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「生活保護とクィア」とフェミニズム運動

女性の貧困問題、労働問題については、フェミニズムには膨大な運動や言説の歴史がある。しかし一方で、現在のフェミニズムにおいて、この問題がどこまで主題として、あるいは主題でないにしても重要なフェミニズムの課題として認識されているかは分からない。非正規雇用がとてつもなく多い女性の労働問題に本来敏感でなければならないフェミニストもまた、NPOや大学内、その他あらゆる組織内で、労働者を搾取していることだってある。また、その中で労働者としての権利を主張することを控え、沈黙、あるいは抵抗の手を緩めているフェミニストもいる。更に、抵抗の声を上げたフェミニストに対して、その声を潰そうとしたり、懐柔しようとするフェミニストもまた、いる。そんな様子を現場で、あるいは端から見て、介入しようとしたり、介入を踏みとどまったり、あるいは目に見えない形で介入を試みるフェミニストもいる。

様々な立場の、様々な文脈での、様々な動きがあるフェミニズムにおいて、もう1つ忘れてはならないのは、そんなフェミニズムと労働・貧困問題の歴史の中で、常にクィアな女性が存在してきたということだ。

クィアな女性であることには、もちろん、「レズビアン」女性であることや、「バイセクシュアル」女性であること、「MTFトランス」であることが含まれる。もっと言えば、「レズビアン」や「MTF」、「トランス」という言葉を使わない人たちも含まれるし、積極的に「ダイク」という言葉に意味を込めて自称している人や、「女性」という名を引き受けつつ「FTX」や(最近では)「Xジェンダー」を名乗る人も含まれるだろう。逆に時代を遡れば、あるいはある種の文化の中に目を向ければ、「オナベ」「オカマ」という言葉で自らを認識している人も含まれるかもしれない(教科書的には「オナベ」や「FTX」を「女性」と呼ぶことは間違いなのだけれども)。

そして、クィアであることは、労働者としての権利をないがしろにされたり、貧困に陥ったりするということと、無関係ではない(そんなことは、これまで労働・貧困の問題に携わってきたクィアな女性にとっては、一目瞭然のことだろう)。クィアであることは、女性であることや、外国籍であること、日本語でのコミュニケーションが難しいこと、障害を持っていることなど、様々な要因がある中で、更に1つ、困難への道を開く要素となっている。

貧困の問題、非正規雇用の問題、派遣切りの問題などがメディアで取りざたされるようになってきた中で、これまでもずっと非正規雇用の割を食わされてきた「女性」の貧困問題ではなく、「これまでは正規雇用で普通にやってこれた」ような男性が新たに貧困状態に追いやられて行くことにばかりメディアの注目が集まることに、わたしたちは、強い違和感、あるいは絶望的な既視感を感じてきた。

そして、この、貧困問題や労働問題への主流な介入がすべての者を「男性」とみなした上で行われているような状況(それは必ずしも真実ではなく、女性の貧困問題に積極的に携わっている人がいることは事実だが)は、同時に、すべての者を「異性愛者の、シスジェンダーの男性」とみなすような状況であるということも、忘れてはならない。

「女性とは、誰のことなのか」と自問してきたフェミニズムは、「男」「女」という2つの立場があるという前提でのみ社会変革を試みてきたわけではない。むしろ、そういった枠組みの外に出て、積極的に多様な身体、多様な欲望、多様なアイデンティティ、多様な社会的立場の問題を考えることのできる可能性に満ちたものである。そしてそれは、現在「クィア」という言葉で表現されているような存在の仕方についても目を向けるような素地が、フェミニズムの歴史の中で生まれていたということである。

クィアとはフェミニズムのことではないし、フェミニズムとはクィアのことではない。けれど、クィアという言葉が現在のように政治的に使われだした背景にはフェミニズムの存在が大きかったというのも事実であり、反対にクィア運動や理論によってフェミニズム思想が大きな影響を受けてきたことも事実である。

以下に紹介する拙稿「生活保護とクィア」は、下書きの段階では「LGBTなどを含むクィアな人々」を読者層と想定して書いたが、掲載先のシノドスの編集を経て、必ずしもクィアの問題に詳しくない人であっても社会保障に関心がある人に読んでもらえるのではないかという文章になった。しかし、いくつかある後悔のうちの1つは、フェミニズム運動・女性運動や思想にきちんと言及しなかったことだ。

そこで、ここに紹介することで、クィアと生活保護の問題が、フェミニズム運動の歴史ともつながっていること、フェミニズム運動の中にも常に存在した問題であったことなどを、強調しておきたいと思った。

シノドスに掲載されたことで、クィアの問題に関心がある人だけではなく、様々な人に読んでもらうことができた。そして、現在LGBT運動に携わっている人からの反応も頂けた。ここで更に、フェミニズムの歴史に詳しいと自信をもって言うことなど到底できない私の文章に、フェミニズムに携わっている人、フェミニズムとともに歴史を歩んできた人などから、フィードバック、突っ込みなどが頂けたら、と思っている。

「生活保護とクィア」 http://synodos.jp/society/4252

「ジェンダーフリー」vs「男女平等」

キーワード:男女二元論、クィア

マサキチトセさんへの応答:「フェミニズム」の射程を狭めてしまう「ジェンダーフリー」擁護と、反「ジェンダーフリー」言説

執筆者:斉藤正美

わたしは、「ジェンダーフリー」は、フェミニズムが重要だと考えてきた性にまつわる差別問題を換骨奪胎させる「罠」であったと考えている。だから、「ジェンダーフリー」を使わない方がよいと考えている。しかし、だからといって、「男女平等」に戻ればいいのだと、現在考えているわけではない。むしろ、「男女平等」という理念に居心地の悪さを覚えるフェミニストや、既存の「性差・性別」という概念に疑問をいだくフェミニストの主張をしっかりととらえることが大事と思っている。無視しても構わないとか、もっと大きな問題があるから大したことのない小さい問題にすぎないとか、「付け足し」に考えればいい、などと考えているわけでは、決してない。
そこで、現在どのように考えているか、<a href=”マサキチトセさんの論考、ならびにtummygirlさんの論考への若干のレスのようなものを書いてみたい。

「ジェンダーフリーはこれこれこういうものなんだ」という形で「誤解を解く」ことでジェンダーフリー概念を擁護しようとする動き、そして逆に「ジェンダーフリーというのは結局のところ『男女平等』の言い換えに過ぎないのだから、『男女平等』に戻せばいい」という言説を作ろうとする動きの両方のパターンに陥って来た。

マサキチトセさんのこの指摘は重要な指摘だと思う。そして、わたしは「ジェンダーフリー」でも「男女平等」でもまずいと思う以上、第三の道を模索・提案していきたいと思う。とはいえ、これぞ、という提案を出すというより、これから議論を積み重ねていけたら、新たな道ができあがっていくのではないかと思うから、これから道をつくっていきましょう、という提案をしたいと思う。同じようにマサキさんの指摘を受け止めている人、以前からこの方向に向いていた人は決して少なくないだろうから。

わたしが考える第三の道は、キーワード(概念)としては、従来「性差別の解消」といってきたものを、「性にまつわるあらゆる形態の差別の解消」とするというものだ。「性差別の解消」は、従来、「女性差別」「男女差別」という意味で「男女平等」とほぼ同じように使われてきた。しかしながら、それを「性にまつわるあらゆる形態の差別の解消」とするのは、「男女」という性別二元論を前提とする考えに依拠したり、異性愛体制を是認し、ヘテロセクシズムを放置したりすることを「性にまつわる差別」とみなし、それを解消することを目的とする人々が共通して取り組むことができるようにしたいからだ。
さらに、「性にまつわるあらゆる形態の差別の解消」という理念的なキーワードだけではまずいので、同時に具体的な対処法や取り組みをも併せて示していくことが不可欠だと思う。その際には、基本法制定の際に大澤氏がやられたというような、相手が気づかないまに「しのばせ型」でやるのではなく、反対があっても正面から説得していく方法を採るやり方をしていきたい。その方が遠回りであっても究極的には目的に到達できる方法だと思うからだ。特に、現在の「男女共同参画」や「ジェンダーフリー」で「しのばせ型」や「妥協型」でぼやっとした形で導入したことのつけが来ている現状をみていると反省材料として強くそう思う。

もちろん、政策決定過程においてどのような困難があるかは、わたし自身地方の自治体でのプラン、条例策定過程に専門委員などとして関わった経験から知らないわけではない。よく知っている。しかしその経験を踏まえても、理念だけにとどまらず、具体的な施策や取り組みとのセットでなければ事態を前に進めることができないと強く信じている。

狭い意味での「男女平等」の達成に加えて、「男らしさ、女らしさ」の概念や男女を自明の前提とする「性別」の概念の問い直しをもその射程に入れるような一連の試みに名前を与え、しかもその全体にタテマエ上であれいわば公的な承認をとりつけるという目的で、一つの用語を採用・使用しようという戦略があったとすれば、それは理解できる。もっとも政府に近い立場で「ジェンダーフリー」という用語を採用した大澤真理氏も、この用語にそのような役割を期待していたように思える。

これはtummygirlさんの指摘であるが、わたしには大澤氏は「男女を自明の前提とする「性別」の概念の問い直しをもその射程に入れるような一連の試み」を明示的示しているとは思われない。それに、具体的な施策も提示して推し進めるということが伴っていただろうか。仮に、あくまで理念的に可能性をもつというのであれば、それに期待しても、このような反発が大きい案件は押し切れないものだ。その点を強く懸念する。すでにtummygirlさんも書かれているように、行政はあくまで「男女平等」を押してくるフェミニズムを脅威と受け止めており、「ジェンダーフリー」を導入したのはそれへの「めくらまし」としてだった、と考えるからだ。

実際にわたくしは行政が「ジェンダーフリー」に「乗った」のは、「男女平等」が怖かったからではないかという疑いを捨て切れませんし。

「ジェンダーフリー」が、仮に理念的にはセクシュアルマイノリティに関する教育や施策を含みうるからといって、実践的な取り組みとの併用でなければ、事態が前に進むとは言えないというのは、わたしの政策策定に関わった経験に基づいて考えていることだ。いくら理念的に可能と言ってもそれを具体的に政策や教育の現場でやっていく対策を伴わなかったら事態は動かないものだ。行政は前例主義だし、自分たちがやりたくないことは法律で書かれていたとしてもやらないで済まそうとする。それに、保守との連携で政策を下ろしてきた経緯があり、保守の反対が生じそうなことをしない傾向をもっている。別の地域では異なるかもしれないが、少なくとも私の住む自治体のやり方はそういったものであったし、そうした手法をとる自治体は全国でも少なくないだろうと予想できる。

だからこそ、保守派が「ジェンダーフリーは家族を破壊するのか」とか「ジェンダーフリーはフリーセックスか」と恫喝することにどう対応するかは重要である。「男女」という性別二元論にあわてて逃げ込んだり、安心な異性愛体制に引きこもるという選択肢はとるべきではない。(私のこれまでの行動がそのように見えていたというtummygirlさんやマサキチトセさんの指摘をありがたく思う。)そうではなく、「ジェンダー」というカタカナ語がもつ、一見「正しい・優れた」思想だという語感を利用してあいまいなまま積極的に使ってきたことを反省し、性の二元制や異性愛制度の問題を広くわかるように提示していくとともに、そうした制度的文化から逸脱する人々が生きやすいようにするにはどうしたらいいかを具体的な施策に落とし込む作業をしていくことが肝要である。つまり、tummygirlさんが以下のように書かれる点に、もっとフォーカスして考えなければならないということだ。

バックラッシュ言説への対抗において、「フェミニズムが既存の性差の形態を否定するかもしれない可能性」というものを、フェミニズム自身が(あるいは一部のフェミニストが)積極的に隠蔽してしまった、ということを指摘したいのです。
バックラッシュ言説がフェミニズムを攻撃するときに動員したのは、互いに支えあう二つの体制、すなわち、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制ですが、そこから逸脱する存在に対する恐怖や嫌悪でした。
ところが、「フェミニズムは男女平等を目指すのだ」「性差を否定しないのだ」と主張したとき、そのようなフェミニズム側からの対抗言説は、バックラッシュを意識するあまり、それらの恐怖や嫌悪を批判するのではなく、恐怖や嫌悪の対象となることを回避する方向に、向かってしまいました。
つまり、その時のフェミニズム側の対抗言説は、いわゆるバックラッシュのロジックとは違う理由で「男女平等」という理念に居心地の悪さを覚えるフェミニストや、既存の「性差」という概念に疑問をいだくフェミニストの主張を、あたかもそれは正当なフェミニズムの主張ではないかのように、扱ったのです。

さらに、バックラッシュ対応だけではなく、政策へのチェックも甘かったことを認めなければならない。従来の自民党の男女共同参画政策についても安易に支持してきたことの甘さを認めるのにやぶさかではない。さらに、今回発表された民主党の政策マニフェスト、特に「こども・男女共同参画」と見出しが立てられていることをみても、異性愛制度バリバリで子どもを持つことが前提に立った政策であり、子どもの保護や教育に強調が置かれている点は従来の自民党の政策と同程度かそれ以上のように見える。その一方、子なしシングル、レズビアン、ゲイなどへの目配りはまったく見られず性の二元制を強化していることに脅威を感じた。トランスジェンダーについても、障がいとして扱うことで「男女共同参画」とは別に配されており、これはまずい、きちんと指摘していかねばと思った。

それに関しては今思うのは、マサキチトセさんが危機感をもって児童ポルノ処罰法反対の発信をあれ や これとやっておられたが、私を含めLGBTI運動以外からの反対の発信が少なかったように思う。単純所持を犯罪化・処罰化するということがどういった波及効果を持つかについて、マサキさんが「国家による規制(所持の犯罪化や検閲)を希求することは即ち国家権力に当該規制対象を表象する独占的な正統性を与えてしまうことになる。つまりどんなセクシュアリティがOKでどんなのはNGなのかを国家に判断させてしまうことになる。」と指摘しておられる点など、やはりフェミニストは危機感が乏しいと批判されても仕方ない面はあると振り返って思う。この点は、日頃わたしが主張している、行政と密着してきたフェミニズムという点とも絡み、行政権力に対する危機感が弱いように思われる。それだけではなく、異性愛や性の二元論からの逸脱に対する制裁がどれほどのものかをよく理解できていないという点も否めないと考える。

雑然としてきたが、まとめると、tummygirlさんやマサキチトセさんが「ジェンダーフリー」を使うことを肯定的に考えておられる点には、実質的な政策を伴わない抽象的なカタカナ語であるため効果が期待できないという理由で同意できないが、その主張の根底にある、フェミニストが性別二元論的な考えをこっそりと支持する側に回ったのはとんでもない、という主張を自分を含むフェミニストに向けられたものとして受け止め、よく咀嚼し新たに動きをつくる側に回りたいと考える。

そして、そのようなフェミニズムの現状を打開するためにわたしが考えられる方策は、「男女平等」に戻るというのではなく、新たに「性の二元制」ならびに「異性愛制度」と「男性標準」を標準的なルールとする現在の文化や規範を見直し、「性にまつわるあらゆる形態の差別」を解消するという考え方を打ち立てること、さらに、それについての具体的な取り組みをフェミニズムを支持する人たちが積極的に始めることであると考えている。しかしながら、理解が足りない点は多々あると思うので、さらにご指摘をいただけたらと願っている。

「フェミニズム」の射程を狭めてしまう「ジェンダーフリー」擁護と、反「ジェンダーフリー」言説

執筆者:マサキチトセ

前回「『ジェンダーフリー』ではなく『男女平等』だ」と言うことの危険性」に書いたように、「ジェンダーフリー」概念を擁護する言説と「ジェンダーフリー」は有効ではないからきちんとフェミニズムの根本的問題に戻るべきだとする言説が、両方ともある種の罠にはまってしまってきたのが現状だ。というのも、「罠」はもちろんジェンダーフリー・バッシングが問題設定を「男女平等」「LGBTの権利獲得」「性の二元的慣習からの脱却」「教育におけるマイノリティに関する試み」など全ての論点をひっくるめて「ジェンダーフリー」として、そのうち特にクィアなもの、すなわち「同性愛・両性愛」に関する部分や「トランス」的な部分というものを攻撃することで同時に、「男女平等」という現代では反対する声を挙げづらいところにまで範囲を広げてバッシング可能にするような言説を作って来たことを意味する。そして少なからぬフェミニストがそれに対して反論を試みて来たが、それは前述の通り「ジェンダーフリーはこれこれこういうものなんだ」という形で「誤解を解く」ことでジェンダーフリー概念を擁護しようとする動き、そして逆に「ジェンダーフリーというのは結局のところ『男女平等』の言い換えに過ぎないのだから、『男女平等』に戻せばいい」という言説を作ろうとする動きの両方のパターンに陥って来た。

バックラッシュ言説が(恐らく意図的にではなく)かけたこの「罠」に同性愛嫌悪やトランス嫌悪をはじめとする「クィア蔑視」が強烈に入り込んでいたことは一目瞭然だ。しかしそれに対する一部のフェミニストからの応答は、そのクィア蔑視的な土俵の罠にまんまとはまることで、実質クィア(クィアな人であり、同時に、クィア的なもの)を排除するものだった(例えば『バックラッシュ!』所収インタビューでの上野千鶴子さんの意見)。バックラッシュ言説からの攻撃に対して、無難な「男女平等」論(あるいは無難な「ジェンダーフリー」)以外をフェミニズムから取り外し「それはフェミニズムではなく、あちらのクィアな人たちに向かってやってください」と土俵の外を指差し続けることによって、バックラッシュによる攻撃の大部分を避けてしまったのだ。言うなれば、これは「おいジェンダーフリー(同性愛奨励、男女同室着替え推進、男女平等推進、 etc.)、かかってこいよ」という怒号に対してフェミニズムが果敢に立ち向かった土俵ではなく、クィアを蔑視する人たちが一緒になって「あれって嫌よね」「そうよね、クィアって言うんですって」「理解できないわ」とクスクス言い合いながら、無難な「男女平等」論(あるいは無難な「ジェンダーフリー」)についてのみたまに言い争いになる(そのときもまた、「だってお前らは同性愛を奨励してるじゃないか」「してないわよ!」みたいなやり取り)だけの土俵になってしまったのだ。

そうして罠にはまったフェミニストは、「誤解を解く」アプローチと「男女平等に戻す」アプローチのどちらを採用した場合も、「フェミニズム」の射程を狭めることになってしまった。それは、意図的ではないにしても少なくとも効果的には、「クィア外し」というかたちを取って行われたのだ。

このような状況について具体的に問題提起をしているブロガーとして tummygirl さんを前回取り上げたが、「取り上げるならそのエントリよりもこっちのエントリでしょ」という突っ込みを頂き、実際に読んでみたら確かに素晴らしいエントリだったので、良エントリ紹介としてここに載せる。また、この文章での tummygirl さんの批判の一部は当サイトにも当てはまる。だからボクたち『歴史と理論』サイトの関係者は tummygirl さんの批判についてどのように応答出来るのかを考えなければいけないし、きちんと応答出来ないのならばボクたち1 もまた「罠」にはまっているということだろう。

以下、例のごとく抜粋する。 tummygirl さんの他のエントリや、他の人のエントリも少しだけ下の方に紹介している。ちなみに見出しには、 tummygirl さんのエントリのタイトルをそのまま使っている。

「ジェンダーフリーは性差の否定を否定するべきか。」

わたくしは今でも自分ではジェンダーフリーという言葉は使わない。けれども、狭い意味での「男女平等」の達成に加えて、「男らしさ、女らしさ」の概念や男女を自明の前提とする「性別」の概念の問い直しをもその射程に入れるような一連の試みに名前を与え、しかもその全体にタテマエ上であれいわば公的な承認をとりつけるという目的で、一つの用語を採用・使用しようという戦略があったとすれば、それは理解できる。もっとも政府に近い立場で「ジェンダーフリー」という用語を採用した大澤真理氏も、この用語にそのような役割を期待していたように思える。そして、実際にそういう方向で「ジェンダーフリー」が使われてきたのであれば、それはこの用語がその目的の一端を果たしてきたということだ。学術的にこの用語が曖昧であろうと、それが和製英語であろうとそうでなかろうと、「もともとの」意味がどういうものであろうと、「ジェンダーフリー」という用語が役に立つならばどんどん使えば良い。

もちろん、多くの人々が指摘しているように、女性差別的な制度や構造の解体あるいは改善(狭い意味での男女平等)に向けた努力も、「らしさの押し付け」への批判も、「男/女らしさとは何か」という問題提起も、「ジェンダーフリー」導入以前から、この用語とは無関係に行われ、一定の成果をあげてきた。それに加えて、ジェンダー/クィア研究に従事する研究者から、あるいはLGBTのアクティビストから、<男>と<女>とを自明の前提とする性別のあり方それ自体の問い直しの試みも、確実に進められてきていた。これらの多様な試みは「ジェンダーフリー」という用語によって可能になったり開始されたりしたものではなく、むしろこれらの試みを幅広く指し示しうる用語として、そしてさらにそれらの試みが社会的・制度的な後押しを得るための手段の一つとして、「ジェンダーフリー」という用語が使用されたという方が、正しいだろうと思う。

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「ジェンダーフリー」が狭い意味での「男女平等」を超える射程を持っているというまさにその点が、非規範的なジェンダーやセクシュアリティへのフォビアを煽る形で(「ジェンダーフリーは人間を中性化する/性同一性障害を生み出す/同性愛者・バイセクシュアルを生み出す」)、「ジェンダーフリー」総体に対する攻撃を容易にしてきた。

[…]

重要なのは、「男女平等への反対を表明する」ことが少なくともタテマエとしては駄目なことになっていたのに対して、非規範的なジェンダーやセクシュアリティへのフォビアはより強固に存在していたし表明しても良いものだと考えられており、したがってそれがもっとも攻撃しやすい、もっとも容易なターゲットになったということだ。そして、「ジェンダーフリー」が多様な試みを包括的に示しうるある種必然的にあいまいな用語であったことで、もっとも感情的な拒否反応を引き起こしやすい試みを通じて、既により広範に受け入れられていたはずの試みをもまとめて攻撃することが、可能になってしまった。

このような状況のもとで組み立てられようとしている「ジェンダーフリー・バッシング」への対抗言説の一つ一つにおいて、それが「ジェンダーフリー」の歴史的役割を肯定しているにせよ批判しているにせよ、「ジェンダーフリー」の概念なり用法なりをどのように規定しなおしているのか、望ましいフェミニズムの(あるいは場合によっては「ジェンダーフリー」の)あり方をどう表現しているのかを見ることはできるし、そしてそれらの規定や表現がどのような効果を持ちうるのかを考えることはできる

[…]

ネットやML上でよく見かける「ジェンダーフリー・バッシング」への対抗言説は、大きく二種類に分かれる。

一つは、「ジェンダーフリー」という用語の使用それ自体に誤りがあったのではないかとして、「ジェンダーフリー」ではなく「男女平等」「性差別撤廃」をこそ、フェミニズムの目標として確認しなおそうとするもの。ジェンダーコロキアム報告での基本的論調はこれにあたる。

もう一つは、「ジェンダーフリー」と言う用語とその使用をめぐって、都市伝説的な無根拠の噂が飛び交っている現状に対して極力正確な情報を示すことで、とりあえずこの用語に対する感情的なバッシングを沈静化させようとするもの。成城トランスカレッジ!さんの「ジェンダーフリーとは」はその代表的な一つにあたるだろう。

「ジェンダーフリーが何を意味しているのか、とりあえずそのくらいちゃんと理解してから話をしよう」という系統の議論については、意図はよく分かるし重要な作業だとも思うから、その作業自体には全く異論はない。けれどもその過程で、バッシングを沈静化しやすい方向で「ジェンダーフリーが何を意味しているのか」の定義が少しずつ狭められてしまう傾向があるような気がしている。

ジェンダーフリーは男・女が「こうあるべき」と決め付ける規範を押し付けないことを意味するという部分は、そのまま上述した「<男らしさ><女らしさ>に反対するのではなく、その押し付けに反対する」という言い方につながる。規範を押し付けないことを目指す、それ自体はまったくもって結構なことに聞こえる。けれどもよく考えれば、「規範」というのはその定義からして「押し付け」られるものではないのだろうか。規範とは、法律あるいは学校や会社という組織の規則による強要を指すわけではない。「これこれの性質が男にふさわしく、男においてより望ましい、従って翻ってこれこれの性質を持たない場合には、本当の意味での男にふさわしくない、男としては十分ではない」というところまでを含意するのが「らしさ」という言葉であり、そのメッセージをたえず投げかけ続けることによって、やんわりと、しかし確実に、特定のジェンダーのあり方を承認し、別のあり方を否定する、それが「男らしさ/女らしさ」の「らしさ」という規範ではないのか。したがって、規範それ自体に疑いと批判を向け、規範の規範としての地位を突き崩していかない限り、「男はこうあるべき・・・女はこうあるべき・・・と決め付ける規範」は、押し付けられ続けるはずではないのだろうか。

だいたい、「らしさを否定する」という表現が非常に曖昧だ。「男らしさ/女らしさ」という区分法、あるいは「男らしい性質・女らしい性質」というカテゴリーが、現在の日本の社会や文化において存在するとは考えない、ということであれば、そもそもそのような区分法やカテゴリーが存在すると考えるからこそフェミニズムはそれを「批判」してきたのであって、「ジェンダーフリーは男らしさ/女らしさを否定する」というのは正しくない。ある特定の人が「あれは男らしい性質、これは男らしい性質」と考えることに関しても同様で、フェミニズムはそのような考え方を「批判」するかもしれないが、その人がそう考えているという事実を「否定」はできない。けれども他方で、「男らしさ/女らしさという区分、あるいは男らしい性質/女らしい性質が、人間の主観や社会的・文化的影響あるいはバイアスとは無関係に厳然として客観的に存在するとは考えない」ということを「らしさを否定する」と呼ぶのであれば、フェミニズムの多様な試みを包括的に指し示す用語としてのジェンダーフリーが、「男らしさ/女らしさを否定する(あるいはそのような発想を内包する)」というのは、正しい。

だとすれば、ジェンダーフリーを正確に定義しようとして「ジェンダーフリーはらしさを否定しない」と強調することは、この用語に託されたそもそもの使命(フェミニズムの多様な試みを包括的に指し示す)を裏切ることにならないだろうか。ましてや、「ジェンダーフリー」をフェミニズムの試みの一環として擁護しようというのであれば、「らしさを全否定する」という批判に対しては、否定するともしないとも言わないのでも、否定を否定することによってあたかも肯定しているかのような印象をつくりだすのでもなく、「男らしさ/女らしさ」という言葉が「男にふさわしい/女にふさわしい」という意味を持つ限りそれを批判すると、明確に言うべきではないのか。

同様のことが、「ジェンダーフリーは性差を否定しない」という表現にも当てはまる。勿論、ジェンダーフリーは「性差」の概念の存在を否定することはないだろうし、現在の社会において「男性」と「女性」というカテゴリーが存在し、その両者の間に厳然として差異なり権力的不均衡なりが存在することも、否定しないだろう。しかし同時にたとえば、男性と女性とがどのように違うかはあらかじめ決まっているとか、「誰が女性で誰が男性なのか」というカテゴリーの境界線が変えようのないものであるとか、あるいは男性と女性という二つ以外には「性」は存在し得ないとか、そういった考え方を「否定する」あるいは「批判する」フェミニズムは確かに存在してきた。「性差を否定しない」という表現は、少なくともあらかじめそのような試みを排除したものとしてジェンダーフリーを定義しなおすことになるだろう。

「ジェンダーフリー」という用語に対するバッシングを回避し、この用語をとりあえず保持する方向で再定義が行われる場合、それは逆に、新たな定義(たとえば「性差を否定しない」「らしさを否定しない」)によって排除された領域を、とりあえずは保持する必要がなく感情的な攻撃にあっても仕方がない、それほど重要でも真っ当でもないことがらとして、定義することになる。

逆に、「ジェンダーフリー」という用語およびその果たしてきた役割を批判し、フェミニズムの目標をジェンダーフリーとは別に確認しなおそうという方向で再定義が行われるとしたら、その場合には「フェミニズムの目標」の定義が問題になる。たとえば、「ジェンダーフリーはフェミニズムの試みを包括的に指し示しうる用語ではなく、フェミニズムには他の射程がありうる」という方向をとるとしよう。この場合には「ジェンダーフリー」という用語が持ちえた可能性を(つまり、漠然と全体を指し示す用語を利用することで、フェミニズムの幅広い試みに対して社会的・制度的な後押しを得やすくすること)完全に捨て去るということになるけれど、まあ、捨て去るまでもなく既にその可能性がなくなっているという気はするし、わたくしはそのような「フェミニズム」の捉え方自体には異論はない。けれども、「ジェンダーフリーはフェミニズムの試みを包括的に指し示しうる用語ではなく、そもそもフェミニズムにはもっと重要な目標がある」という方向で再定義が行われ、そしてその「もっと重要な目標」が「男女平等」「性差別撤廃」と言い換えられてしまう場合、あるいは「ジェンダーフリーとは要するに男女平等、性差別撤廃を目指すものだ」と定義されてしまう場合には、わたくしはそれに賛成することはできない。

気になるのは、ここでもまた上野氏が「ジェンダーということばを使って話すこと」として「女性差別と男女平等」のみを念頭においているかのように聞こえる点なのだ。けれども上で述べたように、そもそも「ジェンダーフリー」は、男女平等に限らずフェミニズムの幅広い試みを包括的に指し示しうる用語としてこそ戦略的な意味もあったし、実際にそのような方向で使われてきたという過程もある。それをいまさら「男女平等」と言い換えてどうしようというのだろうか。もちろん、「男女平等」は当然に達成されるべきフェミニズムの重要な課題の一つではあり、「ジェンダーフリー・バッシング」を通じてそもそも「男女平等」の軸においてフェミニズムが達成してきた成果すらもあらためて攻撃の対象になっていることに対しては、真剣に対処策を考えるべきだろう。しかし、その対処策が「男女平等の原点に立ち返れ」で良いのだろうか。「男女平等」にはおさまらない視線の広がりは、「ジェンダーフリー」という不可解な用語がもたらし、あるいは後押ししてきたものの中でも、将来に確かにつなげるべき重要なポイントであったはずだ。その広がりを期待させておいて、いまさら「男女平等」こそが重要だというところに回収させ、もっともバッシングを受けやすい部分、ホモフォビアやトランスフォビアに直結する部分を不可視化させて、「男女平等」なり「フェミニズム」なりを守るのでは、羊頭狗肉も良いところだし、詐欺みたいなものだ。

[…]

別にジェンダーフリーという用語を守れと言っているわけではないし、男女平等という目標が過去のものだと言っているのでもない。その用語を使うのが嫌なら使わなければ良い。男女平等、あるいは女性差別撤廃に焦点を絞りって話をしたり活動をしたりしたければ、そうすれば良い。ジェンダーフリーという造語が曖昧で日常言語ではないと思うのならば、「性差別反対」と言っても良い。けれども、ジェンダーフリーという用語を使わない理由、使わないでも良い理由を述べる過程で、あるいは「男女平等」の目標を再確認する過程で、フェミニズムが語るべきこと、対処すべきことの射程をわざわざ縮小する必要はないはずだ。「性差別」について語るべきだというときに、セクシュアリティにかかわる差別やトランスフォビアの問題を切り捨てて、わざわざそれを「女性差別」や「男女平等」の問題として言い換える必用もないはずだ。それでは、バッシングに対抗しようとするあまり、フェミニズムがもともと取り組みうる、そして実際に取り組もうとしていた多様な試みの一環を、こちらからすすんで「より擁護の必要に値しないもの」として切り捨てるのと同じことだ。

バッシングに抵抗する目的で、より攻撃や「誤解」を受けやすい領域をあたかも「男女平等」の達成後にゆっくり取り組めば良い二次的な問題であるかのようにとりあえず棚上げして、「ジェンダーフリー」なり「フェミニズム」なりの定義から消し去ってしまうことがあってはならない。わたくしはフェミニズムがアカデミアに限られるとは全く考えないけれども、少なくとも、女性学なりフェミニズムなりジェンダー論なりの研究者がバッシングへの対応に追われてそのような消し去りに加担するとしたら、それはアカデミックなフェミニズム、あるいはジェンダー論に対する裏切りだと思うし、それより何より、アカデミックなフェミニズムやジェンダー論の側における、フェミニズムに対する、あるいはフェミニズムと共存しようとしてきたLGBTの活動に対する、裏切りだと思う。その点で、たとえば女性学会の『Q&A』、あるいはジェンダーコロキアムの上野氏の発言には、それが日本のアカデミアにおいてはそれなりの権威と影響力を持ちうるだけに、この業界で生きていこうとしている人間として強い違和感を覚える。

「「女性学」の議論と実感」

たとえば、わたくしにとって現在もっとも関心もあり利害関係もあるテーマは、ジェンダー規範の下で非規範的な身体や性がどう生き延びるかということであり、それは具体的・日常的レベルでは、ジェンダー・セクシュアルマイノリティが直面させられている諸問題をどう考え、それにどう対処するかということに、かかわっています。

このようなわたくしの立場から見ると、「ジェンダーフリーは要するに男女平等だ。女性差別撤廃だ。」という論調は、ちょっと困ります。「ジェンダーフリー」には問題もあるでしょうし、これまでのところ、実際にプラスよりもマイナスの機能の方が大きかったかもしれないけれども、少なくとも理念上は、ジェンダーマイノリティ、セクシュアルマイノリティの直面する問題をすくいとる可能性を持った部分を、持っていました。「ジェンダーフリー」を「男女平等、女性差別反対」に戻してしまう論調を上野さんのようないわゆる「大御所」が引っ張るという構図は、そのような部分を切り捨て、とりあえずより分かりやすい「女性」の問題だけにターゲットを絞ってしまうという点で、悪い意味で「主流女性学的」だとわたくしには思えます。discourさんも参加なさっているジェンダー・コロキアムが「わたくしの立場からは主流女性学に見える」と申し上げたのは、そういう意味です。

繰り返しになりますが、わたくしがこういう例を挙げるのは、「こっちの方がもっと傍流、もっとマイノリティ」という「傍流あらそい」をしたいからではありません。discourさんやyamtomさんの御立場から見て、「ジェンダーとかジェンダーフリーだとかの小難しい定義に時間を費やして」、より火急の問題に取り組めなくなることをご批判なさるのは、良くわかります。けれども同時に、わたくしの立場から見ると、「ジェンダーフリー」をめぐる定義の問題(要するにそれを「男女平等で置き換えられる」と言うか言わないか、といったことですけれども)というのは、現実に望ましくない効果をもたらす可能性をはらむ事柄であり、日常レベルでの実感や運動にかかわることであって、どうしてそこを「主流女性学」がちゃんと考えてくれないのかなあ、と感じるわけです。

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注:ここで「主流女性学」と呼ばれているものについては、斉藤さん (discour) と tummygirl さんによる議論の中で出て来ている言葉です。文脈がありますので、お二人のやり取りをご覧になった上で「主流女性学」という言葉の意味を解釈してください。

「性別にとらわれずに自分らしく」というのは、それが「誕生時に法的に割り当てられた性別にとらわれることなく」ということであれば、ジェンダー・マイノリティの一部の人にとっては、「寝ぼけたこと」どころか就職から日常生活の細部にまで及ぶ重要事であり、そういう「寝ぼけたこと」を言わないような女性学は、それこそ実感と乖離した「寝ぼけた」ものだと感じられるかもしれないわけです。

「ジェンダーフリーの定義」の問題は、「女性学」がたとえばそのような非婚カップルの「実感」にどう対応するつもりなのか、ということを指し示す、それなりに重要な問題なのです。

id:discourさんへのお返事

ごめんなさい、これはほぼ全文転載です。全て重要な指摘ですので。

「男女平等」を唱える方たちに必ずしもセクシュアル/ジェンダーマイノリティを排除する意図がないのは、了解しています。場合によっては、「男女平等」の名目を立て、その範疇での具体的な行動において、セクシュアル/ジェンダーマイノリティへの差別に対応していく、という方法が有効だろうということも、理解できます。

ただ、それでも今の時点で「ジェンダーフリーを男女平等と言い換える」ことについては、わたくしはやはり原則的には賛成できません。「女性差別撤廃」についてはなおさらのこと、「性差別撤廃」というべきではないかと思っています。日本語の「性」という言葉のある種の曖昧さは、「ジェンダー」「セクシュアリティ」などのそれなりに学問的に意味が定まりつつある用語よりも、時と場合によっては使い勝手がいいな、と、こういう時には思うわけですが<話がそれまくり。

理由としては、第一に、いわゆる「バックラッシュ派」なり「アンチ・ジェンダーフリー派」が、一番叩きやすいと感じているらしい、そして事実何かにつけて「ジェンダーフリーの恐怖」として持ち出してきているポイントが、セクシュアル/ジェンダーマイノリティに関係する部分だからです。ジェンダーフリーが「同性愛を認める」「同性愛/両性愛を作り出す・推奨する」「男女別のトイレや更衣室に反対する」などなど。

もちろん、これらの主張のうち、最初のものは「それのどこがいけないの?」であり、二番目のものは全く根拠がなく(同時に「どこがいけないの?」でもありますが)、最後のものについては、わたくしは個人的には「男女別のトイレや更衣室が<当たり前>であるようなあり方は考え直すべき」とは思いますけれども、それは一般にジェンダーフリーの名の下に主張されていることではないし、そもそも「反対する」というのは余りに大雑把です(「男女別のトイレや更衣室を考え直すべき」ということと、「男女別のものを全部廃止すべき」ということとは、全く違いますから)。

けれども、そのような言い方が現状において一定の「脅し効果」を持っているらしいことは事実であり、それに対して、「叩きにくい」部分である「男女平等」を持ち出すことは、確かに例えば個々の女性センターの運営や行政との折衝の内部において有効な場合はあるかもしれませんが、少なくとも「女性学」、あるいはフェミニズムという「学問」としては、卑怯だと、わたくしは思います。

もう一つの理由としては、「男女平等」が実質的に「ジェンダーマイノリティ」の問題への取り組みを排除するものではない、というのは確かだとしても、あくまでも名目的には「オトコ」と「オンナ」との平等について語っているわけで、実質的に排除するわけではないのだからそれでよしとしろというのは、マジョリティの傲慢ではないか、ということがあります。伝統的なフェミの例で言えば、「彼ら」という日本語は男女ともに含むことになっているけれども、あえて「彼ら/彼女ら」と書こうとか、英語で言えば一般人称のone 受ける代名詞は伝統的にはheであり、それは必ずしもそのpersonが女性であることを排除はしなかったけれども、やはりそこはhe/sheとかtheyで受けようよ、と変わって行ったとか、そういうことと同じだと思うのです。

勿論、そういう「呼称」が変わったからといって実質が変わるわけではないし、時には呼称よりも実質が重要であって「とりあえずは」呼称なんて二の次でいいや、という判断は、ありえます。ただその判断はあくまでもマイノリティ側がするものであって、マジョリティ側が「実質は排除していないのだから文句は言うな」というのは、ちょっと違うように思います。

ただし、これは「男女平等を使うな」とか、「ジェンダーフリーを使え」とか言うことではありません。「男女平等」こそが問題になる場合というのは、具体的な事例においては勿論あります。セクシュアル・マイノリティーの内部だって「男女平等」は達成されていないわけだし、そういう場合には「男女平等こそ」主張すべきだということさえあるでしょう。「ジェンダーフリー」にしても、discourさんが従来主張していらっしゃるような、行政との関わり方の問題というのは非常に説得力のある、重要なテーマだと思いますし、「今あるからそのまま必ずこれを使え」ということでは勿論ありません。実際にわたくしは行政が「ジェンダーフリー」に「乗った」のは、「男女平等」が怖かったからではないかという疑いを捨て切れませんし。ただ、それでも「ジェンダーフリー」が「男女平等」では前面に出しにくかった一連の主張を容易にする可能性を持っている以上、「ジェンダーフリーは男女平等で言い換えられます」と、一般論として「女性学」が主張するのは、納得がいかない、ということです。

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ひびのまことさんのエントリ

  • クリックして開いたら、下にスクロールして「【「ジェンダー・フリー」についての上野さんの意見】」というところから読んで下さい

LGBTIAQへの差別を問題化するためには、「男女平等」は前提として踏まえるべき論点(だから例えば、自身の男性中心主義に鈍感な一部のゲイ活動家の言説は批判されるべき)ですが、「男女平等」だけでは例えば同性関係嫌悪(ホモフォビア)や性別二元主義、性愛強制主義の問題点を問うことができません。

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また、「男らしさ」「女らしさ」の強制の問題は、例えば「典型的な男」ではないゲイ男性やバイセクシュアル男性の問題でもありますし、トランスジェンダーは毎日「らしさ」の強制と向きあわされています。「ジェンダー・フリー」の運動と認識は、そのもともとの出自を越えて、女性差別や男女平等だけではなく、同性関係嫌悪や性別二元主義をも問う射程を現実に持ってしまっています。

言い換えると、「性(別)に関わる差別と権力関係」には、男性中心主義だけでなく、異性愛中心主義や性別二元主義、そして性愛強制主義といった様々な問題があることが、今では明らかになっています。バッシング派は、これらのどれか一つだけを攻撃しているのではなく、まさにこれら全てを問題にし、攻撃をしてきています。この状況の中で、焦点を「男女平等」だけに絞るということが、本当にバッシング派への反撃になるとは思えません。

最後にコメント

斉藤正美さんがご自身のブログでものすごくシンプルに「ジェンダーフリー」という概念の使い方の問題点を挙げている。

「(ジェンダーフリーを使うことの)問題は2点。一つは、抵抗の多い言葉を避けて無難であいまいな言葉に逃げたこと。第二は、あいまいな言葉であるゆえに、「性差」に焦点をあて批判されるなど保守派につけいるすきを与えたことだ。」

(もちろん斉藤さんはこの他にもものすごい量の文章を書いていて、すごく重要な指摘がいっぱいあるので、このものすごく短い引用文だけで斉藤さんの主張が全部分かるというわけではありません)

斉藤さんがこの文章を書いたとき(2004年10月)に「ジェンダーフリー」を巡る議論がどのようだったのかは分からないが、2009年になった今、これまで「ジェンダーフリー」という考え方が「保守派につけい」られて来た結果として、今度は「男女平等」に比べて「ジェンダーフリー」という言葉の方が「抵抗の多い言葉」になってしまっている現状を考える必要がある2 。つまり「ジェンダーフリー」という言葉を使わないことが、むしろ「抵抗の多い言葉を避けて」いることになるのではないかという懸念だ。

そもそも「ジェンダーフリー」という概念が出て来た歴史を振り返ると3 、「ジェンダーフリー」という概念が出て来た背景には、行政・学者主導型のフェミニズムが様々な女性運動の実践の犠牲を伴う形でで成り立っていたことがある。そしてその普及の仕方には、バックラッシュを誘発する要素があった。それ故に抵抗も大きかったのだろうし、それを理由に「ジェンダーフリー」概念の歴史を否定的に捉えることは理解可能なことだし、むしろ正しいとボクは思う。しかし「ほら、バックラッシュ言説につけいられてしまったじゃないか」と言って「わたしたちにはもっと大事なことがある」と言うことは、フェミニズムの「本来取り扱うべき問題」を再定義する実践としての効果を持つ。たとえば、バックラッシュ言説による「『性差』に焦点を当て」た批判に対するフェミニストの対応の中に、「性差」の問題を棚上げにする動きがあったのではないか(=男女というジェンダー体制そのものを疑うという作業をフェミニズムの外部に追いやる動きがあったのではないか)ということは、考える必要があるだろう。

そのためにも、「ジェンダーフリー」という言葉とそれに伴う実践が過去のフェミニズム及びそれが受けて来た挑戦などの歴史の蓄積の上に成り立つものであったという事実、すなわち「ジェンダーフリー」概念の中にはそれまで「男女平等」などを掲げている中で行われて来た実践・教訓が(ジェンダーフリーを推進した人たちに共有されていた認識かどうかは置いておいて)多く含まれており、だからこそ「男女平等」への回帰の中でその中にある一部を「外していい部分」とみなすのは危険だという tummygirl さんによる指摘は重要だ。「ジェンダーフリー」という言葉には様々な問題がある。人によっては「ジェンダーフリー」を擁護しなければいけないと思うかもしれないし、「ジェンダーフリー」などやめて違うものを打ち出そうとする人もいるだろう。しかし「ジェンダーフリー」をぐにゃぐにゃに骨抜きにすること4 、あるいは何か他の言葉で言い換えようとすることには、「クィア外し」の実践を伴う危険があるし、事実これまでそのような言説実践が行われて来たことは注意しなければならないことだ。

脚注

  1. そもそもこのサイトは何か同じ意見を持った人たちの集団ではないし、それぞれの立場で発言をしているのだけれど、それでもこのサイトの制作・公開・充実化・普及などに関わっている者としては関係者がみな考えるべきことだと思う。もちろんそれは、ボク自身を含めて。
  2. たとえそれがそもそも初めの段階から過去のフェミニズム・女性運動の遺産を受け継がない行政・学者主導型のものであったとしても、「ジェンダーフリー」という言葉には無難な狭い意味での「男女平等」の射程を超える可能性があった。だからこそバックラッシュ言説においてはその「クィア」性あるいは「クィア」な可能性というものが叩かれたのだ。
  3. 『バックラッシュ!』における山口智美論文「「ジェンダー・フリー」論争とフェミニズム運動の失われた10年」に詳しい。
  4. それにしても「男女平等」だって抵抗が大きいことはもちろんそうで、実際に「ジェンダーフリー」って言葉が出て来て行政においても一度採用されたのは「男女平等」という言葉を使うことに反対があるだろうという懸念のもとだろうけれど。そう考えると「男女平等」に立ち戻ったところでそれだって全然「無難」ではないことは分かっています。「男女平等」ならバックラッシュなんて起きなかったのに、という推定もあやしいもんだと思う。だから上野千鶴子さんが「男女平等」でいいのに、と言うときにそういう想定のもとで言っているのなら、それは楽観的すぎる。実際はどちらも「無難」ではないんだ。「私たちの言っていることは無難ですよ」という考えがそもそも(斉藤さんが言っている通り)「ジェンダーフリー」概念の普及につとめた人たちの一部にあったと思うし、逆に今は( tummygirl さんが言っているように)「ジェンダーフリー」を「男女平等」に矮小化しようとしている人たちにも当てはまると思う。無難じゃなくていいじゃないか、とは言えていないのが悲しい。

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「『ジェンダーフリー』ではなく『男女平等』だ」と言うことの危険性

執筆者:マサキチトセ

今日は、ブロガーの tummygirl さんによる「マッチポンプ、あるいは、対立の禁止が対立をつくりだす」というエントリ、及び小山エミさんの「上野千鶴子氏『バックラッシュ!』掲載インタビューのバックラッシュ性」を紹介する。

「ジェンダーフリー」という言葉を「性差の否定」だとして糾弾するバックラッシュ言説に対抗するために、少なからぬフェミニストが「フェミニズムは性差を否定しない」「男女平等を目指す」と言った対抗言説を構築してきた。しかしそこで想定されてしまったのは、フェミニズムが本来優先的に取り組むべき問題が、男女二元論の解体や撹乱ではなく、あくまで異性愛的でシスジェンダー的な「男女」の問題であるということだ。既存の男女二元論に対して疑義を挟もうとする者、そこに不快感や苦痛を感じる者などの存在を優先的に低い位置に置き、「フェミニズム」の外部へと押し出すようなかたちでバックラッシュへの対抗言説を構築しようとしているフェミニストは、そもそも LGBT の問題に関わる関わらない以前に、これまで男女二元論や異性愛のシステムを批判して来たフェミニズムの存在自体をも否定してしまっている。

日本女性学会シンポジウム「バックラッシュをクィアする」

そもそも tummygirl さん他が幹事会にシンポジウム企画を持ち込んだ段階では、「クィアする」対象は(バックラッシュ言説ではなく)バックラッシュ言説に対するフェミニズムの対抗言説であった。それは、上記のような問題関心から発せられた議題だ。にも関わらず、最終的にシンポジウムは「バックラッシュをクィアする」というテーマにすり替わり、むしろ「フェミニストとクィアとが共同してバックラッシュ言説を批判するという枠組みが採用され」てしまった。その点について詳しく tummygirl さんが述べているので、重要だと思う箇所を少し紹介したい。

今回のシンポジウムで明らかになったのは、フェミニズムとは根本的にストレートなものであり、その点において取り組むべき課題の優先順位は究極的には自明、との前提。この前提は、まさにその前提それ自身への批判を、あらかじめ「フェミニズムの正当な内部/本体」には属さないものとして封じ込める、同時に、「フェイニズムの外部に存在する敵」をあらたに作り出してしまう。

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シンポジウム企画を提出した後、企画の意図が少しずつずらされ、批判が少しずつ封じ込められていく様子を、私は苦々しい思いで眺めていました。

私はまったく疑うことなく、「ジェンダーフリー」というのは、<生物学的>性差を含め、男女の性差といわれるものそのものに疑問や批判を投じる態度なのだろうと考えました。

[…]

ですから、たとえば「ジェンダーフリーというのは男女の性差までも否定する過激なフェミニスト思想だ」というような、いわゆるバックラッシュ言説を目にしても、それが大きく的を外したものだとは考えなかったのです。

[…]

ところが、よく良く聞いてみると、どうやらジェンダーフリーというのは「男女の性差は否定しない」ものであるらしい。

[…]

しばらくすると、それこそがジェンダーフリーの正しい理解であり、「性差を否定するというのはバックラッシュ側のいいがかり」である、ひどいものになると、「男らしさ、女らしさを否定するわけではないが、その押し付けに反対する」ことがジェンダーフリーなのだ(03年の女性学会幹事会有志による、『Q&A男女共同参画をめぐる現在の論点』においても、これと非常に類似した表現が確認できる)、さらには、「男女同室着替えとかユニセックストイレなんてトンデモ言説と一緒にするな」というような表現までもが、たとえばフェミニズム系のMLやサイトなどで、頻繁に見られるようになっていきました。

注意していただきたいのですが、ここで私が主張したいのは、フェミニズムは性差を否定すべきだ、ということではありません。そうではなくて、バックラッシュ言説への対抗において、「フェミニズムが既存の性差の形態を否定するかもしれない可能性」というものを、フェミニズム自身が(あるいは一部のフェミニストが)積極的に隠蔽してしまった、ということを指摘したいのです。

バックラッシュ言説がフェミニズムを攻撃するときに動員したのは、互いに支えあう二つの体制、すなわち、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制ですが、そこから逸脱する存在に対する恐怖や嫌悪でした。

ところが、「フェミニズムは男女平等を目指すのだ」「性差を否定しないのだ」と主張したとき、そのようなフェミニズム側からの対抗言説は、バックラッシュを意識するあまり、それらの恐怖や嫌悪を批判するのではなく、恐怖や嫌悪の対象となることを回避する方向に、向かってしまいました。

つまり、その時のフェミニズム側の対抗言説は、いわゆるバックラッシュのロジックとは違う理由で「男女平等」という理念に居心地の悪さを覚えるフェミニストや、既存の「性差」という概念に疑問をいだくフェミニストの主張を、あたかもそれは正当なフェミニズムの主張ではないかのように、扱ったのです。

少なくとも私の理解する限りにおいては、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制とは、まさしくフェミニズムが批判を向けてきた対象だったはずです。先ほども申し上げたように、その点においては、バックラッシュ言説は大きく間違えてはいなかったはずなのです。だからこそフェミニズムは、トランスのために、あるいはゲイやレズビアンやバイセクシュアルと共闘するために、ではなく、フェミニズム自身のために、その二つの体制から逸脱することへの恐怖や嫌悪そのものに、立ち向かうべきだったのです。

今回のバックラッシュ言説がもっとも露骨な形で攻撃の対象とし、そしてフェミニズム側の対抗言説がもっとも簡単に切り離そうとしたのは、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制とを覆す、「クィア」なあり方でした。つまり、そのような存在を、望ましくないもの、切り離すべきものとして扱った点において、フェミニズムの対抗言説はバックラッシュ言説と、無自覚な共犯関係を結んでいたのです。

バックラッシュをかわすためにクィアを切り捨てることと、クィアとフェミニズムが共闘しているというメッセージを送ろうとすることとは、矛盾するように見える。フェミニズムの対抗言説に対するクィアな視点からの批判はクィアからのフェミニズムへの攻撃を意味すると考えることと、そのような批判はフェミニズムの内部分裂であると考えることとは、つながらないように見える。

けれども、これらはすべて、既存の一つの前提に基づく体制を承認するところから出たものであり、その前提と、そしてそれに基づく体制とを、再確認し、再強化する役割を果たすものである、と考えるべきです。その前提とは、フェミニズムとは根本的にはストレートなものであり、そしてその点において、フェミニズムが取り組むべき課題の優先順位は、究極的には自明である、というものです。

バックラッシュの攻撃からカッコつきのフェミニズムを守るためにクィアを隠蔽する、あるいは切り捨てる、という戦術を可能にするのは、何か。それは、もっとも攻撃にあいやすいクィアな要素はフェミニズムにとって不可欠な構成要素ではなく、あくまでも「つけたし」であって、だからそれを切り捨てても「フェミニズム」は存続しうるのだ、という発想です。バックラッシュというフェミニズムの「外部」からの攻撃に際して、フェミニズムの「本体」を守るためには、フェミニズムの外側にくっついているものを一時的に切り離すことになったとしても、まあ仕方ない、ということです。

「フェミニズム」と「クィア」との関係がそんなに単純なものではないことは、明白です。クィアな視点はフェミニズムの「中」にも存在するし、それは、少なくとも一部のフェミニストにとっては、フェミニズムの「本体」を構成する重要な要素なのです。

フェミニズムがクィア的な視座を常に完全に包摂するものだと主張するつもりもありません。けれども、バックラッシュへの対抗言説をめぐる今回の件については、すでにフェミニズムに存在している問題意識、フェミニズムが経験してきた歴史、フェミニズムの練り上げてきたロジックを通じて、十分に批判も検討も可能であるはずでした。

上野千鶴子『バックラッシュ!』掲載インタビュー

小山さんは、実践の現場においてLGBT関連の問題が「ジェンダーフリー」という看板の下で取り入れられたことを指摘し、その点で「ジェンダーフリー」ではなく「男女平等」という言葉を使うべきだという考え方には反対している人もいるということを紹介する。

「ジェンダーフリー」派は、「男女平等」という言葉は男女の違いを前提として「異なる、しかし対等な扱い」を許容するから時代遅れなのだという。しかし『バックラッシュ!』掲載の山口智美さんや長谷川美子さんの論文を読めば、そして男女共同参画基本法以前の日本の女性運動の歴史を学べば、「ジェンダーフリー」派によるこうした議論は間違いだと分かる。ましてや、80年代からはじまっている男女混合名簿(というか、単なるあいうえお順の名簿)推進運動まで90年代以降に起きた「ジェンダーフリー」運動の成果にしてしまう議論に至っては、もはや歴史修正主義に近い(斉藤正美さんによる「ジェンダーとメディア・ブログの 6/16 の記述の [3] を参照)。日本の女性運動が推進してきた「男女平等」という言葉は、決して「性別特性論」などに与するものではなかったはずだ。

ところが、フェミニズム内部で「ジェンダーフリー」に対する否定的な意見が聞かれるようになるにつれ、全く別の面から「男女平等よりジェンダーフリー」を主張する声が聞かれるようになってきた。その代表的な論者が、このブログや斉藤さんのブログでさかんにコメントを寄せてくださっている HAKASE さんであり、『バックラッシュ!』キャンペーンブログでチャットにお招きした筒井真樹子さんだ。ゲイという立場から発言している HAKASE さんと、全ての人に共通のジェンダーライツという観点を提示している筒井さんではやや立場が違うのだけれど、「ジェンダーフリー」にセクシュアルマイノリティの問題や性別二元論を疑う視点まで含めようとする点が共通している。

もちろん「ジェンダーフリー」を最初に考案した人たちは、セクシュアルマイノリティの権利や性別二元論の解体を主張するつもりで「ジェンダーフリー」という概念を提案したのではない。そのことは、「ジェンダーフリー」の初出とされる東京女性財団作製の冊子「Gender Free」がまったく強制異性愛主義を疑わないばかりかそれを前提としていることから明らかだ。しかし実際の実践の現場において、「ジェンダーフリー」の看板の元で例えば学校でレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー (LGBT) の当事者を招いて生徒の前で話をしてもらうといった具合に、一部で先進的な試みが行われたこともまた事実だ。また、「ジェンダーフリー」の意識啓発としてセクシュアルマイノリティに対する差別への取り組みも行われた。にもかかわらず「ジェンダーフリーではなく男女平等」に方針転換するのは、せっかく始まったばかりのセクシュアルマイノリティに関する教育プログラムを頓挫させることになるのではないかと HAKASE さんらが恐れるのももっともだ。

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そう説明した上で、この問題について「ジェンダーフリーではなく男女平等」を掲げる上野千鶴子さんがどのような考えを持っているのかを、『バックラッシュ!』所収のインタビューをもとに検証している。インタビューの中で上野さんがしている様々な発言を取り上げて、小山さんは次のように言う。

どうやら上野さんが「ジェンダーフリーより男女平等」を主張することのかなり大きな要因として、本来なら「男女平等」、特に「ヘテロ女性」の問題を扱うべき(だと彼女が信じている)「男女平等」が「ジェンダーフリー」と置き換わることで、セクシュアルマイノリティに関する教育が可能に「なってしまう」ことへの反発があるのではないかと感じる。非常に残念だし、日本のフェミニズムや女性学の「業界」でこうしたホモフォビックな、あるいはトランスフォビックなバックラッシュ言説が容認されており、反「バックラッシュ」を標榜する書籍にまで登場してしまうというのは、いかに「多様な言説を集めた」本とはいえちょっとわたしの理解を越えている。

この批判に対して上野さんと小山さんのあいだで対話がなされ、その結果がまとめられている

コメント

一方で「二元論を超えるためには『ジェンダーフリー』だ」という考え方があり、もう一方で「『ジェンダーフリー』は性差を否定するものではない」のにも関わらず「そういう誤解があるから、『ジェンダーフリー』ではなく『男女平等』と言うべきだ」という考え方がある。

しかしこれらの考え方は両方とも、「男女平等」を(ある程度)「性別特性論」や「男女二元論」とみなす前提に基づいているのだ。しかし「ジェンダーフリー」という言葉が生まれる前からフェミニズムの中には性別特性論や男女二元論を批判する声があった。更に言えばフェミニズムの中には強制異性愛社会を批判する考え方が多数存在してきたし、「女性」がジェンダーの不正義だけに左右されるのではなく人種や民族、階級、セクシュアリティなどによって様々な影響を受けていることもフェミニズムの内部からずっと指摘されて来たことだ。

そういった歴史を継承することなく「これまでの『男女平等』論ではなしえなかった男女二元論からの脱却」としての「ジェンダーフリー」を主張したり、あるいは救済すべき対象としての「女」よりも優先順位の低いものとしてセクシュアル・マイノリティを位置づけることで自動的に「女」というカテゴリーからレズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダー女性などを追い出し、同時に「女」というカテゴリーに残された女たち(レズビアン・バイセクシュアル・トランスジェンダー女性でない女たち)の日々の生活の中での「揺れ」や「迷い」、「自分の『女』というカテゴリーへの違和感」などを無化することは、フェミニズムの豊富な歴史を捨て去ることであり、もっと言えば、先人たちの実践・理論をないがしろにすることだ。

このように、「ジェンダーフリー」という言葉が引き起こしたフェミニスト言説には問題が多い。バックラッシュ言説に対して「わたしたちはそんな過激なことを主張しているのではない」ではなく、「そうだけど、それが何か?」と少しでも言えたとき、「フェミニズムはその蓄積をきちんと継承して活かしているのだ」と胸を張って言えるだろう。