田村哲樹氏によるシノドス・ジャーナル掲載の「社会運動は『戸惑って』いるのか? あるいは、『失われたもの』をどのように取り戻すのか?」は、『社会運動の戸惑い フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』(以後、『戸惑い』本、と略す)に関する書評である。『戸惑い』本については、刊行後、幅広い方から書評やコメントをいただいているものの、男女共同参画と関わりの深い女性学・ジェンダー学者からは表立った応答はまだいただいていない。そんな中、ジェンダー学や男女共同参画政策に関わりが深い田村氏が書評を書いてくださったのは、大変うれしいことである。
田村氏は、『ジェンダー法・政策研究叢書』や『ジェンダー社会科学の可能性』シリーズなど大沢真理、辻村みよ子といった女性学・ジェンダー学者が編纂する叢書でも論考を執筆している上、ご自身もフェミニズムに関する単著『政治理論とフェミニズムの間 国家・社会・家族』を著している。
さらに田村氏は、名古屋大学男女共同参画室に所属した経歴をもち、愛知・岐阜・三重の三県下自治体などで男女共同参画審議会委員や講座講師を務めるなど、男女共同参画政策にも深い関わりをもつことを自著でも明らかにしている(田村2009:200)。
一方同氏は、政治の規範理論では、異なる人々の間で「『熟慮し議論する』こと、その結果として選好が変容することの重要性」を唱えるなど、民主主義社会における政治過程として「熟議」や「熟議民主主義」を重視している論客としても知られる(田村2008;2010)。
実は、田村氏への応答については、書こうと思ったにもかかわらず、なかなか考えがまとまらなかった。うんうんうなって1ヶ月余り、なぜ田村氏へのレスが書きづらいのか、ようやく私なりにわかったことがある。
それは、田村氏の書評が、現実の男女共同参画政策やフェミニズム運動の実態とは別個に、いや、別個にというとちょっと語弊があるかもしれないが、直接関係することを避けた点も多い議論であったことが大きいと思う。そのために、あくまで現実に即した議論をしたい私は、どうやって議論していいか、考えあぐねたことがあったように思う。
1)現実から離れていく議論
近年、フェミニズム研究が運動から生まれたにもかかわらず、次第に現実に即した問題群より 構築主義、「ジェンダー概念」といった理論系の仕事を評価する流れが強くなっているように思う。そして 2000年代半ばにおきた対抗運動については、「バックラッシュ」と批判しつつも、それがどういった人々の動きであるかの実態調査も行われなかった。そうした事態に対し、 男女共同参画政策の現場での実態を踏まえて問題提起することが重要だと考え、政策立案過程とフェミニズム運動の双方に関わる中での経験を践まえ、新たにいくつかの事例について調査を加えたのが、私にとっての『戸惑い』本であったとも言える。
フェミニズム運動については、私自身1980年代初めから富山での運動に関わってきたし、またフェミニズム研究については、論文や書籍など文献のみならず、1990年代初めからフェミニズム研究者との交流経験も少なからずあった。一方、男女共同参画政策については、1990年代初めから2000年代初めまで、断続的ではあったが、15年間にわたり、富山県高岡市で市の女性政策立案過程にかなり時間を割いて関わってきた。関わっていない時期も女性運動には関わってきたので、関心を注いできた。
さらに『戸惑い』本における著者のスタンスについては、「斉藤・山口はフェミニズム研究や運動に当事者として深く関わってきている。ここで指摘したことは、決してどこかにいるフェミニストや女性学・ジェンダー学者らのことを指しているのではない。これは筆者自身へとはねかえってくる自省の物語であり、どうしてこうなったのかという省察でもある」(ローマ数字の4頁)としている。
こうした問題認識に立って書かれた『戸惑い』本について論ずる田村氏の書評だが、現実から離れた議論が多いように私には映った。
その理由の第一に、田村氏が 直接的に関連するテーマについてご自身が 研究を行ってきたことに触れていないことがある。田村氏には、山口県宇部市の男女共同参画条例について論じた先行研究があるが、書評では触れられていない(田村2006a)。 さらに、田村氏は書評において、「この時代を、これまでのフェミニズム・女性運動の成果の帰結としての男女共同参画社会基本法の制定とそれに基づく様々な政策の形成によって肯定的に評価する立場もあるだろう」と述べている。
しかしながら、田村氏自身こそが「1990年代後半以降の日本においてはナショナル・マシーナリーとしての内閣府男女共同参画局を中心に、ジェンダー平等政策の推進が図られてきた」(田村2006a:92)と男女共同参画社会基本法の制定とそれに基づく様々な政策を肯定的に評価し、実際にも取り組んでいる立場であることには触れていないのだ。
このように、『社会運動の戸惑い』に書かれた内容について田村氏の具体的な経験があるにもかかわらず、そうした自身の先行研究やそこで下してきた男女共同参画条例や政策への評価についてはまったく触れないままに、第三者の視点に立ち『戸惑い』本について批判的な議論をしていくのである。こうした田村氏の議論の進め方から、議論が現実より離れて、抽象的な次元に向かっている印象が避けられなかった。
また、論文における考察のみならず、田村氏は、自身がいわゆる「バックラッシャー」の批判を受ける立場になるという経験も持ち併せているようだ。本書5章で取りあげた福井の近藤實氏は、2008年4月6日以降「名古屋大学男女共同参画室への苦言」メールを何度も出したことをブログで報告している。そこでは名古屋大学サイト上に掲載されている、田村氏執筆の名古屋大学のジェンダー関連授業に関する文書(田村2004)が近藤氏から批判の対象とされている。
近藤氏から批判の対象となったのは、田村氏も執筆に加わった『ジェンダーを科学する――男女共同参画社会実現のために――』(ナカニシヤ出版)であった。自身も執筆者である書籍が批判対象となっている以上、当事者意識がないとは考えづらい。だが、こうした自身の具体的な経験についても書評ではまったく触れられていない。
田村氏は、本書を批判する際、本書が「『具体像』『現実』を明らかにするというより『批判』の方が強く出ている」と難じるが、同じ事象について自身が先行研究を執筆していることや、自身が草の根保守運動家から批判されたことがあることには触れないままに、当該事象について論評している。田村氏は、「価値の出すぎない」公平な論評を目指すというがために、自身の先行研究の有無や、当該事件との関わりも示さなかったのだろうか。だが、それを示さず、あくまでも第三者的視点からのみ論評することは、果たして「公平な論評」だと言えるのであろうか。
さらに、田村氏は、政治理念を語る際には、熟議や熟議民主主義を重視していると主張している(田村2008;2010)。本書で描かれている保守運動家の姿や思いをどのように受け止めたのか、男女共同参画政策を進める側として、また攻撃を受ける側の当時者として自身がどのような思いや考察をしたのか。こうした論点について、田村氏が重視されている熟議という観点からの分析を伺えると、現実の政治過程において熟議という概念を実践的に考察することになってより一層興味深かったように思う。
2)ジェンダーフリー誤読問題への突出した関心
ここまでは、田村氏が書かなかったことについて記した。だがこの書評について、田村氏は「『書評』といっても、およそ1万6千字くらいありますので、かなり異例ですね。」と自身のブログで述べている(田村2013)。では、このような原稿用紙40枚を越す、いわば一つの論文に匹敵する長文の書評で、田村氏は何について記述しているのか。
田村氏書評では、最初に『戸惑い』本についての概要が示され、次いで、詳細なフィールドワークを通じて、保守運動の実態と男女共同参画条例制定をめぐる地方政治の政治過程を丹念に描き出している、という本書の意義が記されている。ただ、意義の部分は500字とごく短い。『戸惑い』本を紹介する概要部分を含めたとしても、全体の1割程度である。そしてそれ以外の、全体の9割近くが「本書への疑問また論点」から成っている。
では、田村氏は本書のどこに興味を示しているのか。田村氏がもっとも大きな紙幅を割いて論じているのが、一章「ジェンダーフリー」とその「誤読」問題についてである。「ジェンダーフリーの誤読」問題については、学者が行った誤読を明らかにした山口が論じるだろうから私は立ち入らない。しかしながら言えることは、このテーマについての田村氏の記述箇所は、5000字近くであり、書評全文の27%を占めている。 草の根保守運動に関する記述が500字程度で約3%であったのに比べ10倍の分量を占める。田村氏がジェンダーフリー誤読問題に寄せる関心の高さが示されている。
そもそも、田村氏が縷々論じている「ジェンダーフリー誤読」問題の論点は、『戸惑い』本では、「バーバラ・ヒューストン誤読事件とその後の混乱」というわずか2ページ弱の小節である。単に、誤読事件とその後の顛末を簡略に示しただけで 本書全体では決して大きな扱いではなかった。当初、この箇所は、別の媒体で既出なので外そうかという意見もあったくらいだ。
それが評者にかかると書評の三分の一近くを占めるとは、英語原典に当たることなく学者が次々に拡散していったという誤読問題をめぐる経緯が、田村氏にとっていかに大きな問題であるのかを改めて浮き彫りにしている。
しかも、「ジェンダーフリー誤読」問題についての田村氏の主張が、「『完全なる誤読』とまで言えるかどうかは、疑問である」というもので、弱い主張に分類される議論である。そうした幾分差し挟む疑問といった程度の主張が、全体の3分の1ほどまでの大きな紙幅を占めているわけだ。これは、田村氏の関心が現実的な男女共同参画政策よりも 学者による誤読をめぐる議論というジェンダー学者絡みの課題に向いているということを映し出しているようにも思える。
3)「再帰性」:政治学での注目と批評での消失
田村氏が真っ先にあげた批判は、「フィールドワークに基づく記述だけではなく、著者たちの2000年代フェミニズムに対する価値判断がはっきり表れている」という点にあった。「本書がフィールドワークに基づく記述を謳うのであれば、その記述をもう少しフィールドワークで得られた知見に止めるべきではなかっただろうか」というのである。
そして、「具体像」「現実」を記述するはずの箇所に、「しばしば、『上から』『外部から』への、あるいは『啓発事業』中心の男女共同参画への著者たち自身の批判的な評価を差し挟むものとなっている」と田村氏は述べる。さらに、「後半は『具体像』『現実』を明らかにするより、『批判』の方が強く出ているのである」や、「学術書として見る限りでは」「批判の対象となり得るのである」とする。すなわち、価値判断が出過ぎるものは「学術書」としてふさわしくないと田村氏は主張する。
ところで、田村氏は、宇野重規・田村哲樹・山崎望『デモクラシーの擁護 再帰化する現代社会で』(ナカニシヤ出版)において、「再帰性」という言葉を「現代の社会理論においてもっとも注目の集まる概念の一つである」(宇野・田村・山崎2011:ローマ数字の3)とし、「キーワード」として積極的に使っている。その際、「再帰性(リフレクシヴィティ)」という概念は、「自らや自らの行為を振り返ること、またその反省の結果として、自らが変わっていくこととして理解しておきたい」(宇野・田村・山崎2011:ローマ数字の3)と説明する。
「熟議」と同様に、この「再帰性」も自らの行為や経験を通して「変わっていくこと」を重視する考え方と言えよう。田村氏が「行為を振り返ること」「反省の結果として自らが変わっていくこと」を重視されていることが見てとれる。
一方、1970年代以降のウーマンリブやフェミニズム研究は、社会を再定義し再解釈することに取り組んで来た。個人的なこと、日常的なことが政治的な力関係につながっていること(「個人的なことは政治的である」)から、日常生活に根を持った権力とどう闘うかを考えたからだ。そうした潮流の一つに、学問や知を再定義する流れもあり、分厚い蓄積が存在する(例えば Harding 1986; Haraway 1988; Ramazanoglu& Holland2002 など多数)。
フェミニストによる社会科学を再解釈する初期の取り組みであるスタンレーとワイズによる『フェミニズム社会科学に向かって』(勁草書房)を例にあげる。ちなみにこの書は、初期の研究であるため、運動との関わりについての問題認識を強く残しており、また研究と経験との関わりについて深く追求している。そこでは、研究と研究者の関係は次のように再定義されている。
『研究』とは、ある人間を媒介して生起する過程である。研究者は、常に不可避的に研究の中にいるのである。そう公言されているかいないかは別として、研究者の存在は否定できない。(スタンレ−&ワイズ1987:257)
それは、研究者と研究が密接に絡み合うからでもある。以下、引用する。
私たちがどのような人間なのか、そしてどのように研究を経験するかは、私たちが何を見、何をするか、またどのような出来事を解釈し、構成するかといった問題にとって決定的な影響を与える。フェミニストにとってこれらの経験は研究結果についての議論からはずされるべきではない。はずすようなことをする限り、私たちは従来男性がしてきた「研究」や「科学」の神秘化を単に繰り返すだけにとどまる。またそうすることで個人的なものや日常的なものを過小評価することにもなるだろう。(スタンレ−&ワイズ1987:75)
研究者はどこでもない場所に立ち、「中立」に判断を下す存在などではなく、研究過程に自身が立ち入っていることを広く認めることを主張する。さらに、真実や客観性という概念すら、研究者自身の行為や価値観を含んだ社会的経験に他ならないと、次のように述べる。
「真実」は社会的構成物であって、その意味で「客観性」と同じように、経験から構成されるのである。しかも実際これらの経験は「嘘」や「主観性」と同一なのである。したがって、すべての研究はそれが一人の人間の眼をとおして「現実」を見、構成するという意味において「フィクション」である。(スタンレ−&ワイズ1987:251)
フェミニズム研究における再帰性は、「総じて、権力関係ならびに研究過程で生じる力関係を明らかにしようとする行為を指す」(Ramazanoglu2002:118)と理解されている。フェミニズムが学問の権力性を再考するために、糸口の一つとしたのが、「再帰性」の概念であった。
ウーマンリブ運動から発展したフェミニズム研究では、それまで学術研究から女性の経験が捨象されてきたことから、学術研究が「どこでもない場所」に立つことによって権力を持つことに敏感であったからだ。スタンレーらが述べている「研究者は、常に不可避的に研究の中にいる」という発送が研究や調査の過程で生じる権力関係に敏感な「再帰性」につながったといえよう。
別の表現をするなら、かつて、「学術」や「知」として正当であるか、ないかを決めるのは、「どこでもない場所」に立ちうる男性知識層だけであった。そのため、フェミニストたちは、自身の依って立つ立場を明らかにし、自身の経験を研究から除外せず、さらに自身がいかに研究対象に関与しているかという再帰性に敏感な研究を選択してきたのである。『戸惑い』本は、基本的にこうしたフェミニズム研究の流れを踏まえた研究実践であった。
一方、自らの「反省」や「変わっていくこと」を指す「再帰性」や「熟議」という概念を自らの政治学のキーワードと掲げる田村氏だが、フェミニズム本の書評である本論考においては 政治学者としての自身の理論的立ち位置とは異なる視座に立って分析しているように思われる。
書評では、自身が行った先行研究の存在や、保守派から受けた批判の経験、ならびに自身と女性学・ジェンダー学との関わりなどについての情報がすべて省かれ、「どこでもない場所」からの「中立」な論評者という位置をとっている。男女共同参画政策を論ずる書評で、書き手が自治体の審議会委員や講座講師を務めてきたことは読者にとって重要な情報である。しかしながら田村氏は、このような自身と男女共同参画との関わりについて一切触れないで考察する。
政治学の理論を論じる際には、「再帰性」や「熟議」を高らかに掲げる。翻って、『戸惑い』本の書評で、現実の男女共同参画政策の政治過程を論じる段になると、中立で学術的という伝統的な原理に立ち戻る。自分自身を問題とする「再帰性」に立ち返ることなく、「どこでもない場所」から当該書を批判する位置取りを確保する。
田村氏は、わたしたちの生きる後期近代という社会では、各人はさまざまなリスクに対して集団ではなく、自分自身で解釈し対処していかねばならない再帰的な社会であり、そうした個人の再帰的な行為が新たな構造を生み出す可能性へと開かれていると述べているが(宇野・田村・山崎2011:15-39)、氏が書評においてとった位置取りは、こうした後期近代の再帰性という秩序とは相容れないものと私には映った。
こうした田村氏の書評を読みつつ考えさせられたのは、現実社会との関わりは、フェミニズム研究の生命線であることの再確認であった。それと併せて、フェミニズムや男女共同参画というテーマにおいて、研究と男女共同参画政策や推進活動との連携はどうしたらいいのかということも考えるようになった。
私自身を含め、審議会委員や講座講師として招かれて男女共同参画に関わる研究者が多いが、そうした特定の自治体との関わりを持つ研究者はどこまで男女共同参画政策の実態一般について把握しているといえるのだろうか。私自身もそうであったが、調査研究をしていなくても、審議会委員や講座講師に指名されるだけで自身を男女共同参画の実態に詳しい専門家のように錯覚することも往々にして起きる。だが、居住自治体以外の地域に調査に出向いてさまざまな立場の方に聴き取りをする中から、指名されて参加する研究者の立ち位置から来る特権性や付随する視野の狭さも感じるようになった。
研究者の審議会参加をめぐる状況に関連しては、『戸惑い』本の4章都城の条例の特異性に関して述べている箇所で若干触れている(198頁)が、研究者の地域における男女共同参画政策への関わりの功罪についても議論していく必要はあると思う。
田村氏の書評を通じて、フェミニスト研究者として拠って立つ地点はどこにあり、何をめざして研究・執筆をしていくのかについて考えを深めるよい機会をいただいた。また男女共同参画について検証をすすめていく必要性についても考察することができたことにも感謝したい。
■参考文献
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(初出 2013年4月19日)