ
- クリックして開いたら、下にスクロールして「【「ジェンダー・フリー」についての上野さんの意見】」というところから読んで下さい
LGBTIAQへの差別を問題化するためには、「男女平等」は前提として踏まえるべき論点(だから例えば、自身の男性中心主義に鈍感な一部のゲイ活動家の言説は批判されるべき)ですが、「男女平等」だけでは例えば同性関係嫌悪(ホモフォビア)や性別二元主義、性愛強制主義の問題点を問うことができません。
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また、「男らしさ」「女らしさ」の強制の問題は、例えば「典型的な男」ではないゲイ男性やバイセクシュアル男性の問題でもありますし、トランスジェンダーは毎日「らしさ」の強制と向きあわされています。「ジェンダー・フリー」の運動と認識は、そのもともとの出自を越えて、女性差別や男女平等だけではなく、同性関係嫌悪や性別二元主義をも問う射程を現実に持ってしまっています。
言い換えると、「性(別)に関わる差別と権力関係」には、男性中心主義だけでなく、異性愛中心主義や性別二元主義、そして性愛強制主義といった様々な問題があることが、今では明らかになっています。バッシング派は、これらのどれか一つだけを攻撃しているのではなく、まさにこれら全てを問題にし、攻撃をしてきています。この状況の中で、焦点を「男女平等」だけに絞るということが、本当にバッシング派への反撃になるとは思えません。
最後にコメント
斉藤正美さんがご自身のブログでものすごくシンプルに「ジェンダーフリー」という概念の使い方の問題点を挙げている。
「(ジェンダーフリーを使うことの)問題は2点。一つは、抵抗の多い言葉を避けて無難であいまいな言葉に逃げたこと。第二は、あいまいな言葉であるゆえに、「性差」に焦点をあて批判されるなど保守派につけいるすきを与えたことだ。」
(もちろん斉藤さんはこの他にもものすごい量の文章を書いていて、すごく重要な指摘がいっぱいあるので、このものすごく短い引用文だけで斉藤さんの主張が全部分かるというわけではありません)
斉藤さんがこの文章を書いたとき(2004年10月)に「ジェンダーフリー」を巡る議論がどのようだったのかは分からないが、2009年になった今、これまで「ジェンダーフリー」という考え方が「保守派につけい」られて来た結果として、今度は「男女平等」に比べて「ジェンダーフリー」という言葉の方が「抵抗の多い言葉」になってしまっている現状を考える必要がある2 。つまり「ジェンダーフリー」という言葉を使わないことが、むしろ「抵抗の多い言葉を避けて」いることになるのではないかという懸念だ。
そもそも「ジェンダーフリー」という概念が出て来た歴史を振り返ると3 、「ジェンダーフリー」という概念が出て来た背景には、行政・学者主導型のフェミニズムが様々な女性運動の実践の犠牲を伴う形でで成り立っていたことがある。そしてその普及の仕方には、バックラッシュを誘発する要素があった。それ故に抵抗も大きかったのだろうし、それを理由に「ジェンダーフリー」概念の歴史を否定的に捉えることは理解可能なことだし、むしろ正しいとボクは思う。しかし「ほら、バックラッシュ言説につけいられてしまったじゃないか」と言って「わたしたちにはもっと大事なことがある」と言うことは、フェミニズムの「本来取り扱うべき問題」を再定義する実践としての効果を持つ。たとえば、バックラッシュ言説による「『性差』に焦点を当て」た批判に対するフェミニストの対応の中に、「性差」の問題を棚上げにする動きがあったのではないか(=男女というジェンダー体制そのものを疑うという作業をフェミニズムの外部に追いやる動きがあったのではないか)ということは、考える必要があるだろう。
そのためにも、「ジェンダーフリー」という言葉とそれに伴う実践が過去のフェミニズム及びそれが受けて来た挑戦などの歴史の蓄積の上に成り立つものであったという事実、すなわち「ジェンダーフリー」概念の中にはそれまで「男女平等」などを掲げている中で行われて来た実践・教訓が(ジェンダーフリーを推進した人たちに共有されていた認識かどうかは置いておいて)多く含まれており、だからこそ「男女平等」への回帰の中でその中にある一部を「外していい部分」とみなすのは危険だという tummygirl さんによる指摘は重要だ。「ジェンダーフリー」という言葉には様々な問題がある。人によっては「ジェンダーフリー」を擁護しなければいけないと思うかもしれないし、「ジェンダーフリー」などやめて違うものを打ち出そうとする人もいるだろう。しかし「ジェンダーフリー」をぐにゃぐにゃに骨抜きにすること4 、あるいは何か他の言葉で言い換えようとすることには、「クィア外し」の実践を伴う危険があるし、事実これまでそのような言説実践が行われて来たことは注意しなければならないことだ。
脚注
- そもそもこのサイトは何か同じ意見を持った人たちの集団ではないし、それぞれの立場で発言をしているのだけれど、それでもこのサイトの制作・公開・充実化・普及などに関わっている者としては関係者がみな考えるべきことだと思う。もちろんそれは、ボク自身を含めて。
- たとえそれがそもそも初めの段階から過去のフェミニズム・女性運動の遺産を受け継がない行政・学者主導型のものであったとしても、「ジェンダーフリー」という言葉には無難な狭い意味での「男女平等」の射程を超える可能性があった。だからこそバックラッシュ言説においてはその「クィア」性あるいは「クィア」な可能性というものが叩かれたのだ。
- 『バックラッシュ!』における山口智美論文「「ジェンダー・フリー」論争とフェミニズム運動の失われた10年」に詳しい。
- それにしても「男女平等」だって抵抗が大きいことはもちろんそうで、実際に「ジェンダーフリー」って言葉が出て来て行政においても一度採用されたのは「男女平等」という言葉を使うことに反対があるだろうという懸念のもとだろうけれど。そう考えると「男女平等」に立ち戻ったところでそれだって全然「無難」ではないことは分かっています。「男女平等」ならバックラッシュなんて起きなかったのに、という推定もあやしいもんだと思う。だから上野千鶴子さんが「男女平等」でいいのに、と言うときにそういう想定のもとで言っているのなら、それは楽観的すぎる。実際はどちらも「無難」ではないんだ。「私たちの言っていることは無難ですよ」という考えがそもそも(斉藤さんが言っている通り)「ジェンダーフリー」概念の普及につとめた人たちの一部にあったと思うし、逆に今は( tummygirl さんが言っているように)「ジェンダーフリー」を「男女平等」に矮小化しようとしている人たちにも当てはまると思う。無難じゃなくていいじゃないか、とは言えていないのが悲しい。
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